第44話
「計画だって?」
顔が強張っていくのを自覚した。麻耶の語る情報は、彼の心を悩ませていた。ストーカーであった羽根田麻耶の目的がわかったことは、執事としては喜ばしいことであったが、それに続く言葉は、学生の自分に苦悶の種を植え付けていた。
「その計画にはおそらく東のヤローも含まれてる」
「東さんが……」
「ま、上手く利用されてるって言ったほうが正しいんだろうけど」
麻耶はこれ見よがしにため息をついた。
「それで、協力者っていうのは?」
「……もののたとえだよ。東があたしの恰好ってのは体格的に無理があるじゃん」
「そうだね。背が低いぶんにはともかく、高すぎると誤魔化しようがない」
「つまり、東は計画に利用されてるんだけど、それはそれとして変装してたのは別の人だと思うわけ」
麻耶は確信を持っている様子だ。
「その協力者に心当たりがあるんだね」
智大も同調した。
「羽根田ミサキ。あたしの姉さん」麻耶は、眉をひそめて何か考える顔をした。愛想なんて捨て去った口調で、
「マンションの北側、橋を渡ってきぶし川を越えた先に住んでる」
と、言った。
「ニセモノが――姉さんがマンション側に向かった理由は、最初は君の目を欺くためだと思った。あたしが便箋を渡したと思わせるための行動」
「うん」
「でも、それはちょっとおかしい。変装の時点で目は欺けてるんだし、マンション側に向かう途中で本物のあたしに見つかりでもしたらややこしいことになる」
「実際にそうなったわけだからね」
麻耶は不機嫌そうな声で続ける。
「だから、北上したのは君の目を欺くためじゃない。ボロが出ないうちに逃げていたんだよ。でも逃げた先はおそらくマンションの裏手のきぶし川。……前にカードショップで言ってたでしょ、『河川敷に行く理由はない』って。なのになんで河川敷に行く必要があったか? おそらく逃げ帰るためにはそこを経由しなくちゃならなかった」
「僕もその推理には納得だ。以前章信がきぶし川で君を見かけた理由にも説明がつく」
マンションの北側に住んでいるという予想は智大と一致していた。
そして、結論ありきではあるものの、朱璃とミサキが手を組んでいるとすれば一連の辻褄が合う。妹の引っ越しを知っていることや、智大について異様に詳しいこと。執事について知っていること。井崎ベーカリーで出くわしたのも、朱璃の手引きだったのかもしれない。
しかしこのことを話すわけにはいかないので、彼は同意だけにとどめることにした。
「お姉さんのことなんだけどさ」智大が穏やかに言った。「君は、お姉さんを見つけてどうするつもり?」
「どうするってのは?」
疑りの眼差しに、智大は弱々しく両手を振った。
「邪魔するとかじゃないよ。ただ、僕はお姉さんのことを全然知らないからさ。いまいち話についていけてなくて」
困ったような笑みを浮かべたとき、
「いまさら隠す意味もないか」
と麻耶が言って、言葉とは裏腹に店内を早足で歩き出した。不可解な行動に驚きながらも慌ててついていく。
そうして両隣のコーナーを覗いたあと、いないかー、と残念そうな声をあげた。
「ワンチャン盗み聞きしてるかなって思ったんだけど、まあいいや」
「本気で探してるんだね」
そう言うと、麻耶は大きく肩をすくめた。まるで重いものでも背負っているかのように。
「姉さんは天才だった。勉強、料理、性格、どれをとっても完璧だった。唯一体力だけはなかったけど、それすらも技術で補ってた」
「完璧……」そのたった二文字は、特段珍しい単語ではなかったが、しかし彼の心を強く揺さぶったのだった。
「そればかり目標にして、勉強とかひたすら頑張ってさ、でも何一つ追いつけてない。むしろ頑張れば頑張るほど、姉さんが遠く見えるの。あたし不器用だし、緊張しいですぐボロ出すし、なんでこんなにグズなんだろうって」
「…………」
「姉さんのことは大好きだけど、心のどこかには劣等感もあったんだと思う」
「そっか」
スーパーが新年の熱気で燻るなか、二人は黙々レジへと移動した。
この店はセミセルフレジが採用されている。店員がバーコードを通し、案内された機械で会計を済ませる形式だ。麻耶は心ここにあらずといった感じで機械を操作した。釣り銭を取り、レシートを丸めてごみ箱に捨てて、麻耶は再び話し始める。
「東のヤローと付き合い始めたのは、大学に入学して何か月か経ったときだった。実家を出たのもその頃だから詳しいことは知らないけどさ」
「でも東さんのことは知っているんだろう?」
「挨拶は何回かしたんだけど、彼氏とか彼女とか、あのときはまだピンとこなくて。だから、ちゃんと憶えてるのは東の言葉くらいなんだ」
麻耶は買った商品を袋詰めしながら、
「『ミサキさんを幸せにする』」
と、憎々しげに呟いた。
「大口だけたたいて、結果は前にも話したとおり。……バカみたいでしょ。その後、同棲してた東から連絡があったわけさ、『急に消えた。どこにいったかわからない』って」
バッカみたい、と、麻耶は繰り返す。
「理由もなしに突然いなくなるわけがない。だから姉さんを見つけて、ホントのことが聞きたいの」
買い物かごを置き場に重ね、膨れたエコバッグを持ちあげたのだった。
そのままの流れで帰りも共にした。麻耶の足取りは重く、少なくとも笑ってはいなそうな顔を帽子のつばで隠していた。マンションに近づくにつれ互いの沈黙が深まっていく。
きぶし公園に足を踏み入れたところで、智大は彼女を引き留めた。
「僕も手を貸そうか?」
それを口に出す寸前、智大は強く思考した。――お隣さんとして、僕は羽根田さんの力になりたい。
麻耶は不機嫌を隠そうともしない。立ち止まり、背中を見せたまま冷たい目だけを智大に向けて、
「あんた、何なの? おちょくってんの?」
明らかに怒った声で言った。が、智大にはピンとこなかった。
「おちょくってるつもりはないけど」
「河川敷に呼び出された日もそうだったけどさあ。あれだけ敵意むき出しであたしに詰め寄っておいて、まだ仲良しごっこを続けようっての?」
「お隣さんだからね。大切なお隣さんが困っていたら力になりたいって考えるのは自然だろう?」
おおよそ邪気を感じられない笑みを浮かべるのだが、それがますます麻耶を苛立たせるようだ。
「意味わかんない。河川敷でのあんた、あたしを八つ裂きにでもしそうな目つきだったじゃん」
「黒塚家に迷惑行為をはたらいたんだから、執事としては君のことを憎んでるよ。仲良しごっこをするつもりなんてない。これも自然なことだと思うけど」
「自然って……」
そのやりとりでようやく、麻耶が執事とお隣さんのギャップに動揺しているのだと気付く。
僕の内面が知りたいなら以前提言したときに断らなければよかったのに。非効率的かつそれに代わる生産性も見出せない行動だ。
「僕は物事を分けて考えているんだよ」
優しい声でそう言って、智大は続く言葉を思考した。
「前に言ったと思うけど、僕は公私混同をしないよう心掛けてる。執事としては君を憎んでるけど、それは執事としての話。お隣さんとしては本当に大切に思ってる。だから困ってるなら力になりたいんだ。それが僕のお隣さんとしての本望だからさ」
それを聞いた麻耶は智大に向き直り、
「――は?」
数歩後ずさっていた。目を見開き、世界が終わる光景でも見たかのように固まっている。開いた口が塞がらない、とはまさにこのことを指すのだろう。
しかし、いくら感性に差があるとはいえオーバーリアクションなのではないか。そんな智大の考えとは裏腹に、目の前の顔はみるみる血の気を失っていく。
「浦本」
呟くように、麻耶が言った。彼女の声はひどく震えていた。
「章信君のこと、すごく可愛がってるよね。大切な家族だって」
「もちろんだ」
そして智大は、純粋な笑みで頷いたのであった。
「僕は義兄ちゃんだからな」
と。
冬風が吹きすさび、麻耶の顔が悲しみに包まれる。彼の口癖の真意を理解したようだった。
「もし家族じゃなければ、章信君のことを愛さないの?」
「うん。愛する理由がなくなる」
「もし天変地異が起きてゴキブリが弟になったら、あんたは愛するの?」
「ちょっと極論な気もするけど、そうだね。大切な家族なんだから、無償の愛を注ぐよ」
母も、義父も、義弟も、父も、智大は家族を等しく愛している。離婚した父には疑問の余地があるが、事実として血が繋がっている以上、家族ないし親族の規範に収まっていると定義するのが適切だろう。であれば、深く愛する対象に当てはまる。それのどこに疑う余地があろうか。
「そんなのっ」麻耶は泣きそうな声で言った。「愛してるっていわない」
「間違ってるなら正さなくちゃならない。家族だから、って理由で家族を愛するのは間違ってるのかな。だとすると、その前提条件のどこが間違っていて、具体的にどう改善すれば正しい定義に収まるんだろう?」
真正面に麻耶がいて、言の葉が届き、心を強く痛めていることまで感じ取れるのに、わかり合えないのは少し不条理な気がした。
それでも、わかり合えないものはわかり合えないし、感じ取れるものは感じ取れた。本当の意味で章信を想ってくれているのだろうな、とか、二、三日はろくに口を利かないだろうな、とか。
「……今日は帰る。バイバイ」
麻耶が疑問に答えず去っていくことも。
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