第一章 二つの後宮

第2話 宮女になります


 四方を高い外壁に囲われ、碁盤の目のように路地が入り組むよう帝国の京師みやこ嶺安りょうあん

 低所得者層や移民が多く暮らす南の区画は、今日も雑然とした空気で満ちている。

 その一角にある狭い四合院しごういん廂房わきべやからは、少女の溜息ためいきと独り言がもれていた。


「うーん、あと三日ぶんかぁ」


 かき集めた銅銭と薬包を交互に見て、玉玲ぎょくれいは机の前でうなだれる。へやにいるのはもちろん玉玲一人だ。必死に働いている団員たちと重い病の養父に、余計な心配をかけるわけにはいかない。家計のやりくりをまかされている自分が何とかしなければ。


 机に突っ伏しながら悩んでいると突然、房のとびらが開き、誰かが中に入ってきた。

 顔を見なくても誰であるかはわかる。こんな無神経なまねをするのは、団員では一人だけ。兄弟子の雲嵐うんらんだ。まったく、入る前に声をかけろと何度も言っているのに。いちおう今年十七になる淑女の部屋だぞ。

 玉玲はのっそりと振り返り、雲嵐に恨みがましい目を向けた。


師父しふの薬か?」


 玉玲の視線など石にきゅう、全く気にしていない雲嵐は、机の上をのぞきこんで尋ねる。


 この兄弟子にだけは、もう何の遠慮もしてやるまい。


「うん。次のぶん買うお金が集まらなくて」


 玉玲ははっきりと実状を伝えた。


「俺たちの収入だけじゃ、たりないのか?」

「ちょっとね。京師の家賃って結構かかるし、薬代すごく高いから」


 京師に名医がいるという話を聞き、嶺安に移り住んで半年。生活費と医療費で、各地を旅して稼いだお金も底を突きかけている。雲嵐や他の団員たちが京師で働き、お金を入れてくれているが、それでも追いつかない。


「あの医者、少し名が知れ渡っているからって、ぼったくってんじゃないだろな」

「そんなことはないでしょ。実際、京師のお医者さんに診てもらってから、師父の症状は少しよくなったし。他のお医者さんじゃ、悪化する一方だったんだから。ここでの生活をやめるわけにはいかないよ」


 玉玲は養父の病状に思いを巡らせる。

 十二年前、一度病に倒れはしたが、養父はその後回復し、しばらくは何事もなく旅を続けられていた。再び病を得て倒れたのは、二年前の話だ。そこからどんどん悪化して、今では立ちあがることもできなくなっている。とても連れては回れないし、こんな状態の養父を京師へ一人置いていくわけにもいかない。


「せめて京師で公演できればいいんだけどな。俺たちだけでもさ」

「嶺安は申請時に必要な上納金が高いからね。うちの雑伎団ではまず払えないし」


 嶺安で公演できるのは、京師に拠点を置く大型雑伎団くらいだろう。自分たちのような総勢十名の弱小雑伎団では手の施しようがない。

 公演も移動もできない。かといって、団員たちの稼ぎでは薬代を捻出することもできず。つまりは八方ふさがりというわけだ。このままでは。


「ねえ、私も町で働けないかな?」

「それやったら、師父の看病やこの家のことは誰がやるんだよ?」


 ずっと考えていた意見を伝えると、雲嵐はすぐに難色を示した。


「でも、薬がなければ師父の病はよくならないんだよ? 私が稼ぎまくれば、師兄しけいたちがたくさん働かなくてもよくなるし、そしたら、みんなで師父の看病ができるでしょう?」

「稼ぎまくるって、お前が働いたところで、俺たち以上の稼ぎは得られないだろ」

「それがね、私、聞いちゃったんだ。男以上に稼げる仕事があるって」


 玉玲は立てた人差し指を左右に揺らし、不適な笑みを浮かべる。町で密かに働き口を探していて、情報を得たのだ。女にしかできない破格の仕事があると。

 養父の薬代を捻出ねんしゅつするためには、これしかない。


「よし、決めた。私、そこで働くことにする! 師父のことはお願いね!」

「って、おいっ。玉玲!」


 突然走りだした玉玲を、雲嵐が直ちに呼びとめる。

 もちろん玉玲は止まらない。思い立ったら吉日。善は急げだ。

 院子なかにわを横切り、大門もんから四合院の外へと飛びだしていく。


 嶺安の町には夕闇が迫り、西の外壁の奥へ太陽が収まろうとしていた。

 仕事を終えた労働者たちが、疲れた顔でみちを歩いている。

 薄汚れた狭い路を、玉玲はひたすら北へと駆けた。


 皇城のある北の方角へ進めば進むほど路は広くなり、華やかさをまとっていく。建物もうらぶれた民家から立派な造りの邸宅へ。酒楼しゅろう旅籠はたごといった商業施設もぽつぽつと並び始める。


 赤い瓦屋根の牌楼はいろうをくぐると、町の雰囲気ががらりと変わった。建物の柱や斗拱ときょうには色鮮やかな彩色が施され、どの軒先のきさきにもあやしげな光を放つ提灯ちょうちんがつりさげられている。歓楽街だ。

 千鳥足で歩いている官服の男性は、嶺安の下級官吏だろうか。もう冬だというのに、露出度の高い襦裙じゅくんを身につけた女性が、格子窓こうしまどから秋波しゅうはを送っている。


 玉玲は全速力で通りを駆け、ひときわ豪奢ごうしゃな建物の前で足を止めた。

 ここが京師で一番羽振りがいいと言われている店、香春院こうしゅんいん

 沈金ちんきんが施された丹塗にぬりの扉を叩き、まずは元気よく挨拶する。


「ごめんください!」



 しばらく待つと、胸もとの開いた赤いうわぎに、桃色のスカートを合わせた女性が現れた。年は四十手前くらい。化粧が濃くて美しい容貌をしているが、年齢が少しいっているので、ここの経営者だろうか。それならばちょうどいい。


「何だい? これから営業が始まろうって時に」

「私、曲芸師をしている玉玲っていいます。私を妓女ぎじょとしてここで働かせてください!」


 玉玲は勢いよく頭を下げ、単刀直入に申し出た。そう、妓女になるために。

 養父の薬代を捻出するためには、妓楼ぎろうで働くしかない。


「冗談はよしておくれよ、お嬢ちゃん。京師ではね、子供は妓女になれないんだ」

「私、子供じゃありません! これでも十七です!」

「十七っ!?」


 女性は驚愕に目をき、声を裏返した。

 そこまで驚かなくてもいいのに。年齢を言うと、だいたい似たような反応をされるけど。

 玉玲は若干落ちこみつつ、自らの容姿をかえりみる。

 目はぱっちりとして大きく、鼻と口は小さい。いわゆる童顔だ。一つに編みこんでいるだけの髪型も、顔立ちの幼さに拍車をかけているかもしれない。体つきは華奢きゃしゃ。子供並の身長である。浅葱あさぎ色のあわせに白いズボンという色気のない格好もまずかったか。

 せめて衣裳いしょうだけでも女性らしい襦裙にしていれば。


 考えなしに飛びだしてきたことを反省していると、女性が玉玲を見回しながら言った。


「十七なら年齢的には問題ないけど、その顔と体じゃねえ。胸なし、くびれなし、色気なし。はい、失格!」

「ええっ!? そんなぁ!」


 速攻で不合格を申し渡され、玉玲は不満の声をあげる。

 確かに、胸もくびれも色気も皆無かいむなのだが、はい、その通りです、と言って引き返すわけにはいかない。


「お願いします! 私、体力と身軽さと体の丈夫さだけは自信があるんです。妓楼って芸を売る女の人もいるんですよね? 綱渡りでも皿回しでも何でもやりますから、ここで働かせてください!」


 玉玲は長所を挙げて、必死に交渉する。


「だめだめ。体力があって丈夫な男ならたくさんいるんだ。芸っていっても曲芸じゃねぇ。あんたじゃ売り物にならないよ。帰った帰った」


 女性は容赦ようしゃなく玉玲の肩を押し、入り口から突きだそうとした。

 すると、


「まあ、待ちなさい」


 玉玲の後方から取りなすように男性の声が響く。

 振り返ると、深緑の長袍ちょうほうをまとった中年男性が立っていた。

 常連客の官吏なのか、女性が「これは官人様」と言って、拱手きょうしゅの礼を取る。

 男性は玉玲へと近づき、顔や体を観察して、こういた。


「君、さっき何でもすると言っていたね? いい仕事があるよ。新米妓女くらいの給金にはなる」


 玉玲は目を見開くや、その話に食らいつく。


「教えてください! 何ですか?」


 男性はニヤリと笑って答えた。


「後宮の宮女だ」


「……宮女?」


「皇帝陛下の妃妾に仕えたり、後宮内の雑事を処理する下働きのことだよ。最近、後宮で流行病はやりやまい蔓延まんえんしてね。人手不足なんだ。体が丈夫で体力のある若い女性を探している。どうだい?」


 思いがけない勧誘に、玉玲はしばし黙考する。

 うまい話には裏があると言うが、お金をもらえるのであれば、どんな仕事でもしたい。


「給金って、具体的にいくらもらえるんですか?」

「月に五百げんだ」 


 予想以上の金額に、玉玲は目の色を変える。五百阮といったら、師兄の月給の倍だ。団員が誰か仕事を辞めても、かなりのたしになる。


「ぜひお願いします!」

「待ちな!」


 笑顔で応じる玉玲だったが、話を聞いていた妓楼の女性が引きとめた。


「官人様、勘弁してやってください。こんな子供を徴集しようだなんて、かわいそうですよ」

「私、十七ッ!」


 玉玲は即座に主張する。もう忘れたんかい。


「お嬢ちゃん、悪いことは言わないよ。宮女だけはやめておくんだね。あそこの仕事はきつくて、朝から晩まで働き通し。年季が開けるまで最低三年は外に出られない。いじめや不正も横行してるっていうし。何より、怖いうわさがあるんだよ」

「……怖い噂?」

「ここのところ毎年必ず、原因不明の病が流行するんだ。何名も犠牲になるらしい。命が惜しいならやめときな。それに、もう一つ。後宮の北側には――」

「やめてくれ、仮母おかみ! そんな噂が流れているから誰も宮女にはなりたがらないんだ。早く人を集めろって、上官にどやされる私の気持ちにもなってくれ」


 女性が何かを語ろうとしたところで、男性が焦燥しょうそうをあらわに口を挟んだ。


 何やらいわくつきの仕事らしいが、お金さえもらえるのであれば構わない。


「宮女の給金って、先払いは可能ですか?」


 玉玲は女性の話をあっさり受け流し、大事なことを確認した。


「ああ。応じてくれるなら、私が上にかけ合ってやろう」

「じゃあ、よろしくお願いします!」

「ちょっと、あんた! あたしの話、聞いていたのかい? 危ないよ。生きて戻れるかどうか」

「大丈夫ですよ。私、今までに一度だって病気になったことはありませんから。それに今、どうしてもお金が必要なんです。大切な人を助けるために」


 心配してくれた女性に、譲れない思いを伝える。捨て子だった自分を拾い、愛情を注いで育ててくれた養父。彼を助けるためなら、どんなことだってする。たとえ、その先にどんな危険が待ち受けていようとも。


「じゃあ、明日さっそく城まで来てもらえるかい? 検問所で尚書主事しょうしょしゅじちんに会いにきたと言えばいいから」


 男性が少しホッとした様子で玉玲に指示を出す。


「わかりました!」


 玉玲は大きくうなずいて答え、未知なる後宮生活に思いをせたのだった。

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