第50話
ダイニングテーブルで朱璃は、執事を訝しげに見つめている。智大は小テストの採点をしている。
「いかがなさいましたか、朱璃様」
笑顔で応対すると、朱璃は優雅に紅茶を飲んだ。午後七時。試験対策の勉強をし、夕食を食べ終え、業務が終わるまであと一時間。無駄はなかっただろうか、と智大は思う。一日はどうあがいても二十四時間しかないのだから、効率よく使わねばならない。
「浦本様の仕事ぶりは完璧です。家庭教師や手品の評価はもちろんのこと、お夕食も、毎晩違う献立を作ってくださいます。今日のラタトゥイユスープも非常に出来の良いものでした」
朱璃は言い、ティーカップを置いてハンカチで口元を拭いた。執事としての智大が「朱璃様」と呼ぶように、朱璃は執事としての智大を「浦本様」と呼んでいる。
「恐縮でございます」
「しかし、その完璧を維持するために浦本様は……日々どれだけの努力を費やしているのでしょうか」
心配されているのはわかったが、今の智大には関係のないことだった。
執事の智大と学生の智大では、見る世界が変わる。もとい、変えている。見目麗しい朱璃は、学生のときは悩みの種だが、執事の自分にとっては尊いもののように映る。
だから彼は、
「業務範囲外につきお答えいたしかねます」
と、機械のように告げた。
「目の下にクマが出来ていますよ」
「ご心配いただき痛み入ります」
智大はそれを事実確認として受け止めた。プリントの確認を続ける。
「告白で悩ませているわたくしが言うのもなんですが、もう少しご自愛なさってはいかがですか」
「業務範囲外につき承諾いたしかねます」
「……完璧な仕事なんて求めていませんのに」
「恐れ入りますが、私は自身の間違いを正しているだけです。的確に業務をこなすことが執事の努めであり存在意義。朱璃様が案ずることは何もございません」
「まったく、貴方は」
少女の今にも消え入りそうな声は、鐘のように智大の頭の中で鳴り響いた。思わず顔が歪みそうになるのを必死に堪えて、彼は勉強机のプリントを取りに立ち上がった。
そのとき、ダイニングテーブルがぐらりと震えた。地震か、と思って智大は身構えた。ステッキが壁に立ったまま揺れる。椅子の背もたれを掴んでバランスを取り、インテリアどころか見るもの全てがぐにゃりと歪んで、そしてようやく、自分が立ち眩みを起こしたのだと気付いた。
「浦本君っ⁉」朱璃が勢いよく立ち上がるのが音でわかった。
智大はよろめき、数歩後ずさった末に踏ん張った。
「申し訳ございません。カーペットにしわが――」
「お怪我はありませんか!」
「私は大丈夫ですが……」
本気で心配する朱璃の目の力に圧倒され、智大はそれしか答えられなかった。胸をなでおろす主人を見ながら、石像のようにじっと固まっていた。
「疲れが溜まっていらっしゃるようですね。今日はここで切り上げましょうか」
「しかし……」
「業務命令です。仕事を終えてください」
慈しむような口調だった。
「かしこまりました」
智大は頭を下げた。主人の命令だ――。軽く目を瞑り、次の瞬間には『僕』に戻っていた。
早々に私服へと着替え、再び朱璃の部屋に訪れた。時刻は七時半を過ぎ、窓から見える空には月が高く上っていた。
朱璃は、しゅんとした顔で封筒を持っている。智大もまた難しい顔で、
「今日は業務を遂行できなかった。だから、給料は受け取れない」
と言った。
「良いじゃありませんか、そこまでして自分を痛めつけなくても」
「『完璧な仕事なんて求めていない』って言ったよね。確かに完璧なんて幻想だよ。けど、それが努力を怠る理由になるのかな。自分は完璧じゃないから、ってのたまえば、どんな間違いを犯しても許されるのか?」智大が怒りを漂わせる声で続けた。「僕はできない自分を許さない。許すからつけあがる。喉元を過ぎるから熱さを忘れるんだ。忘れないためには喉元にずっととどめておけばいい。だってその熱さは、自分自身が生み出したものなんだから」
聞いている朱璃の方が辛い表情になって、次にため息をついたのだった。
「まったく、貴方は」
と、今度は呆れた声で。
「このまま帰せばどうせご無理をなさるのでしょう」
「…………」智大は何も言わない。
「であれば、帰すわけにはいきませんわね。わたくしの部屋でお休みになってください。とりあえず熱がないか計りましょう」
主人としての業務命令ではないので言うことを聞く義理はないのだが、「ご家族に心配をおかけしたくはないでしょう」とまで言われては断れなかった。さらに少しすると、口にくわえた体温計までもが微熱を示すものだから、ますます逃げ道がなくなった。
体温計を回収した朱璃が「身体、ふらつきますよね」と妙に照れた様子で呟く。
「ふらつかないと言えば嘘になっちゃうね」
「だから」
朱璃の声が、若干うわずった。
「よろしければわたくしのベッドをお使いください」
「えっ」
流石におどろいた。熱で重い頭を上げると、彼女は顔を赤くしていた。
「シーツは綺麗ですからご安心ください」
「安心を求めてる部分はそこじゃないんだけど……」
「と、とにかく安静にしていてください」羞恥を誤魔化すよう彼を引っ張り、半ば無理やりベッドに横たわせた。クイーンベッドは柔らかくて、枕から仄かに薔薇の香りがする。続けて羽毛布団を被せるや否や、準備をすると言い残して部屋を去った。
訪れた静寂が一人取り残された事実を強調しているようだった。
自分でも信じられないことだったのだが、ベッドの中だというのに智大はまるで落ち着かなかった。彼女は毎日ここで寝ているのだろうか。そう思うと心臓が高鳴って、耳まで熱くなった。
そして、三十分ほど経過した今、智大は朱璃に梅粥をあーんされている。なんでそうなったのかはわからないが、なんでかそうなっている。
朱璃はダイニングチェアをベッドの前に二脚置いて、片方をテーブル代わりにしていた。お椀に入ったお粥をスプーンで掬い、ふうふうと息を吹きかけている。
「黒塚さん」
寝そべったまま智大は言った。
「はい」
「お粥は有り難いんだけどさ」
「はい」
「今日はもう夕食済ませたよ。ラタトゥイユ食べたよ」
「ええ、ですので、味が被らないよう梅粥にしてみました」
「そっか。……ん?」
気遣ってくれているはずなのに何かが間違っている気がする。
「というわけで、はい、あーん」
言われるままに口を開けると、朱璃の自作らしい梅粥が運び込まれた。
彼女の息で冷まされたそれは適度に温くて食べやすい。梅のしょっぱさの中に生姜の風味があり、それでいて喉越しはあっさりしている。
「どうでしょうか」
朱璃がダイニングチェアにお椀を置いて訊いた。
「どうって言われても」
智大は呟き、なんとなく困って、
「料理、上手だね」
と、答えた。
身体は動かしていないはずなのに、ベッドに入ってからというもの、どんどん顔が熱を帯びていくように思う。
それを見透かしたかのように朱璃は、その華奢な手を智大の額に当てたのだった。
「ねえ、浦本君」少しして手を離すと、朱璃はまたもじもじした。
「うん?」
「熱がひどくなっていますから、その、今日は……わたくしの部屋に泊まっていきませんか?」
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