第43話

「あ、浦本……」


 羽根田麻耶は、智大を見るなりやりづらそうに目をそらした。


 腕時計は昼の三時を指していた。恰好から見て買い物へ向かう途中といったところか。

 智大は思考して、爽やかに手を振った。


「こんにちは」

「ん」


 それだけ返ってくる。


「どうかしたかな? いつもよりテンションが低いけど」

「どうかしたかな、はこっちのセリフだよ。あれだけあたしをガン詰めしておいて、なんでそんないけしゃあしゃあとしてんのさ」

「そりゃあ大切なお隣さんだからね。邪険にはできないよ」


 笑って頷くと、大吉すら凶に塗り替わりそうなため息で返事をされた。


「まあなんでもいいや。それよりあたしに用?」


 智大は思考する。「お姉さんの話だ。前の続きが聞きたくてね」


 それまで穏やかだった智大の顔が一瞬で豹変し、麻耶は気圧された様子を見せた。


「ほんとつかみどころないね、あんた」


 麻耶は吐き捨てるようにぼやく。

 つかみどころがない、とは言い得て妙だ。掴むほどの心なんて持ち合わせていないのだから。


「ついてきて。話は買い物しながら聞くから」


 ああ、とだけ返して、智大はついていった。

 スーパーは、正月休みから明けたくせして『迎春』ののぼり旗が立っている。麻耶は買い物かごを取って腕にかけた。普段黙々とレジを通る主婦たちが、今日はどこか浮かれているように見えた。


「で」カット野菜をかごに入れながら麻耶が言う。「何から話せばいいわけ?」


「引っ越しの挨拶をした日、貴女は僕を『浦本さん』と呼んだだろう。でも、うちの表札は大西だ」

「…………」

「どうして僕の名字を知っていた?」


 智大は冷徹な目で見据えた。周りに人がいるとはいえ情けをかけてやるつもりはなかった。今は隣人ではない、朱璃様に仕える執事だ――。


「結論から言うと、引っ越してくる前に調べたからだね」麻耶がゆっくりと口を開き、盗み聞きされない程度の声量で話し出した。「前にも話したと思うけど、うちは元々都会に引っ越す予定だった。で、具体的にどこ引っ越すって話になったときに、あたしが両親にあのマンションのこと教えたの。理由はもちろん、姉さんに会えるんじゃないかって思ったから」


「姉がこちらに住んでいることを知ってたということか?」

「ううん、それは知らない。でも東のヤローが黒塚さんとこで働いてるのは知ってたから、何か手掛かりが得られると思ったんだ」

「働いていない可能性は?」

「ありえない。事前に張り込みしたし」


 麻耶はシーザーと和風でドレッシングに悩んでいる。

 ……近いうちお隣さんの僕から探偵の道を勧めてみよう。彼女なら名探偵になれるはずだ。


「そういうわけで、黒塚家を調べていたのは東大貴が目的」

「姉の元彼氏だと言っていたが」

「うん。それと、主人の黒塚さんならその辺何か知ってるかもしれないでしょ。でもあの人の性格からして直接訊き出せるとは思えなかったから、執事の君に近づいたの。東のことも含めて色々訊き出すために」

「僕と朱璃様をより親密にしようとしていたのも、情報を増やすのが理由か」

「仲良くなれば込み入った会話も増えるだろうからね。とはいえ、君の口が固くて無駄だったわけだけど。章信君にすら執事のこと知らせてないみたいだし」


 この話に智大は軽く混乱した。これらが本当ならば、羽根田麻耶は自分が執事であることを事前に知っていたことになる。しかし執事として働き始めた時期と彼女の引っ越しはほぼ同時なので、物事の時系列が合わない。


「そろそろ名字を知っていた理由が聞きたい。黒塚家が目的なら僕を知るきっかけなんてないはずだ」


 先を促すと、麻耶の顔に不満の色が浮かんだ。


「その前に姉さんの話を聞いていい? あたしばっかり喋らされるのもやだし」


 ミサキのことは話さないよう本人に口止めされている。……あの意味不明な女性のことだ、約束を破ろうものなら予想もできないしっぺ返しが飛んでくることだろう。

 智大は、それを焼き付けるようミサキそっくりの顔を見た。


「わかった。とはいえ、僕から伝えられる情報はまだない。こっちでも調べてはいるが、どこに住んでいるのか、そもそもこの町にいるのかすらわからない状態だ」

「こんな都会でほいほい見つかるわきゃないか。便箋はどう?」

「役に立てなくて申し訳ないが、それについても進展はないな。警察は営業じゃないからあんな便箋の指紋鑑定なんて頼まれてくれないし、自分でやるにも材質が紙だと難しい。そもそもが切り貼り文字だから、手掛かり自体残されていないと考えるのが妥当だ」


 それを聞いた麻耶は、足取りを重くして智大の顔を見た。


「ほとんど勘だけど、便箋を送りそうな人に心当たりがあるかもしんない」

「どういうことだ?」智大も歩幅を狭めた。


「だってさ、ニセモノはあたしと浦本のことを知ってるわけじゃん。あんな手間暇かかるもんを意味もなく作って意味もなく渡すってのは無理があるし、だとすると個人的な嫉妬で渡してきたって考えるのが自然でしょ」

「素直に考えればそうだが……」

「一人だけ思い浮かばない? 浦本と仲の良い女の子」


 黒塚朱璃。

 主人ならやりかねないな、と智大は顔をしかめた。それから学生の自分を思考して、霧が晴れたような顔に切り替わった。


「黒塚さんだって言いたいんだろうけど、それはありえないよ」

「なんで?」

「あの日は日直でね、仕事を手伝ってくれた黒塚さんと一緒に帰ったんだ。そのまま屋敷まで送り届けて、きぶし公園に引き返したときに便箋を渡された。黒塚さんがあの短時間で変装して公園に先行するのは不可能だよ」


 しかし彼女はなおのこと合点がいったようだ。


「日直ってことは普段より帰るのが遅れたんだよね」

「三十分くらい……いや、屋敷の前で黒塚さんに少し待たされたから、それも合わせると四十分くらいかも」

「それだけの時間があれば、黒塚さん以外なら変装して待ち構えることって可能じゃない?」

「それはそうだろうけど。実際、僕が君を疑った一番の理由もそこだし」

「もしも、もしもだけどさ、黒塚さんに――『協力者』がいたら?」


 ――協力者。


 智大は思わず、その単語を繰り返していた。それは単なる共犯者ではなく、もっと深い意味のある、固有名詞のようなものに聞こえた。顔色からして冗談で言っているわけじゃないのもわかる。ただ、ここまで飛躍した話を鵜吞みにはできなかった。


「便箋を用意したのが黒塚さんで、存在するかどうかもわからない協力者がニセモノに成り代わり送り付けた。流石にこじつけが過ぎるというか、黒塚さんを悪く見すぎだと思うけど」

「…………」

「君は何を知ってるのかな。その結論に至るのには理由があるんだろう」


 智大の問いに対し、麻耶は複雑な想いを秘めた表情で、サラダ油を取る手を止めた。



「最初の疑問に答えるよ。あたしは引っ越す前から浦本のことを知ってた」そして重々しく口を開いた。「名字だけじゃない。浦本が執事になるのも、それをきっかけに恋仲になっていくのもね。だって、全部黒塚さんによって計画されてたことなんだから」

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