第14話
朱璃と一緒に教室を出た智大は、電車に乗って一度自宅へ向かった。着替えだけ済ませて、一時半を回った頃に朱璃とカフェ前で合流した。ドアのガラス部分から覗くと、店内は空いている。ちょうどいい、とドアを開くと、バターと紅茶の香ばしい匂いが漂ってきた。
二人は最奥のテーブルを選んだ。
素敵なお店ですわね、と席につくなり朱璃が言う。おしぼりで指を一本一本丁寧に拭きながら、シックな内装を眺めている。間もなくしてショートヘアの女性が注文を取りにきた。智大はトマトスパゲッティ、朱璃は看板メニューのワッフルを頼む。
女性は伝票にそれらを書き込むと薄く微笑み、厨房に向かった。
「改めて、ありがとうございました」正面の席で朱璃が言った。夕食の時よりも距離が近い。皺一つないネイビーのワンピースを着て、薔薇のような笑みを咲かせる朱璃は、世間一般とは別世界の住人なのだろうと、ふと思う。
「黒塚さんの実力だよ。事実として黒塚さんが解いたんだから」
智大は真顔で返した。怒っているわけではなく、素だった。
既視感のあるやりとりに世辞で返されるかと思いきや、「やはりわたくしは信頼されていないのですね」と、すぐさま本題に入った。
「君は敏い。だから取り繕ったって無駄だろ? むしろ素で話してるぶん、誰よりも信頼してると思うけど」
「誰よりも、ですか。つまり、他の方には素の自分をお見せしないということですか?」
「そうだね。今まで誰にも見せてこなかった」
智大の言葉に感情はない。脚色のない事実を述べている。
「業務中と普段とでも雰囲気がまるで違いますものね」
「学生の僕、執事の僕、義兄の僕。TPOに応じて人格を――思考を使い分けるのは当然だと思うけど」
「それにしても極端ではありませんか? わたくしには、思考どころか根っこの思想まで切り替わっているように見受けられますが」
「…………」
一拍の沈黙の後で、朱璃が言った。
「ありのままで接してくださることに感謝します」
「理解しかねるな。ありのままで接することを前提とした会なんだから、その点に感謝する必要性なんてない」
「ならば尚の事感謝いたしますわ。価値観を擦り合わせたいというわたくしの意志を尊重してくださったのですから」
ドリンクが運ばれてくる。女性がカップを置くのを、智大も朱璃も静かに見つめる。
一般的感性とのズレを自覚している智大は、擦り合わせというものに存在価値を見出せなかったが、その理由の大半は価値観の擦り合わせと称した押し付けばかりを受けてきたからだった。なんの役にも立たない説教を垂れず、常に一歩引いた物言いをする朱璃に対しては、悪い印象を抱かなかった。
「単刀直入にお訊きしますが、わたくしのことはどうお思いなのでしょう?」
「どう、とは? 抽象的すぎて答えづらい」
「どんなことでも構いません。性格でも、容姿でも、もっとふわふわしたことでも、思っていることを素直におっしゃっていただければ」
朱璃は静かにコーヒーを啜った。口を離し、苦い香りを楽しんだあと、もう一度カップに口をつける。
絵になっている、とはまさにこのことだった。どこか現実離れすらした少女の美しさに、幻を見ているかのような錯覚に陥る。
「君と話すようになって、なんだかんだで一ヶ月近くになる」
「早いものですわね」
「まあね。仕事は大変ではあるけど、居心地は悪くないよ」
「うふふ、それは良かったです」
「理由は上手く言語化できないけど、なんていうか、君が色々と配慮してくれているから……だと思う」
言葉のまとまっていない話を、朱璃は笑顔で聞いていた。
「配慮というよりは尊重ですわ。浦本様はいつだって執事を全うしてくださいます。だから、わたくしも安心して任せられるのです」
「君が言うところの信頼か」
「ええ」
「だけど僕はそうじゃない。信頼というには黒塚さんを知らなすぎる」冷酷に言って、智大は最初の発言を思い出す。「ああ、さっき君が言った通りだったね。僕は黒塚さんを信頼していない」
「存じております。今回はそういったものを解消するための場ですから」
「じゃあ、僕からもいいかな?」
「もちろんですわ」
智大は深呼吸し、口を開いた。朱璃も目を見て向き合う。
「中二病みたいなことを言うけど、僕って感情が薄いところがあるみたいなんだ」
「はい」
「喜びも、楽しさも、達成感もあまり感じない」
「はい」
「そんなやつを君は雇い続けるのかな? 自分より扱いやすい人間なんて星の数ほどいると思うけど」
店員の女性が来た。まずワッフルが運ばれてきて、トマトスパゲッティが運ばれてくる。いただきますと同時に言って、それぞれフォークとナイフを手に取る。
「もちろん、貴方が望むかぎり雇い続ける所存ですわ。おっしゃるとおり、優秀な方はたくさんいますが、わたくしの望みに適う執事は貴方しかいません」
「傷がある人としか仲良くできないのか?」
「違いますわ。人はわかり合えないということを知っている方といるほうが気持ちが楽なのです」
彼女の紡ぐ言葉は世辞ではないと、智大はなんとなく感じていた。根拠はないが確信に近いものを持っていた。だからこそわからなくなる。自分は朱璃を信頼しているのだろうか? 急激に智大は混乱する。最近はずっとそうだ。なぜか朱璃の前では調子が狂う。
「いつだって浦本様は完璧でした」朱璃の口調は穏やかで、しかし悲しげだった。「中学の頃はいつも卓球部の横断幕が上がっていましたわね。それでいて勉強も家事もこなせて、礼儀正しい。何よりも驚いたのは仕事中のお言葉遣いですわ。高校生であそこまで敬語を使いこなせる人などそうはいません」
「どれも勉強してきたからね」
「感情が薄い、さきほどそうおっしゃいましたわね。何がそこまで、貴方を……完璧へと駆り立てるのでしょうか」
完璧か――。
気づけば智大は答えていた。目を合わせて、フォークも置いて、話し始めた。
「僕は欠点を埋めているだけだ。勉強も運動も、家事にしてもそう。自身の間違いを咎め、正し続けて生きている。結果として、僕は完璧に見えてしまうんだろうね」
朱璃は黙って聞いている。智大の口は止まらない。
「皆僕に言うんだよ、『充分頑張っただろう』って。充分頑張った事実があったとして、それが何なのかな。事実としてミスはミスだ、現実は変わらない。学力テストに求められるものは頑張りじゃなく学力なんだから、頑張った、なんて事実確認をしたところで何の意味もないじゃないか」
智大は、淡々と喋りつづける。
「僕はそういうやつなんだよ。人には通常、心が備わっている。でも先天的か後天的か知らないけど僕はそういったものが薄い。生物学上これは正しい形ではないだろう。人間として、僕にはそれが許せない」
最後の方は自分に言い聞かせているようだった。「欠けているんだ、僕は――」そこではっとする。見ると、朱璃も食事の手を止めていた。
「えっと、すまない」慌てて智大は片手を振った。「べらべらと変なこと喋っちゃったな。今のは全部僕個人の考えだ、押し付けたりするつもりはない。だから気にしないでくれ」自分を諫めるように言い、ウーロン茶を飲み干した。それから考え込むように、智大は黙々とトマトスパゲッティを食べ始めた。
ワッフルを三分の二ほど食べたところで、朱璃が微笑んだ。
「完璧に見えて、貴方も色々と悩んでいらっしゃるのですね」
「……そんなことは」
「たまには良いじゃありませんか。日々過ごしていれば、行き場のない気持ちが言葉になることもありましょう」
そう言われて、朱璃の部屋にあった写真を思い出した。
どう考えても彼女の方が複雑な人生を過ごしてきていそうなのに、どうしてこんな愚痴みたいな話をしてしまったのだろう。智大は考える。
普段は感動もなにもないのに、自分の欠落についてだけ憤怒するのは、彼の性分だった。そして、そのたびに思うのだ。感情の薄い自分に憤るこの矛盾を、自分には解決できない、と。
時折シャンデリアを眺め、トマトスパゲッティを口に運ぶ。腹が減っていたのか、昼食はボリューミーな見た目に反してすぐになくなった。
「ねえ、浦本様」
「うん?」
「貴方さえ良ければ、またどこかへ遊びに行きましょう」
まさかデートのお誘いか? 発言の意図を思索する。
公私混同しないことを彼女は確かに約束してくれた。なので、親密になると業務に支障をきたすかもしれない、などといったことは考慮しなくてもいい。
とはいえ智大の中で、朱璃はただの知り合いだ。嫌っているわけではもちろんないが、わざわざ付き合う理由もない。
しかし智大は、そういったことを深く考える前に、「まあ、時間があれば」と反射的に答えていた。ありがとうございます、楽しみですわ、記念に乾杯しましょう乾杯――おしゃべりを聞きながら、彼は窮屈さを感じていない事実に気付きつつあった。
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