第36話
「ナイスボール」
胸元に飛んできた球を受け止めながら、智大は言った。
「いいコントロールだね」
今度は章信がグローブを構える。それなりに慣れていそうな、無駄の少ない体裁き。かれこれ一時間は遊んでいるが、フォームが崩れている様子はない。
智大たちはきぶし公園の端でキャッチボールをしていた。
「昔お父さんとよくやってたんだ」
「へえ、そうなのか。だからグローブなんてあったんだ」
智大が球を投げた。球は計算通りに弧を描き、胸元へと吸い込まれた。
優しくも的確な投球を受け止め、感動したようにグローブの中を見る章信。しかしその数秒後、頬の動きに倦怠の色が見えたので、「ちょっと休憩しよっか」と義兄は笑いかけたのだった。
感情というものについて、智大は心ではなく知識で理解していた。これも欠落を埋めるために積んできた努力だ。知識として知れば、真似ができる。真似ができれば人間らしい行動が取れる。今章信を気遣ったように、相手の感情を極めて論理的に導き出すことだってできるのだ。この思考法をさらに最適化すればいい。そうすれば、自分は正しい人間へと近づける――。
ベンチには朱璃が座っていた。首元には赤いマフラーが巻かれている。近づいてきた智大にも気付くことなく、上の空でコイントスを繰り返していた。
「黒塚さん」
声をかけると流石に気付いたようで、「ああ、こんにちは」と、落ち着いた笑みを向けてきた。
「なんかぼうっとしてるけど、大丈夫?」
「少々考え事といいますか、決めあぐねていることがありまして」
「まさか、それでコイントスを?」
朱璃はオオワシのコインを指でつまみ、得意げに笑った。
「乙女の花占いのようなものですわ」
「花占いの代用にコイントスが用いられることあるんだ……」
「だって、花が可哀想ですもの。その点コイントスは殺生いたしませんわ。コイン一枚あれば何度だって行えますし、コストパフォーマンスにも優れているといえます」
花占いとコイントスでコストパフォーマンスの比較をする人間もこの世にはいるんだな、とわけのわからない気持ちになり、ふと隣を見ると章信もそんな顔をしていた。
「えっとえっと、何を話せば……」
章信は言葉を探しているようだった。黒目がちの大きな瞳が困惑に揺らいでいる。そういえば章信は黒塚家を知っているのだろうか、と智大はふと思った。
「この人は友達の黒塚さん。ちょっと変――個性的だけど、やさしい人だから大丈夫だよ」
「そう、なんだ。こんにちは、黒塚さん」
「ふふふ、こんにちは」
朱璃は優しい声で言う。
「義兄さんと仲良いの?」
疑わしげな声とは裏腹に、章信の顔は好奇心でいっぱいだった。
「はい」
「義兄さんのこと、す、好き?」
「もちろんですわ」
「おおー」章信は興奮を隠せないまま振り向き、今度は義兄に疑問を投げる。「もしかして、クリスマスに遊んでたのって黒塚さん?」
「まあ、そうだけど」
「すごい! オトナだね!」
「……ん?」
「だってカノジョってことでしょ? その、ほら、ち……ちゅーとかもしたりするんだよね。いいなあ、俺も大きくなったら麻――」
そこまでで章信は言葉を切った。何を考えたのか、次第に顔を赤らめた。
「えっと、黒塚さんは彼女じゃないよ」
訂正するが、章信は聞く耳を持たない。それどころか自分のことのように喜んでいるではないか。
「いいんだよっ、『いい感じの人がいるみたい』って麻耶姉ちゃんも言ってたから。あー俺疲れちゃったから先帰るよ。キャッチボール楽しかったー!」
「えっ、いや……えっ」
まさに電光石火の早業だった。章信はプロのかるたみたいな速度でグローブをひったくると、心底嬉しそうにマンションへと駆けていった。「ごゆっくりー!」
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