第一章 二つの後宮
第2話 宮女になります
四方を高い外壁に囲われ、碁盤の目のように路地が入り組む
低所得者層や移民が多く暮らす南の区画は、今日も雑然とした空気で満ちている。
その一角にある狭い
「うーん、あと三日ぶんかぁ」
かき集めた銅銭と薬包を交互に見て、
机に突っ伏しながら悩んでいると突然、房の
顔を見なくても誰であるかはわかる。こんな無神経なまねをするのは、団員では一人だけ。兄弟子の
玉玲はのっそりと振り返り、雲嵐に恨みがましい目を向けた。
「
玉玲の視線など石に
この兄弟子にだけは、もう何の遠慮もしてやるまい。
「うん。次のぶん買うお金が集まらなくて」
玉玲ははっきりと実状を伝えた。
「俺たちの収入だけじゃ、たりないのか?」
「ちょっとね。京師の家賃って結構かかるし、薬代すごく高いから」
京師に名医がいるという話を聞き、嶺安に移り住んで半年。生活費と医療費で、各地を旅して稼いだお金も底を突きかけている。雲嵐や他の団員たちが京師で働き、お金を入れてくれているが、それでも追いつかない。
「あの医者、少し名が知れ渡っているからって、ぼったくってんじゃないだろな」
「そんなことはないでしょ。実際、京師のお医者さんに診てもらってから、師父の症状は少しよくなったし。他のお医者さんじゃ、悪化する一方だったんだから。ここでの生活をやめるわけにはいかないよ」
玉玲は養父の病状に思いを巡らせる。
十二年前、一度病に倒れはしたが、養父はその後回復し、しばらくは何事もなく旅を続けられていた。再び病を得て倒れたのは、二年前の話だ。そこからどんどん悪化して、今では立ちあがることもできなくなっている。とても連れては回れないし、こんな状態の養父を京師へ一人置いていくわけにもいかない。
「せめて京師で公演できればいいんだけどな。俺たちだけでもさ」
「嶺安は申請時に必要な上納金が高いからね。うちの雑伎団ではまず払えないし」
嶺安で公演できるのは、京師に拠点を置く大型雑伎団くらいだろう。自分たちのような総勢十名の弱小雑伎団では手の施しようがない。
公演も移動もできない。かといって、団員たちの稼ぎでは薬代を捻出することもできず。つまりは八方ふさがりというわけだ。このままでは。
「ねえ、私も町で働けないかな?」
「それやったら、師父の看病やこの家のことは誰がやるんだよ?」
ずっと考えていた意見を伝えると、雲嵐はすぐに難色を示した。
「でも、薬がなければ師父の病はよくならないんだよ? 私が稼ぎまくれば、
「稼ぎまくるって、お前が働いたところで、俺たち以上の稼ぎは得られないだろ」
「それがね、私、聞いちゃったんだ。男以上に稼げる仕事があるって」
玉玲は立てた人差し指を左右に揺らし、不適な笑みを浮かべる。町で密かに働き口を探していて、情報を得たのだ。女にしかできない破格の仕事があると。
養父の薬代を
「よし、決めた。私、そこで働くことにする! 師父のことはお願いね!」
「って、おいっ。玉玲!」
突然走りだした玉玲を、雲嵐が直ちに呼びとめる。
もちろん玉玲は止まらない。思い立ったら吉日。善は急げだ。
嶺安の町には夕闇が迫り、西の外壁の奥へ太陽が収まろうとしていた。
仕事を終えた労働者たちが、疲れた顔で
薄汚れた狭い路を、玉玲はひたすら北へと駆けた。
皇城のある北の方角へ進めば進むほど路は広くなり、華やかさをまとっていく。建物もうらぶれた民家から立派な造りの邸宅へ。
赤い瓦屋根の
千鳥足で歩いている官服の男性は、嶺安の下級官吏だろうか。もう冬だというのに、露出度の高い
玉玲は全速力で通りを駆け、ひときわ
ここが京師で一番羽振りがいいと言われている店、
「ごめんください!」
しばらく待つと、胸もとの開いた赤い
「何だい? これから営業が始まろうって時に」
「私、曲芸師をしている玉玲っていいます。私を
玉玲は勢いよく頭を下げ、単刀直入に申し出た。そう、妓女になるために。
養父の薬代を捻出するためには、
「冗談はよしておくれよ、お嬢ちゃん。京師ではね、子供は妓女になれないんだ」
「私、子供じゃありません! これでも十七です!」
「十七っ!?」
女性は驚愕に目を
そこまで驚かなくてもいいのに。年齢を言うと、だいたい似たような反応をされるけど。
玉玲は若干落ちこみつつ、自らの容姿を
目はぱっちりとして大きく、鼻と口は小さい。いわゆる童顔だ。一つに編みこんでいるだけの髪型も、顔立ちの幼さに拍車をかけているかもしれない。体つきは
せめて
考えなしに飛びだしてきたことを反省していると、女性が玉玲を見回しながら言った。
「十七なら年齢的には問題ないけど、その顔と体じゃねえ。胸なし、くびれなし、色気なし。はい、失格!」
「ええっ!? そんなぁ!」
速攻で不合格を申し渡され、玉玲は不満の声をあげる。
確かに、胸もくびれも色気も
「お願いします! 私、体力と身軽さと体の丈夫さだけは自信があるんです。妓楼って芸を売る女の人もいるんですよね? 綱渡りでも皿回しでも何でもやりますから、ここで働かせてください!」
玉玲は長所を挙げて、必死に交渉する。
「だめだめ。体力があって丈夫な男ならたくさんいるんだ。芸っていっても曲芸じゃねぇ。あんたじゃ売り物にならないよ。帰った帰った」
女性は
すると、
「まあ、待ちなさい」
玉玲の後方から取りなすように男性の声が響く。
振り返ると、深緑の
常連客の官吏なのか、女性が「これは官人様」と言って、
男性は玉玲へと近づき、顔や体を観察して、こう
「君、さっき何でもすると言っていたね? いい仕事があるよ。新米妓女くらいの給金にはなる」
玉玲は目を見開くや、その話に食らいつく。
「教えてください! 何ですか?」
男性はニヤリと笑って答えた。
「後宮の宮女だ」
「……宮女?」
「皇帝陛下の妃妾に仕えたり、後宮内の雑事を処理する下働きのことだよ。最近、後宮で
思いがけない勧誘に、玉玲はしばし黙考する。
うまい話には裏があると言うが、お金をもらえるのであれば、どんな仕事でもしたい。
「給金って、具体的にいくらもらえるんですか?」
「月に五百
予想以上の金額に、玉玲は目の色を変える。五百阮といったら、師兄の月給の倍だ。団員が誰か仕事を辞めても、かなりのたしになる。
「ぜひお願いします!」
「待ちな!」
笑顔で応じる玉玲だったが、話を聞いていた妓楼の女性が引きとめた。
「官人様、勘弁してやってください。こんな子供を徴集しようだなんて、かわいそうですよ」
「私、十七ッ!」
玉玲は即座に主張する。もう忘れたんかい。
「お嬢ちゃん、悪いことは言わないよ。宮女だけはやめておくんだね。あそこの仕事はきつくて、朝から晩まで働き通し。年季が開けるまで最低三年は外に出られない。いじめや不正も横行してるっていうし。何より、怖い
「……怖い噂?」
「ここのところ毎年必ず、原因不明の病が流行するんだ。何名も犠牲になるらしい。命が惜しいならやめときな。それに、もう一つ。後宮の北側には――」
「やめてくれ、
女性が何かを語ろうとしたところで、男性が
何やらいわくつきの仕事らしいが、お金さえもらえるのであれば構わない。
「宮女の給金って、先払いは可能ですか?」
玉玲は女性の話をあっさり受け流し、大事なことを確認した。
「ああ。応じてくれるなら、私が上にかけ合ってやろう」
「じゃあ、よろしくお願いします!」
「ちょっと、あんた! あたしの話、聞いていたのかい? 危ないよ。生きて戻れるかどうか」
「大丈夫ですよ。私、今までに一度だって病気になったことはありませんから。それに今、どうしてもお金が必要なんです。大切な人を助けるために」
心配してくれた女性に、譲れない思いを伝える。捨て子だった自分を拾い、愛情を注いで育ててくれた養父。彼を助けるためなら、どんなことだってする。たとえ、その先にどんな危険が待ち受けていようとも。
「じゃあ、明日さっそく城まで来てもらえるかい? 検問所で
男性が少しホッとした様子で玉玲に指示を出す。
「わかりました!」
玉玲は大きく
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