第49話
ゆるい雰囲気から一転、いつになくむっとした表情の凛に空気が張り詰めた。
「凛……」
お前に用はないとばかりに無視し、凛は智大に詰め寄った。
「だめだよ、治の言うこと真に受けちゃ」
凛の剣呑さに、智大は不安そうな顔を作った。
「どうして?」
智大はずれた鞄を背負い直して言った。
「真鍋君は馬鹿正直っていうか、不器用だけど真っ直ぐだと思うよ」
馬鹿って言うなバッキャロー、なんてツッコミが飛んでくる空気ではない。
「僕とは違う視点で物事を考えてくれる。もし真鍋君が間違った意見を言ってるなら、君がそれを示してほしいな」
思いがけず諭すような言い回しになってしまった。
「だって、治は――」凛は治を見る。「治はなんで浦本君と仲良くするの? 中身のない助言なんて、なんの意味もないでしょっ」
気の強い言葉とは裏腹に、智大の目に、凛は今にも泣き出しそうに見えた。
「ああ。……そうだな」
数秒の沈黙を経て、ようやく治はそう言った。悲しげな目だった。
さよならも言わずに地下鉄へ走り抜ける凛を、二人ともただ見ていることしかできない。
「悪い」
その言葉は智大に向けられていない気がした。凛がいなくなったあとも、地下鉄の暗闇を見ていたから。
「この際だし話聞くよ」
智大が言った。
「迷惑じゃね」
「そんな仲じゃないだろう、僕たち」
「まあ、あいつと同じ電車ってのも気まずいか」
それで、駅ナカのコンビニに向かった。
カレーパンを手に取り、治はずっと何から話そうかと悩んでいる。さっきの帰り道も、治は自分より智大の話を優先した。抱え込むタイプなのだ。だから言葉に詰まる。
「笑わねぇって約束してくれるか」
駅前広場のベンチに座りながら治は言った。
「話の内容次第としか」
「そりゃそうだけども。こういうのって、わかったって言っとくもんじゃねぇのかよ」
「できない約束はしないよ」
「馬鹿正直はどっちだっての」
治はため息を吐き、周りをキョロキョロしてから呟いた。
「俺、パティシエになりたかったんだよ」
と。
「パティシエって、お菓子を作る?」
「似合わねぇよな」
「イメージはないね」
馬鹿正直に智大が言う。だろうなあ、と笑い、治はカレーパンの袋を破り開けた。
でも、なりたかった、というのはどういうことなのだろうか。
「今はなりたくない?」
「どうなんだろうな」
智大は、目を伏せている治をこっそり眺めた。カレーパンを見るその目は、いつもよりほんの少し子供っぽく見えた。
「昔すぎてあんま覚えてねぇけど、あいつに……凛に甘い菓子を作ったんだ」
「仲良かったんだね」
「あの馬鹿、ニヤニヤ笑いながら『美味しいけどまだまだだねぇ』とか言いだしてな。ムキになっていつもの喧嘩だ。じゃあ俺より良いもん作ってみろよ、っつって煽ってさ。あいつああ見えて意地っ張りなもんだから、お菓子作りバトルが始まったんだ」
治の口調はどこか楽しげだ。
「そのくせ不器用なもんで、いつも俺に勝てねぇ。んで、俺も俺で得意げになって、気が付きゃパティシエを目指すなんて豪語してたわけだ」
「それがきっかけか」
「他にも色々あったな」
カレーパンの匂いに混じって甘い香りが漂ってきた。向かいにあるドーナツ屋からだろうか。ショーケースに規則正しく並ぶ輪っかたちが、テンパードアの向こうに見える。首元のネックウォーマーを触り、顔をしかめてから治が続けた。
「お菓子作りが趣味なんて女の子みてえだろ? それでクラスのやつに笑われたこともあったんだけど、そんとき凛がブチ切れたんだよ。『治のお菓子はいつか世界一になるんだから』とか言ってさ。そのせいで、あいつまではみ出しものになっちまってな。今は上手くやってるぽいけど」
ドーナツ屋の中では子供連れの夫婦が品定めをしている。子供は保育園児くらいの男の子だ。小さな身体に不釣り合いなジャンパーを着込んでいる。
「お前も知ってるだろ? 俺ん家ちょっとした金持ちでさ……家業を営んでるんだ」
家業については初耳だった。噂で聞いたのは周りに溶け込めないということだけだった。
「凛は、そんな俺の唯一の友達だった。仲良くしてくれて、パティシエの夢も応援してくれて。でも親は家業を継ぐことを望んでる。それで悩んでてな」
「そっか」
「もちろん、両親のことは大事に思ってるぜ。育ててくれた恩もあるし、パティシエを目指すのも自由だ、とも言ってくれてる」
「だからこそ家族の気持ちに応えたいんだね」
ファミリー客がドーナツ屋から出てきた。男の子が両親の間に挟まって手を繋ぎ、床のタイルの緑色のところだけ踏んでいた。
「みんなには贅沢な悩みだって言われるんだ。選べるんだから良いだろって」治が男の子を眺めながら言う。「馬鹿みてぇだよな。家業とお菓子、どっちが大事だってんだ」
「贅沢なんてそれっぽい言葉を言い訳にして、周りが理解を拒んでるだけじゃない? 悩みは悩みだろう」
「いやまあ、事実悩んではいるけども」
「価値観が違えば悩みも人それぞれだよ。他人の価値観を理解できないのって、理解する気がないか理解する頭がないかの二パターンしかないと思うから、君がそう判断した人は相手にしなくていいと思うよ。もちろん、その相手が僕だとしてもね」
智大が柔らかい笑みを浮かべるのと対照的に、治の顔が引きつった。
「人畜無害みたいな顔してズバズバ言うよなお前」
「僕の言葉が気に入らないならそれを上回る論理で崩せばいいからね。最低限の論理展開すらせず個人のフィーリングだけで他人を否定するのはただの傲慢じゃないかな」
「お前とだけは口喧嘩したくねえな……」
そう言うと、治は音を立てずに立ち上がった。二歩、三歩と重い足取りで歩き、くしゃくしゃに丸めたカレーパンの袋をゴミ箱に放り込む。
すまなかったな、と眉を下げながら、治が戻ってきた。
ベンチの脇に置いた鞄を持ち上げ、じっと智大を見つめる。
「相談に乗るつもりだったのに、こっちが愚痴っちまった」
カレーの匂いの残る口元を、治はネックウォーマーで隠した。
「あはは、僕で良ければいつでも聞くよ」
返答を思考して、友人らしい笑顔を作ったのだが、治が笑うことはなかった。
「――そんな資格、俺にはねぇのに」
振り返り際に、そう呟いた気がした。
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