第46話

「えっ」


 驚きで硬直していると、彼女の頭がモグラ叩きみたいに再び引っ込み、茂みの横から全身をあらわした。スキニーパンツにパーカーという出で立ちだった。肩に乗った葉っぱを払いながら歩み寄ってくる。彼女は智大たちの前に立つと、ごきげんよう、というように会釈してきた。


「ええと」その美しい顔を見上げながら、智大はどこからツッコむべきか考える。「ずっと聞いてたのか?」


「申し訳なく存じます。本日はミサキ様にお呼ばれいたしましたの。バレたくさいからその時は頼む、と」

「そこそこ話してたと思うけど、その間もずっと?」

「あの茂みで待機しておりました」

「そんなサバンナの肉食獣みたいな真似しなくても……」


 本来起こり得ないであろう出来事が朱璃の行動力によって実現していた。わけのわからない状況に困惑し、次の言葉を求めて左に目を動かす。ミサキと目が合う。それではっとした。黒塚さんには訊かなくちゃならないことがある――。

 智大は朱璃の顔を見据えた。


「黒塚さん」

「はい」

「前に言ってたよね、大切なメッセージを伝えるときは形の残るものを送る、って」


 朱璃は優美な笑みを浮かべている。まるでこれから訊かれることを知っているかのように。


「君がミサキさんに……協力者に便箋を渡させたのか?」


 智大は芯の通った声でいった。彼女への疑念はすでに確信へと至っていた。


 朱璃は優雅な笑みを維持したまま、声色一つ変えることなく、目だけ異様にうっとりさせて智大を見つめた。



「流石ですわ、浦本君。ここまで早く明かされるなんて」


 軽く屈んで顔を近づけてくる。漆黒をまとった目は、智大の瞳のさらに奥を見ているような気がした。


「ええ。あの便箋はわたくしの手作りです。そしてミサキ様はわたくしの協力者。ですが協力者なんて言葉、誰から聞いてしまったのでしょうか」

「…………」


 麻耶とは約束があるので、その問いには答えなかった。

 智大は気にせず次の質問へと移る。


「どうしてあんな便箋を?」

「意地悪なお方。それがわからない貴方ではないでしょうに」


 朱璃はまるで自分だけの宝物に触れるよう、智大の頬を優しく撫でた。滑らかな指先が蛇のように這う。


「その笑顔が他の女に向けられるたび、胸が張り裂けそうになる。他の女が群がるたび、独占欲に駆られる。独り占めしたくてどうしようもなくなっちゃうの」

「……よりによって羽根田さんに成り代わらせたのはそういう意味か」

「嫉妬させる貴方が悪い、などと申すつもりはありません。全てはわたくしが計画したことですもの」


 ですが、と朱璃は付け加えて、


「今一度忠告はしておきましょう。――気もない女とベタベタしないでください。過度な博愛は妬みを買いますわ」


 と、低い声で言った。

 いずれにしても、便箋の内容は冗談でもなんでもなかったということだ。朱璃は智大に対し、そういう感情を抱いている。


「その割にミサキさんには会わせるんだね」

「彼女は特別です。少し前に貴方のことをお話ししたところ、自分も話してみたいと申し出ましたの。変装はその対価です」


 ……対価?

 その言葉を聞いて、智大は胸の内にモヤモヤしたものを感じた。違和感だった。しかし何に対してなのかがわからず、そのくせ根拠も論理もなしに違和感を抱いているという事実が、さらに彼を困惑させた。


「ミサキさんは、どうしてそれを承諾したんですか」だからまずは、目の前の疑問と向き合うことにした。


「ありゃ去年の十月だったかな。麻耶が引っ越してきたっつう話をアカリンに聞かされてねぇ、そのとき変装の取引をしたわけ」


 麻耶の転校日を思い出した。一緒に帰りたがっていたはずの朱璃が、あの時期だけは一人で下校していたのだ。ミサキとコンタクトを取ったのはおそらくあのときだろう。


「対価が釣り合ってないように思います。ただの悪戯とはいえ、麻耶さんに迷惑をかけるかもしれない行動を貴女は取りました」

「事実として取引に応じた。それが全てじゃんね」


 役目は終わりと言わんばかりにミサキが立ち上がった。僕のお隣さんは、大好きな姉にどう思われているのだろうか。

 思考して、その子供っぽい背中を引き止めるよう言葉を投げかけた。


「どうして、そんなことを――」


「続きはまた今度ね」ミサキがぴしゃりと遮った。


 それから大きな欠伸をし、「後は頼んだアカリン。この変装計画いつかバレるよって、ちゃんと忠告はしたから。おねいさん悪くなーい」質問に答えることなく去る。


「本当に丸投げしましたわね」


 呆れたように朱璃は言った。

 左手を頬から離してから、口元をおさえ、目線を合わせてにこにこ笑うのが、普段よりわざとらしいように智大には感じられる。


「二人っきりか」


 智大は淡々と事実を述べる。空はますます曇っている気がした。朱璃が何も言わず右隣に腰かけ、顔を向けた。


「いたずらを仕掛けたこと、怒っていますか」

「怒らないとわかっていて仕掛けたんだと思ってるけど」

「切り貼り文字とはいえあれはただの手紙。変装に関しても、帽子とマスクを着用していただいただけですし、その恰好で何か問題を起こしたわけでもありません。法という正しさに則っている以上、怒る道理はない。違いますか?」

「……合ってるよ」

「よかったですわ」


 朱璃は心底嬉しそうに言った。


「よかったわ、本当に。手品とは誰かの心を動かすもの――かつて貴方が教えてくださったことです」

「君は」


 僕のことが……。言おうとしたところで両肩を掴まれた。優しく振り向かされて、二人は同じベンチの上で、体ごと正面から向き合う形になる。目と目で見つめ合い、気付けば瞬きすらできなくなっていた。まるで魔法でもかけられたかのように。


「すでにお察しいただいているかと存じますが、わたくしは貴方をお慕いしております」


 朱璃はそう告げたのである。


「……僕は、そうじゃないけど」

「存じております。なればこそ、わたくしとお付き合いをしていただきたく存じていますの」

「どういう意味だ?」


 肩から手が離されて、智大はようやく魔法が解かれたのだった。


「少し、昔の話をしましょうか」


 昔の話。

 智大は埃まみれの写真を思い出した。どう転んでも暗い話だろうと思った。


「ちょっとしたわらい話ですわ。わたくしの許婚の是非と、それにまつわる両親の話です」


 その考えすらも読んだかのような前置きをし、朱璃は静かに喋りだした。


「あれは中学に進学して間もない頃でした。母がわたくしに申したのです、お前に許婚をあてがう、と。いわゆる政略結婚です」

「なんだか遠い世界の話に聞こえるな」

「ええ、遠い世界の話です。それこそ何百年も前の。はっきりいって時代錯誤です。しかしお家柄というのは厄介でして、お金だの権力だのの繋がりが尊ばれますの。あとは、一般人との結婚は嫉妬を生むという理由もあるようです。使用人の多くも政略結婚に賛成でした」

「そんなことが」


 時代もののドラマみたいな出来事であるが、智大は強く納得していた。使用人たちには皆家系があり、そういった考えに拘っているのだと東が言っていたからだ。


「その政略結婚に反対したのが、黒塚商事の社長。つまりわたくしの父です。父はブランドイメージを気にする人でした。人権が尊重される現代です、若い娘が年の離れた男と結婚させられるのですから、世間体を気にしてのご判断だったのでしょう」


 朱璃は饒舌に続けた。


「最終的な決定権は社長にありますので、政略結婚の話はなくなりました。しかし母は食い下がりました。母は……何よりお金を第一に考える人でしたから。使用人たちの存在も後ろ盾となったのでしょうね。そうやって対立が続いた結果、会社までも揺るがす夫婦喧嘩へと発展することになります」


 朱璃は魔女の如き含み笑いをした。


「皮肉なものですわ。理解と尊重がなければ夫婦関係は成り立たないと、両親自らがそれを証明したのです。体裁などもあり離婚まではしませんでしたが、その亀裂は今もなお残っています。馬鹿な話でしょう?」


 なるほどと思う。向き合うべき二人がちゃんと向き合うという当たり前のことがこの世界では成立し難い。智大の父がそうであったように、世の中は我の強い人間で溢れているのだ。


「ですが、わたくしと浦本君はそうではありません。人はわかり合えないと知っています。だからこそ互いを尊重し合える」


 それから朱璃は、満面の笑みを向けてきたのである。目を細めて、頬を緩めて、


「わたくしたちなら、より良い関係になれると思いませんか?」


 と。


 彼女の言葉は正しい。


 朱璃は、これ以上になく自分を理解してくれている。友人から恋人に変わったとして、朱璃ならば間違いなく上手くいくだろう。そもそも付き合うことで何か損するわけでもない。


 しかし智大は返事をできないでいた。


 理屈としては完璧だ。でも――僕の気持ちはどうなる? 仮に理屈で答えを出して、その恋に何の意味があるんだ? 初めて生じた考えに心が揺らぐ。


 いつだってそうだった。僕は矛盾を抱えている。感情の薄い自分に憤り、理屈ではなく豊かな感情を欲していた。だからやりたいことを探していたのだ。



 じゃあ、自分の求める答えは……黒塚朱璃へのこの揺らぎは、一体何なんだろう――。



 鼻に冷たいものが当たった。気付けば雪が降り始めていた。ずっと目を合わせていたはずなのに、朱璃のことなんて見えていなかったように思う。だって、荒れた公園に咲く雪花を見てはじめて、彼女が折りたたみ傘を取り出していたことを知ったのだから。


「貴方が真剣に悩んでくださっていること、とても嬉しく思います」

「……うん」


 智大は若干上の空で返事する。


「今すぐにお返事をいただきたいわけではありません。貴方を縛り付けたいわけではありませんから」

「ありがとう」

「礼には及びませんわ。時間があればあるほど、より浦本君と仲を深められますもの。だって、わたくしたちはすでに、ただの友達を超えているでしょう?」


 たおやかに笑う少女の目は美しい。特徴的な儚い目でありながら、その奥には底知れぬ邪知じゃち深さを秘めていた。


 朱璃が傘を差し、智大もつられて折りたたみ傘を取り出した。とりとめのない雑談をしながら帰ったのだと思われるが、記憶に残っているのはそれだけだった。

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