第52話

 生まれて初めて異性の部屋に泊まった一日で、義弟の時だけ三年くらい進んでしまったように思う。


 翌日の昼前に家に戻ると、一人袋麺を茹でていた章信が、義兄の顔を見るなり猛烈に顔を赤らめた。まったくもって意味がわからなかったが、ともかく一人で昼食を作っていることに感心し、それについて言及しようと口を開くと、章信が被せるように、


「どうだったの⁉」


 と声を張り上げたのだった。


「えっ、何が」


 唐突な質問に智大は考えこむ。黒塚家に泊まったことがばれたのかと一瞬思ったが、メールには『友人の家に泊まる』としか書いていないはず。おそらくまた早とちりしているのだろう。


「だってアサガエリでしょ」火を止めた章信は、自慢げな様子でダイニングテーブルに鍋を持っていく。「麻耶姉ちゃんが教えてくれたんだ」


「また変なこと吹き込んでる……」邪魔にならない位置に移動しながら言う。章信はどんぶりに麺を移して、パックの刻み葱をまぶしている。智大はそのしっかりした姿に成長を覚え、同時に、色恋沙汰に興味を持ち始めたあたり思春期なのかとも考えた。


 でも、ゆうべは確かに、黒塚朱璃と眠ったのだった。


 雑談を終えたあと彼女は、「覗いちゃだめですよ」などと言ってほんの数分でシャワーを済ませ、寝間着姿で戻ってきた。暖かそうなフードが付いた、茶色いもこもこのパジャマだった。時刻は午後十時を過ぎていたのだったか。男女二人で添い寝はやはりまずいのでは、と鉛のような脳みそで考えて、しかし朱璃に言いくるめられた。何と言い聞かされたのだったか。

 熱のせいで記憶があいまいだが、なんにせよ一緒に寝ることを智大は受け入れた。朱璃が緊張した面持ちで掛け布団をめくり、次の瞬間電気が消えて見えなくなった。


 暗闇の中で並んで天井を見上げ、朱璃は案の定喋ったのだった。

 浦本君は美しいものにさして価値を感じないようですが、美しいとは感じるようですね、水族館にお誘いしたときも、わたくしが手品をお見せするときも、おそらくはわたくし自身に対してもそう感じていらっしゃる、と、そんなことを。

 それから智大は暗闇に話しかけるよう淡々と言った。そうだね、君は綺麗だと思うし、そう思ってることも君はおそらく知ってる、僕についてやたら詳しいみたいだから、と。

 そうです、わたくしは美しいのです、と朱璃の返事。自信ありげに言うものだから、かっこつけているのだと思い、それを口に出そうとすると、朱璃は続けて魔法をかけてくるのだった。


 人が美しさを感じる理由をご存知ですか? ……を見つけるためです。美的感覚は個人によって異なり、貴方にとってわたくしは美しい女の子なのです。つまり、わたくしとのお付き合いはとても正しいことですの――。


 呪文は彼の心に塗りこまれ、じっとりと溶けこんでいった。黒塚朱璃は美しい。黒塚朱璃との交際は正しい。黒塚朱璃こそが理想の女の子――。少女の低く美しい声が胸の奥で反響して離れなかった。

 結局、それについては何も言わなかったし、言えもしなかった。そうして眠りに落ちる寸前、智大は呟いたのである。


 信じられないかもしれないけど、僕は多分、君のことが好きなんだと思う。……自分でも、信じられないけどさ。


 天井だけをじっと見つめていたので、朱璃がどんな顔をしていたのかはわからない。ただ一言、明るくも暗くもない声で、そうですか、とだけ言った。

 つまりは何もなかった。抱き合ったわけでも、キスを交わしたわけでもなし、こんな話を章信にしたところで仕方がないだろう。



「義兄さん、聞いてる?」


 醤油ラーメンが残り半分くらいになったところで章信が見つめてきた。


「もちろん。羽根田さんの話だろう」智大は笑顔を返す。


「最近変なんだよ。一緒に遊ぶ時間が減ってね、それで麻耶姉ちゃん、きぶし川の近くでばかり見かけるんだ。あそこ何もないのに。こないだなんて橋を渡って川の向こうまで行ってたし、何してるんだろ」

「新しいバイトがどうとかってこの前言ってたかも」


 知らない体を装って頭を掻いた。

 一月に入ってから、麻耶はミサキを探してばかりいる。きぶし川周辺を散策しているのもそれが理由だろう。こちらまで引っ越してきたことといい、つくづく行動力の権化だと思う。撒きつづけている姉も姉だが。……ミサキさんはかくれんぼのプロでもやってるのか?


 ラーメンを食べ終わってから章信は、リビングの隅で一心不乱にスマホを見つめていた。「ええと、大丈夫かな……」距離があるので内容まではわからないがなにやらメールを見ているらしい。


「そんな隅っこで何してるんだ?」


 疑問に思い近付くと、


「わっ!」


 章信は天敵に見つかった小動物みたく跳ね、スマホを背中に隠してしまった。気になるので横からのぞき込む。メールはもう閉じられていて、代わりに章信と麻耶のツーショット写真が待ち受け画面に表示されていた。


「ええと……」

「あはは、隠す必要なんてないのに」何かと多感な時期なのだろう。あわあわする義弟に、智大は兄らしく微笑んでみせた。


 そのとき、ドアチャイムが鳴った。章信の頭をポンポン撫でて、智大は玄関へと向かう。


「おはよう。……でもないか」


 扉を開くと麻耶だった。今日も姉を探していたらしく、顔がほんのり上気している。


「何か用事?」

「まあ、うん」


 彼女にしては歯切れが悪い。ミサキのことだろうか。何かこちらから話すべきことがあったかと思索していると、突然腕を掴まれて玄関前まで引っ張り出され、


「浦本ごめん!」


 と、頭を下げてきたのだった。

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