六章 オイルアンドウォータ
第40話
朱璃に初詣に誘われ、黒塚の屋敷へと向かったのは、一月二日土曜日の午前八時のことだった。
家族で近所の神社を参拝したのが元旦。なので智大は今年二回目の初詣になる。二回目の初詣というのはえらく矛盾しているが、それを他者に伝達するにおいて、他に良い表現も思いつかない。
「お嬢様が急に申し訳ねっす」
門扉の前では東が待っていた。私服姿の彼を見たのは初めてだった。ブルージーンズにジャンパーとラフな格好だ。
「あはは、大丈夫ですよ。手紙が来たときはびっくりしましたけど」智大は気さくに笑ってみせる。「安全のため東さんも同行するって話でしたよね」
「行くのは大きめの神社っすからね。元旦は避けたんすけど、それでも人多いんで。俺なら車も出せますし」
「頼りになります」
智大は納得した。朱璃がそそっかしいのも大いにあるが、なにせGPSが見つかったらしいのだ。大人の同伴は妥当な判断と言えるだろう。
「黒塚さんはどうしてるんでしょうか」
「外出の準備中っす。そろそろ来ると思うんすけど」
ミサキさんについて訊こうか迷ったところで、屋敷の扉が開かれた。門扉越しに目が合って、朱璃は楽しそうに目を細めた。
「あけましておめでとうございます、浦本君」
「あけましておめでとう」
視線を下ろした先にあったのは、初めて見る彼女の姿だった。陽光のような明るい色の着物に、微妙に合わない赤いマフラーを合わせていた。
綺麗だ、と智大は思って、次にそれを言葉にした。
「嬉しゅうございます。着付けした甲斐があったというものです」
花柄の袖を気分よさそうにひらひらさせて、「行きましょうっ」朱璃は小走りで車へと駆けこんだ。
移動中、車内は和気あいあいとしていた。年始ムードに包まれた街を通過する。最初は景色ばかり語らっていたが、智大の仕事がもうすぐ再開するということで、話題は自然と朱璃へとシフトした。
「引き出しが二重底って、それは気づきませんね」
「あの塩パンの隠し場所には目ん玉飛び出ましたよ。あれを手作りする器用さもそうなんすけど、お嬢様って変な知恵ばかり回るんすよね。浅知恵ってやつっす」
「何をおっしゃいますか。浅知恵を掘り進めた先にこそ、深い知恵はありますのに」
「こんな感じで口まで回るんだから困ったもんすよ」
案の定振り回されてばかりらしい。しかしハンドルを握る背中は楽しげで、それが朱璃との絆を感じさせたのである。
神社には三十分弱で着いた。早朝ということもあってか、思ったより人は多くなかった。
近くの駐車場で車を降り、参道を目指して歩いた。道中は屋台で賑わっていて、朱璃はその一つ一つを眺めていた。雅やかに振る舞っているが内心うきうきしているのだろう。「帰りに買いましょっか。昼になると人増えますから」お見通しと言わんばかりに東が言う。
「そうですわね。参拝の作法は覚えていますか?」
「まあ……多分。まずは手水っすよね。左手を洗って、右手を洗って、みたいな」
「その前に鳥居に一礼ですわ。境内は神聖な場所ですから。特に、こちらのような大きい神社では鳥居が複数ありますからお気を付けください。中央は神様の通り道ですので、中央ではなく左右どちらかに寄ってくださいね。その際、右側であれば右足、左側であれば左足から踏み入れるように」
朱璃は長々と喋った。智大は隣を歩きながら、彼女の話を頭に入れていた。これだけを見れば完全に淑女だ。マナーに詳しいあたり、かっこつけの年季を窺わせる。
一の鳥居にたどり着くと、そこからは朱璃の言葉どおりに動いた。柄杓で手水をとり、参拝客の列に並んだ。いくらファミリーの少ない午前といえど、ご神前ともなると大勢の人でごったがえしていた。
東が前に立って壁になり、その後ろに二人が並ぶ。が、
「きゃっ」
華奢な朱璃はそれでも人の波に押されてしまう。「おっと」流されそうになったところを反射的に受け止めて、そのとき身体が密着した。初雪のように白い手が胸板に当たる。至近距離で目と目が合って、まるで時間が引き伸ばされたように彼らは見つめ合った。
それは、ほんの数秒のことだったが、智大にはとてつもなく長い時間に思えた。
「大丈夫?」
「は、はい、すみません」
少女の声はほとんど喧騒にかき消された。恥ずかしそうに顔を隠し、いそいそ髪を整えた。そうして拝殿に向き直しながらも、瞳はちらちらと智大の方を盗み見ていた。
「どうかした?」
智大は言い、笑ってみせたが落ち着かなかった。
黒塚朱璃と目が合った。
たったそれだけの事実が、今は少年の心をざわつかせたのだった。僕は一体どうしたのだろう、と。
そう思った矢先のことだった。智大の左手が、朱璃の右手と繋がれたのである。
「黒塚さん?」
「こうすれば」真っ赤な顔を俯き気味にしつつ、目だけをこちらに向けてきた。「こうすれば、迷子にならないですよね」
水族館に行ったあの日のように、朱璃は無邪気に笑った。「ここは人が多いですから」と。
そのとき明確に、心のざわつきがドキドキに変わるのを感じた。ドキドキは驚きだから、僕は驚いたのだろう。……でも、何に?
冷たい手に不思議な温もりを感じながら智大は思いふけっていた。
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