第26話
「う、浦本君」
教壇の前で凛は、小さな顔を真っ赤に染めて、幸福そうにはにかみながら智大に話しかけてくる。
とある火曜日の放課後。
「どうしたのかな」
智大は黒板消しを置いて向き直った。二人きりだ。凛の手にはパンフレットが握られている。白と赤のコントラストの、冬らしいものだ。
「この前は勉強教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「それでね、私、勉強のお礼が――」
凛の話は、扉の開く音で中断された。静かにリズムを刻む上靴の音。凛と同じ、紺色の女子制服。
二人の間に割り込んだのは、朱璃だった。
「山岸様もいらっしゃったのですか」
「うわっ! 黒塚……さん」
凛は目に警戒心を浮かべ、持っていた物を背中に隠した。それを見た朱璃が上品に笑った。
「交際は順調ですか?」
「こ、交際?」
「気になる方がいらっしゃって、デートもお済みなのでしょう?」
「えっ⁉」
突然の恋愛話に凛はひどく混乱した。あまりに取り乱すものだから、「そうなのか?」と、智大も確認した。
「ち、違うよ! いや、気になる人はいるけどそうじゃなくて! 私デートなんて――」
「噂でお聞きしましたよ。なんでもいい感じの男性がいらっしゃるとか」
「それは、違くてっ!」
「恥ずかしがることなんてありませんのに」
凛の勢いを朱璃の饒舌がかき消す。そうしてよくわからない状況に立ち尽くしているうちに、凛の威勢が削がれていく。何も言い返せなくなったところで、締めとばかりに朱璃が喋った。
「ですが、殿方への思慮に欠けるようですわね。浦本様も男性なのですから、あまり懇意にされると不和を生んでしまいますわ」
優美ながらも威圧感のある声に凛の顔が青ざめていき、しまいには「で、出直すねっ。またね浦本君」と、逃げるように帰っていった。
そこでようやく、智大が口を開いた。
「なんだったんだ。なんか、クリスマスっぽいパンフレットを持ってたけど」
「おそらく恋愛相談ですわ」
「恋愛相談?」
朱璃は顎に手を当てると、特徴的な目を黒板に向け、
「彼女、浦本様のことを尊敬していらっしゃるようですから。以前ご一緒に勉強なさったとのことでしたし、今回もご助言を賜りに来られたのでしょう」
と、言った。
「確かに勉強は教えたけど」
智大は黒板消しをクリーナーへ持っていった。
「えっと、それで君はどういった要件かな」
「飯田様が所用でお帰りになられたとお聞きしましたので、よければ日直のお手伝いをと思いましたの」
日直はあいうえお順で毎日二人に割り振られる。
今日のもう一人の日直は飯田という生徒だったのだが、どうしても外せない用事があるということで先に帰ってもらったのだ。
「気持ちは嬉しいんだけど、もうだいたい終わったよ」
「残りは何ですか?」
「学級日誌だけだね」
「じゃあそれで」
ラーメンに煮卵を乗せるか訊かれたくらいの軽さで朱璃が答え、そのとき、智大は自分たちが本当にラーメン屋にでも行っている気がした。それくらい自然に言葉を交わしている気がした。何度も顔を合わせている事実。一度デートしたという事実。知り合いと呼ぶにはもはや親しすぎるのかもしれない。
これは日直の仕事だから、僕が全部やるよ――。普段ならば切り捨てていたところを、「ありがとう、手を借りるよ」と言った。
「お任せください」自信満々な朱璃の声。
一人でやるより時間がかかるであろうことは予想がついたけれど、止めはしなかった。
実際、その後はお喋りが多かった。そのうちの四割くらいはガヤで、結局、仕事らしい仕事は大方智大がやった。でもそれだけのことが、彼には新鮮に思えた。
教室を出るときも、今日は業務がないものの一緒に帰りたがっていたようなので、智大は素直に同行した。いつものような余所余所しさがないことに一瞬驚いた顔を見せた。が、朱璃は嬉しそうに靴を履き替えるのだった。
それから智大は、朱璃のトークを話半分に聞きながら、さきほどのパンフレットばかり気にしていた。
そうして話に区切りがついたときである。電車を降り、言うかどうか悩みながらも、どうせ一度決めたことだ、と彼は思って、
「黒塚さんって、クリスマスの予定は空いてるかな」
と、言った。
「クリスマスですか」
そう答えた朱璃はやっぱり平然としていて、けれど表情はそのままに、
「それは、その、どういった意図がおありなのでしょうか」
と、訊き返した。
「君と遊びたくてさ。意図は……今はちょっと答えかねるかも」
言うべきではなかったか、と後悔した智大だが、かといって撤回もできなかった。発言しておいてなんだが、事実として今は答えを持ち合わせていないのだ。
朱璃は何やら考えているようだ。沈黙が長い。きぶし公園が見えてくる。次の言葉に悩んでいたところ、朱璃が口を開いた。
「屋敷までついてきてください」
「屋敷?」
「はい」
そう言われて、智大は親を追うヒヨコのようにまっすぐついていった。
怒っているだとか、喜んでいるだとか、そういった様子はなかった。あったとしても簡単には見破れないことは、智大も理解していたが。
「予定を確認しますので、少しだけ待っててください」
門扉をくぐる朱璃を見送った。ぼうっと待つ。屋敷の広さからして仕方ないのだが、なかなか出てこない。じわじわくる寒さが冬を感じさせる。さらに待っていると扉の解錠音がし、朱璃が出てきた。智大は姿勢を正した。
「お待たせいたしました」続けて門扉が開かれる。「当日もイブも、予定はありませんわ。浦本様のお仕事も含めて」
「当日は金曜日のはずだけど」
「他でもない浦本様からのお誘いですもの。その程度の融通は利かせますわ」
朱璃は機嫌良さそうに答えた。それを聞いた智大も笑顔を作った。
「ありがとう、よかったよ」
「場所は……わたくしの部屋でよろしいのでしょうか」
「どうしようかな」
互いに馴染みのある場所なので、彼女の提案に乗るのが丸い。しかしそう仮定した場合、どんな気持ちで黒塚朱璃の部屋に行けばいいのかわからなかった。
いつもは執事として週三で入り浸っているわけだが、学生として入る機会といえば業務後の受け取りくらいのものだ。そして、女の子の部屋に入るというそれは、恋愛経験のない男子学生ならば概ね緊張するシチュエーションであるからして、その条件に当てはまっている僕は緊張すべきなのだろうか。それが、本来あるべき心の形だから。
思考して、智大は緊張した面持ちになった。
「ちょっと照れるけど、そうするよ。当日じゃなくてイブを予定してるんだけど、まあ、どっちにしろ外は混んでるだろうし」
何にしても朱璃が超インドア派であることは間違いないのでそう答えた。そして案の定、助かりますわ、と言われた。
ともかくこれで賽は投げられた、と智大は自分に言い聞かせた。朱璃とどうなりたいのか、彼自身わかっていない。しかし不思議な気持ちを抱いているのも事実だ。
当日には自分の気持ちがわかるかもしれない。はっきりした答えが出たならば、そのとおりにすればいい。相手が相手なのでどう転ぶかは予想がつかないが、お付き合いから絶交まで全て視野に入れている。
会話も程々に、智大もマンションへと戻ることにした。もう少し雑談しても良かったのだが、今日は麻耶にも用事があった。
きぶし公園が見えてきた。すると、そこに見覚えのある人影が立っていることに気付いた。
イエティみたいな白い厚手のジャンパー、短めのサイドテール、目深にかぶった紺色のキャップ。マスクまで着けた不審者スタイルのせいで顔が見えないが、その風貌は羽根田麻耶そのものだ。
デートのときと違い今度はこちらに気付いたようだった。手をポケットに突っ込んだまま、ゆっくり智大に近づいてくる。
「羽根田さん、こんなところに。ちょうど良かったよ。実は頼み事があ――」
爽やかに笑ったその瞬間だった。麻耶はポケットから取り出した便箋を智大に押し付けるや否や、逃げるようにマンションの方へと走り去っていったのだ。「……えっ」智大は驚きで固まり、見送ることしかできない。
なんなんだ一体、と呟いて、折りたたまれた便箋を開く。
するとそこには、
『気もない女とベタベタしないで』
新聞を切り抜いた文字でそう書かれていた。
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