第37話
咄嗟に手を伸ばすが、章信を引き止める理由はないので引っ込める。十分に遊んだのも事実だった。
運命が収束するよう朱璃が隣にいて、智大は既視感を覚えた。
「以前にもこんなことあったっけ」
「申し訳ございません。邪魔をしてしまったようですわ」
「いや、君が悪いわけじゃないよ。章信も変な気を遣わなくていいのに」
朱璃は、儚い目を少し見開いて智大の顔を注視する。
「それにしても、ご兄弟ですか」それから一つ呟くように言った。
「浦本君はお気遣いがお上手ですから、兄の立ち振る舞いから学んだのかもしれませんね」
「そんなとこら真似しなくてもいいんだけどなあ」
「敬慕される兄姉は、下に背中を追いかけられるものですよ」
その言葉は、今の智大には妙な真実味を帯びて聞こえた。彼は早く要件を切り出さねばと思った。
敬服する主人のため、智大は友人と対峙する。
「そういえば、この前の話はどうなったのかな」
「この前の話?」朱璃が首を傾げる。
「身の回りで変わったことはなかったか、って言ってただろう。その、何かトラブルにでも巻き込まれたのかと思ってさ、ずっと心配だったんだよ」
東や麻耶について質問しても煙に巻かれるだろうと思った。なので、事件性というカテゴリで話題を結びつけてそれとなく訊き出すことにした。
もしも東とミサキに繋がりがあるとするならば、妹である羽根田麻耶を気にかけていることにも納得がいく。であれば、羽根田家について何らかの情報を握っている可能性がある。
朱璃は悩む様子を見せたあと、
「浦本君にはお話ししておきましょうか」
口元を緩めて頷いた。
「実は最近、わたくしの鞄から壊れたGPSが見つかりましたの」
「GPSって、ストーカーってこと?」
「はい。警察には相談したのですが、未だに犯人がわからないのです。指紋などの証拠が残っていないのだとか。それで、人気の少ない場所には行かないよう東様に釘を刺されてしまいまして」
「それは、本当に災難だな」
物騒だ、と思い、やっぱりそういう話だったか、とも思った。
朱璃は不満気に頬を膨らませる。
「全くです。これでは塩パンを買いに行けないじゃあありませんか。今日を逃せば新年まで休業だというのに、とんだ迷惑ですわ」
「よく食べてるやつか」
「東様も東様ですわ。これ以上おやつ制限の口実を増やされてはたまりませんし、また言い訳を考えませんと」
「東さんほんと苦労してるね……」
「と、そういうわけでして、コイントスで決めようとしていたのですが」そこで智大の顔を見た。「そうです、浦本君です」
「……ん?」
「わたくしの代わりに塩パンの買い溜めをお願いできませんか。お金はお渡ししますので」
「僕が? 構わないけど」
智大はこっくりと頷いた。友人として断る理由はなかった。
公園から見て南に黒塚家があり、そこからさらに南下すると商店街がある。その西列の、二つ目の自販機を通り過ぎたところにある『井崎ベーカリー』という店に行ってほしいとのことだった。
「それでは、塩パンを十個お願いします」
「わかったよ」
朱璃は財布から代金を取り出した。受け取ろうとしたところで、その顔に満面の笑みが浮かんだ。
「あっ、いいことを思いつきました」
「……一応訊くけど、何かな」
嫌な予感しかしない。
「パンは明日の早朝に渡していただけませんか。すぐに食べたいわけではありませんし、今から帰れば東様にアリバイを主張できますわ」
「なんで君はろくでもないことばかりポンポン思いつくんだ……」
「二人だけの秘密ですよ」と美しく笑う朱璃を残し、智大はきぶし公園を後にした。屋敷の前を通り過ぎ、年季の入った赤いアーチをくぐった。
商店街は、年末だというのに閑散としていた。店の半分くらいはシャッターが下りていた。開いているかどうかもわからない薄暗い店の前を、スーツ姿の男性が見向きもせず通り抜けていく。言われていた二つ目の自販機が見えてくる。
「いらっしゃいませっ」井崎ベーカリーに入ると、中学生くらいの女の子が元気よく挨拶した。
小さいというよりはまとまっている店だ。スペースの無駄なく置かれた棚にはパンが陳列されていて、カウンターを挟んだ向こう側では、夫婦らしき男女が窯を焚いていた。
なぜか聞き覚えのあるジャズのBGMを聴きながら、塩パンをトングで一つ一つ乗せていく。ギャグみたいに積みあがったトレイをカウンターに持っていくと、少女は智大のトレイと顔を交互に見、まるでうきうきした気分を隠せないよう表情を崩した。
「こんなにたくさん、ありがとうございます!」
慣れた手つきでパンを紙袋に包みながら少女は言った。智大も気さくに笑う。
「ここのパンは美味しいって友人から聞いたんです」
「嬉しいですっ。特にうちの塩パンは人気でして、いつも塩パ――たくさん買ってくれるお客様がいるんですよ」
「そうなんですね」
智大はとある友人の顔を思い浮かべる。とはいえ、塩パンを買う客は彼女だけではないだろう。なにせ人気商品らしいのだ。
「しかもそのお客様とっても綺麗で、笑顔もすごく素敵で」
「はい」
「服装もおしゃれで、上品なお姉さんって感じで」
「はい」
「手先も器用で、レジ待ちのときに五百円玉をくるくる回してて」
「はい……」
「喋り方までお嬢様なんです! 例えるならそう、山嶺に咲く一輪の薔薇!」
やっぱり心当たりしかなかった。塩パンを山のように買い込む友人の姿が目に浮かぶようだ。……そりゃそうだ。おしゃれで上品で塩パンが好きで暇つぶしにコインロールするお嬢様がこの世に何人もいてはたまらない。
「おまたせしました」
預かっていた代金を支払い、智大は紙袋を受け取った。
「また来てくださいね」頭を下げた少女は、「いらっしゃいませ!」鳴り響いたドアベルにも、智大の横から顔を覗かせて対応した。次の客が来たようだった。
これで大丈夫だろうか、渡すのは明日の早朝だったな。そんなことを考えながら振り返り――智大は驚愕する。
らしくないベージュのコート、団子に結んだ後ろ髪、見覚えのある顔。井崎ベーカリーに足を踏み入れたのは、羽根田さんだった。
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