第35話

 差し出されたグローブとボールを眺めているうちに、疑問の声を漏らしていた。章信の話は、脈絡が飛んでいたからだ。


「キャッチボール? 僕と?」昼食で使った食器を洗いながら、智大は訊き返した。


 ぼろっちいソファに座った母と義父が、嬉しそうにポテチをつまんでいる。


「なついてるわねえ。義兄さん義兄さんっていつも言っちゃって」

「ははっ。かっこいいお兄ちゃんが欲しい、って小さいころからずっと言ってたもんな。今朝も一緒に宿題してたし、本当に智大君が好きなんだなあ」


 なんだか照れるなあ、と智大は言う。そんな両親の茶々を気にせず、章信は訊き直した。


「キャッチボールだめだったかな」

「いや、なんでキャッチボールなのかなってちょっと思っただけだよ。皿洗いが終わったら遊びに行こう」

「うん!」不安なんて吹き飛んだかのように、章信は大きく頷いた。「スマホで……なんだっけ、ネットニュースで見たんだ。『絆を深めるならキャッチボール! 寒い冬こそキャッチボール! とりあえずキャッチボール!』だって」

「ひどいごり押しだなあ……」


 玉石混交の石側のニュースだ。『芸能人の誰々がダイエットに成功!』などといい、もう少し需要のありそうな記事は書けないものなのか。とはいえ義兄として、章信の誘いを断る理由はない。


 皿洗いが終わった。一度自室に向かい、外出の準備をしていたところで、義父も部屋に入ってきた。


「お邪魔するよ」

「ああ、義父さん。何か用ですか?」


「いやほら、いつも章信の面倒を見てくれているだろう。年末だからってわけじゃないけど、感謝を伝えておこうって思ってさ」義父は柔和ながらも真面目な声で続ける。「うちは……色々あって再婚してさ、章信にも智大君にも苦労をかけてると思う。周りに色々言われたりとかもあるんじゃないかって思うんだ」


「そんなことはないですよ」

「智大君は優しいねえ。前にも話したと思うけど、章信は幸せな家庭に憧れててね。そのとき、仲の良い知り合いがタイミングよく浦本家を紹介してくれて、それがきっかけで再婚したんだ」

「はい。母もそう言っていました」

「でもね、時々悩むんだよ。一度結婚で失敗して、章信の為だって都合のいい言い訳をしてさ、本当は僕自身が幸せを望んでしまってるんじゃないかってね。再婚も結局は親のエゴだ。そう思うと、君を利用しているようにすら感じてしまうんだ」

「考えすぎですよ。人が自分の幸せを願うのも、親が子の幸せを願うのも、おかしなことではないはずです」

「君からその言葉が出るとは」


 義父はその大きな体を震わせた。


「何か変なことを言ってしまいましたか?」

「お母さんから聞いたんだけど、以前の父親には何度も……その、殺されかけたんだろう?」

「ええ、まあ」


 思い出しながら、智大はどこか間の抜けた声を上げた。


 智大の父親は、事あるごとに暴力を振るう男だった。質の悪い駄々っ子のように怒りっぽく、当時小学生だった智大は憂さ晴らしの対象でしかなかった。

 智大の母親は、時折身体に痣を作る息子に、謝ってばかりいた。父との結婚は失敗だったが、智大のことは愛してるのだとか。医師である母親は、稼ぎがいい。年収から逆算するにそれなりの生活は出来そうなものだったけれども、その大半はおそらく遊びにでも使われていたのだろう。

 離婚の決め手になったのが、激しい暴力による智大の入院だった。その後の父については詳しく知らないが、入院中に全て終わっていたことは憶えている。


 間もなくして現れたのが大西家だった。入院を経たことでトラウマを負っているのかもしれないということで、再婚の相談をしにきたのだ。智大が望まないのならば再婚はしないとのことだった。

 特に断る理由もなかった。結婚とは社会的契約だ。父は扶助義務ないし協力義務の不履行によって婚姻関係を破綻させた。だから離婚した。智大にとってはたったそれだけの話で、そこに怒りや悲しみはなかった。


「智大君は、親を憎んだりはしていないのかい?」

「もちろん暴力は許されないですけど、過ぎたことですから。母さんも、義父さんも、章信も、今はみんな笑って暮らしてます。その事実があれば十分なのかなって僕は思います」


 智大は笑顔を向けた。実際、過去の出来事など気にしていなかった。気にしたところで、何かが変わるわけでもない。


「義兄さーん」けたたましい足音と共に章信が部屋に入ってきた。彼は既に準備万端のようで、ウレタンボールと二人分のグローブを抱えている。「あっ、お父さん。何か話してたの?」


「最近寒いだろう。家族全員揃ってることだし、今夜は鍋にでもしようかって話してたんだよ」

「肉もある?」

「もちろん。安かったからたくさん買ってきたぞ。タレも色々あるからな」

「やった!」


 義父は改めて智大の顔を見つめ直した。「邪魔して悪かったね。たくさん遊んでおいで」


「早くっ、行こ行こ義兄さん」

「はは、公園は逃げないよ」


 章信はこれ以上なく幸せそうな笑みを浮かべて、義兄の手を引っ張った。

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