第10話

 章信の様子を確認したあと、智大は自室にこもった。ベッドの上の目覚まし時計を見ると、午後の八時半だった。業務を終えたのが八時だから、着替えの時間も含めると、ほとんどロスがない計算になる。徐々に最適化されている、と智大は感じた。


 部屋着に着替える前に鞄を開き、勉強道具を取り出した。丸付けされたプリントと参考書。家庭教師の際に使用したものだ。智大はそれらを勉強机に広げた。ランプを点けて座る。

 計算問題はそこそこだが、社会科のような暗記科目はミスは目立つ。


 智大は別の参考書を取りに立ち上がった。カーテンが開きっぱなしだったのでついでに閉じた。振り返り際、薔薇の造花に目線がいった。


 黒塚朱璃の穏やかな笑みが思い出される。


 私の主人で、僕の知り合い。喋り方のせいだろうか。彼女はいつも浮いているな。思い返せば、昔はもっと普通の口調だったか。


「ただいま」


 ガチャリ、という音と共に、玄関から義父の声がした。智大と章信も、こだまするように「おかえりなさい」と言った。


 というか、薔薇なんて見ている場合じゃない。はっとした智大は勉強机に向かった。次回のプリントを作らなければ。

 間違えた箇所を一つ一つチェックしていき、その傾向から細かい苦手分野を割り出す。テスト範囲と照らし合わせながら問題を作り、そこからさらに予習と復習用で分割する。試しに一度自分で解き、難しすぎる問題を修正する。

 作業は二時間弱で終わった。誤字脱字のチェックも済ませ、印刷機を使うため部屋を出ようとしたところ、出入口の曲がり角で義父とぶつかった。


「ああ、すみません」

「いやいや。智大君こそ大丈夫かい?」

「はい」


 義父はプリンを持っていた。紺色のジャージが恰幅のいい身体で膨れている。隣の部屋から寝息が聞こえてきて、義父の足音に気付けなかった理由を察した。


「おやつですか?」


 智大は小声で訊いた。


「いやね、智大君に夜食でもと思って帰りに買ってきたんだよ」

「わざわざありがとうございます」

「いつも勉強頑張ってるからね。最近はアルバイトも始めたそうじゃないか」


 いえ、と智大は手を振った。


「僕なんてまだまだですよ。勉学もバイトも、全然足りないなと思いますから」

「そうかなあ? 大人の僕から見ても、智大君はすごいと思うけど」


「そうですか」


 すごい、か――。

 返す言葉を考えて、結局なにも返さなかった。


「印刷機をお借りしますね」


「もちろん」両手が紙で埋まっているのを見て、義父は勉強机にプリンを置いていった。飾った薔薇が目に入ったらしく、綺麗な薔薇だ、と独り言。「僕もなにか食べようかな」


「なにか作りましょうか?」

「大丈夫大丈夫。勉強の邪魔をするわけにはいかないからね」


 智大はリビングに向かった後、印刷機の電源を入れた。問題集と白紙をセットしてスイッチを操作する。ちゃんと駆動したので、待っている間にダイニングテーブルへと視線を向けてみる。義父は焼き鳥の缶詰を開けていた。


「やっぱりなにか作りますよ。缶詰は身体に良くないですから」


「智大君はもう少し休んだほうがいいんじゃないかな」義父は困ったように太い眉の両端を下げた。「勉強熱心なのはいいことだと思うよ。けど智大君はずっと頑張ってる。休んでるところ自体、今まで見たことがないんだ。いつもそんな感じじゃ流石に疲れるだろう? 家事じゃなくて、むしろ休憩をお願いしたいくらいだよ」


 義父の口調は沈鬱としていた。


「疲れたからといって、努力を怠るわけにはいきません。学生の本分は勉強ですから」

「そうはいっても、体調を崩すと意味ないよ。身体は資本なんて言葉もあるように、替えが効くものじゃあないんだ。缶詰食べてる僕が言えたことじゃないけど、無茶は程々にね」


 義父の心配は、智大にもひしひしと伝わってきた。頑張る息子の身を案じてくれているのだろう。

 だが理解はしかねた。学生とは学校で学業を修める者の総称であり、その存在理由は勉強にある。であれば、身体よりも勉強を優先すべきではないのだろうか。学生以外も同様だ。義兄にしても、執事にしても、他の要素を優先すべき理由が見当たらない。身体が壊れるのは確かに損失だが、タスクと天秤にかけた場合、どちらがより重要なのかは明白だ。

 身体が資本だとすればなおのことである。資本とはつまりタスクを達成するための元手で、それをタスクのために使い潰すのは道理に合っているはずだ。


 印刷が終わった。義父の言葉に智大は、はいともいいえとも答えず、出来上がったプリントを抱えていそいそと部屋に戻った。やるべきことは問題の作成だけではないのだ。手品に関してはあえて知識を入れないようにしているが、料理の勉強がまだ残っている。それと、学生として、自分の勉強もしなければならない。


 すぐさま次の作業にとりかかろうとした智大だったが、机に置かれたプリンとスプーンを見て、動きが止まった。プリンの下には、千円札とメモが挟まっていて、『いつも帰りが遅くてすまないね。たまには美味しいものでも食べなさい。』と書いてあった。


 智大はメモを折りたたんだ。財布にお金をしまった。

 この優しさは、無為にできないな――義父の愛情に感謝しながら、プリンを食べ始めた。

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