第47話
雪が降った日の翌日、始業式が終わったあとの出来事だった。
『お話があります。ご都合が合うようでしたら、このあとにでも。』
教室を出てすぐの廊下で、黒塚朱璃に手紙を渡された。
麻耶は私服に着替えて帽子をかぶり、マンションを出た。躊躇いに揺れる手でエレベーターのスイッチを押し、待ち合わせ場所のファミレスにむけて、アスファルトの上を歩いた。きぶし公園を通り抜け、溶け残った雪を何度も踏みつける。靴と雪が擦れてシャリシャリと音を立てる。まさか姉さんの話かな――。歩道橋で天を仰ぐと、めいっぱいの冷たい空気が肺に染み込んだ。
消防署のそばまで来ると、ファミレスは見つかった。朱璃はまだいなかった。何を言われるのかと勝手に緊張して勝手に早く来ただけなので、当然ではあったが。
十分ほど待ったところで朱璃がやって来た。
「とりあえず、入りましょうか」
引き戸を引いて足を踏み入れると店内は想像より暖かかった。昼時ということもあってそこそこのテーブルが埋まっている。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「二名です」
「かしこまりました。お席へご案内いたします。こちらへどうぞ」
店員との会話を朱璃が済ませて、中央辺りのテーブルについた。麻耶はチーズインハンバーグ、朱璃は日替わりランチを注文する。
熱いおしぼりで手を拭きながら、麻耶は警戒を隠さなかった。
「そう警戒なさらないでください」
「話、あるんでしょ」
「はい。……我が家を嗅ぎ回っていた者についてです」
ぎょっとした。ばれている。浦本智大がばらしたか、それとも最初から泳がされていたのか。彼が約束を破るとは思えないので、おそらくは後者だろう。河川敷でのやり取りも全て無駄だったらしい。
観念せざるを得ない、と彼女は思った。屋敷に張り付いていたことは自分が悪い。いつか受けねばならない叱責を、今受けるだけだ。
「……ごめんなさい」
麻耶は頭を下げた。しかし朱璃が声を荒げることはなかった。
注文した料理が運ばれてくる。ナイフとフォークを取るだけ取って、食べ始める前に朱璃が喋った。
「謝ってくださりありがとうございます。と、言いたいところですが、もう一つだけ確認させてください」
「なに?」
「GPSを仕掛けたのは、貴女ですか?」
GPSとはおそらく、真鍋治が言っていたことだ。
ううん、と麻耶は首を振る。
「それはあたしじゃない」
「そうですか。ご報告のとおりですわね」
朱璃は納得したように笑った。事の顛末はすでに治から聞いているのだろう。確認、というのは本当にただの確認のようで、それ以上疑うことはしなかった。
「そろそろ本題に入りましょう」そして朱璃は姉の名を口にするのである。「羽根田ミサキ様のことです」
「ふうん、やっぱ知ってたんだ」
麻耶の目が一瞬にして冷たいものになった。黒塚家を探っていたことに関しては謝ったが、それとこれとは話が別だ。
図太いやつだと自分でも思うし、そうでなければ黒塚朱璃には太刀打ちできないとも思っている。
「もちろんですわ。東様がかつて交際していた女性であり、貴女の姉上です」
「ついでに言うと、黒塚さんに味方してる」
「ご存知だったのですか」
朱璃がすっとぼけた声を出す。
「あたしの格好した人が便箋を渡したんだから、浦本は当然あたしに尋ねてくる。んで、話し合った結果おかしいってなって、犯人を突き止めるために情報を共有する。……黒塚さんが想定してないとは思えないけど」
「流石は羽根田様。ご聡明でいらっしゃる」
表向きは智大を籠絡するための悪戯だが、それにしては効率が悪すぎる。便箋を渡すだけなら、わざわざ姉さんを利用する意味はないだろう。
逆に言えば、姉を利用することそのものに意味があったと考えられる。
「つまりさ、浦本を……便箋事件を通して姉さんの存在をちらつかせることで、あたしを誘導したんじゃないの? 羽根田ミサキは自分の協力者だ、ってまさに今日この場で主張するために」
沈黙が数秒続いた。「ご想像にお任せいたします」とだけ言う。麻耶はにんじんを一つ口に運んだ。
相変わらず朱璃の態度は光を屈折させるが如しだった。彼女からはおよそ動揺というものが見えない。どの角度からどんな強さで焦点を当てても、同じ像が浮かび上がる。
「ミサキ様がお元気にされていることは、わたくしが保証いたします」
「……そう」
「ですので彼女を探すのを諦めてはいただけませんか」
「なんでっ」麻耶は身構えた口調になる。
「お会いして、どうなさるおつもりですか?」朱璃は眉一つ動かさない。
「ホントのことを聞く。大学を卒業したあと何があったのか」
「本当のことをお聞きして、どうなさるおつもりですか?」
「いや、どうって」
どうするも何も納得するだけでしょ、と心のなかで呟く。朱璃はコップの水を飲み干した。
「言葉選びが不適切でした。本当のことがどんな内容であったとしても、受け止められますか?」
「どういう意味さ」
「真実は、羽根田様にとって都合の良いものだとは限りません」
「そりゃ――」
麻耶は逡巡する。そりゃ、納得せざるを得ないでしょ。続けようとしたが、なぜか声は出なかった。
代わりに朱璃が続ける。
「本当のことを知るだけなら、お訊きすべき相手は他にもいらっしゃったはずです」
「……東」
「彼は黒塚家の使用人です。わたくしに一言お申し付けくだされば、予定を取り付けることもできたでしょう。ですが、羽根田様はそうはなさらなかった」
「…………」
「ミサキ様が仰っていましたの。麻耶は家族思いのいい子だけど、そのせいでときどき自分を見失う、と」
責めるのではなく諭すような口調に、麻耶は、胸が締め付けられるのを感じた。まるで姉に直接告げられているようだった。
考えたことはあった。近くに住んでいながら、どうして姉さんは自分に会いたがらないのか――。
理由があるはずなのにそれを無視し、東を一方的に悪者だと決めつけた。
智大に対してもそうだ。完璧な彼に姉の姿を重ねて、勝手に理想を押し付け、都合が悪ければ辛く当たった。
そりゃ姉さんに追いつけないわけだ――。
あっと思った頃には両目から悲しみが漏れそうになっていた。麻耶は慌てて腕で拭いた。
「あたし、やっぱり姉さんに会いたい」
呟くように出たそれこそが、本心だったのだと思う。
「そうですか」
「止めないの?」
「麻耶様が望むならばどうしようもありませんわ。申すだけ無駄でしょうし、わたくしとしても意地悪で止めているわけではありませんから」
朱璃はすでにタンドリーチキンを食べ終えていた。優雅なくせしてなかなかの食べっぷりだ。
気をつけないと、と麻耶は気を取り直した。発言が論理的だし、雰囲気も言葉選びも穏やかだから、ついつい耳を傾けてしまう。洗脳の才能があるのはこういった人間なのだろう。気をつけなければ姉の居場所を推察したことも暴かれてしまう。
朱璃にも知り得ない情報がある。変装した姉を章信が見かけたのは、あくまで偶然なのだ。
「しかし、もったいないとは思いませんか」
「もったいない?」
「わたくしはミサキ様の情報を持っています。そして、貴女は浦本君の情報を持っている」
言わんとすることを察した麻耶は、うっわ、と声を上げた。
「あんた、薄幸のお嬢様みたいな見た目しておいてとんでもないね」
「棘のない薔薇などつまらないでしょう?」
「いや、薔薇て」
自身を薔薇に例えるあたりがナルシストだと思う。
「それに、麻耶様も以前クラスでご歓談なさっていたではありませんか。ミクちゃんって辛いもの好きらしいよー、と。それと何ら変わりありません」
んなアホな。
反射的に出かかった言葉を、肉汁と一緒に飲み込んだ。
めちゃくちゃ言ってるのに理屈で反論できないのが腹立たしい。
朱璃はタッチパネルでデザートを追加注文した。
「とはいえ、何でもかんでもお話しするわけにはまいりません。住所をお話ししてはミサキ様に怒られてしまいますので」
「じゃあ何なら話すっての」
あくまで興味なさげな顔を作る麻耶。
「例えばですが……もしミサキ様を探されるとして、手ぶらでは寂しいでしょう。わたくしは現在の彼女の好物を存じています」
「パンでしょ」
「機嫌が良いときに食べるパンの種類は?」
「……考えさせて」
質問の内容ではなく、取引に応じるか考えさせてという意味だった。
朱璃は急かすようなことはせず、ただ笑みを浮かべて待っていた。そうして彼女の顔を見ていると不意に思い出したのだった。
気をつけろよ――。
山岸家で治が告げた言葉。それに込められた意味が、今ならなんとなくわかるような気がした。
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