第23話

 手をつなぎ、薄暗い順路を進む。

 最初は熱帯魚のコーナーだった。クマノミ、チョウチョウウオ、ナンヨウハギ、ツノダシ――巨大な水槽で魚たちは光を浴び、宝石のよう色とりどりに輝いている。それらが蒼の中を泳ぎまわることで、万華鏡のような風景を作り出していた。

 

「綺麗だね」

「ええ。夏を感じますわ」

「十二月の始めにその言葉を聞くことは今後ないんだろうな……」


 幻想的な水槽を眺めたあと、智大は、朱璃と一緒に感想を言い合った。息遣いさえ聞こえてくる至近距離で。

 不意に髪がふわりと舞い、梨のような匂いがした。ブルーライトを浴びた微笑が、心なしか普段より楽しそうに見えた。彼女の印象を総合して、美人だ、と、智大は改めて思う。


 次の水槽は『生命の神秘』であると、解説パネルには書かれていた。地味な魚が多いせいか、他の水槽と比べて不人気だったが、朱璃にはくるものがあったらしかった。なんでもホウボウが気に入ったのだとか。


「足の生えた魚なんて変わっていますわ。どのような進化を遂げたのでしょうか」「意外に愛嬌のある顔をしていますのね」「見てください、羽が広がりました! 天使みたいです、天使」


 虫のような足、色鮮やかな羽、ずんぐりした顔。出来の悪い悪夢にでも出てきそうな生命体を、朱璃は目を輝かせて凝視していた。

 なんだかんだで二十分近くホウボウを眺めた。朱璃の趣味を訊きそびれていたこともあり、ホウボウの良さは理解しかねた。が、少なくともイルカやペンギン相手に黄色い声を上げる人間ではないことは事前に予想していたため、話を合わせるのは容易だった。


 それから智大と朱璃は、個性的な水槽を観るたび笑い合った。巨大なシロクマ、優雅に泳ぐエイ、喧嘩するチンアナゴ。何を見ても、智大は楽しさを感じなかった。けれども朱璃の横顔を見ているうち、心に別の揺らぎが生まれていた。


 掴んだ手綱に振り回されるまま迎えた正午。展示を一周してロビーに戻ってきた智大と朱璃は、三階のフードコートには寄らず、再入場の手続きを済ませて水族館を出た。混んでいるフードコートではなく近場のレストランで好きなものを食べよう、という智大の提案だった。

 水族館の外は明るかった。深海から引き上げられたかのような眩しさだ。淡い冬の陽に一瞬目を細めたあと、


「どうしようか、何か食べたいものとかあるかな?」と智大が訊いた。


「今は……思いつきませんわ。申し訳ございません」

「あはは、大丈夫大丈夫。むしろ案内したい店があったから丁度よかったよ」


 頭に叩き込んでおいた地理を思い出しながら、智大は、何ともない風に笑った。


 疲れたわけでもなさそうなのに、朱璃はのそのそ歩いていた。智大もペースを合わせる。手は握ったままだ。信号待ちでふと目が合い、かと思えば気まぐれに逸らされ、また窺うように見つめてきた。まさか意識しているのだろうか、と、智大はぼんやり思った。

 そしてそう思うのは、麻耶の言葉に意識が引っ張られているからなのかと考えた。


 目的の店に着いた。

 小道の脇にこじんまりと佇むこの和風喫茶店は、落ち着いた雰囲気だからゆったりできるのだと、智大は言う。少し隠れた場所に建っているからか、実際客は多くなかった。


「素敵」


 クリームあんみつを口に運び、朱璃は薄く笑った。


「気に入っていただけたようで嬉しいよ」


 爽やかな笑顔を返し、抹茶パフェをスプーンで掬う。腹は減っていなかった。それよりも、朱璃とのデートが予想以上に有意義であることに驚いていた。真鍋君の言うとおり、色々やってみるものだ。


「まさか、わたくしのために?」


 朱璃が遠慮がちに尋ね、智大は困ったように笑った。


「言っただろう、最初からそのつもりだって」


 誤魔化すよう庭の唐傘に目をやり、ソフトドリンクを飲んだ。


「素敵」


 うっとりした声で朱璃は繰り返した。


「どきっとしちゃいます」


 クリームあんみつをぱくぱく食べて、美味しい、と呟く。店内は依然として静かである。しかし、その静けさは無音や閑散といった類のものではなく、店全体が和やかに綻んでいるような、上品なものだった。


「そっか」


 発言の意味を思索して、智大は考えを改めた。麻耶の言ったとおりだった。黒塚朱璃には少なからず意識されている。でなければ、どきっとするなんて発言は出てこないはずだ。


 もっとも表情はいつも通りで、にこやかに笑いかけてき、


「わたくしも、少しは貴方に見合うよう振る舞わねばなりませんわね」


 と、財布から千円札を出した。

 僕が払うのに――そう言おうとする智大を、朱璃がで制止し、千円札を折りたたんでいく。半分に、また半分に。三回折って小さくなったそれを左手で握り、「ちちんぷいぷい」たった今思いついたであろう言葉と共に開いた。千円札は消えている。朱璃のいたずらっぽい笑顔。わかっていたはずなのに、どきりとする。


「紳士たるもの、デートの最中に無粋なことを言うものじゃあありませんよ」

「相変わらずびっくりさせてくるなぁ、君は」

「……右ポケット」


 突然朱璃が言った。


「ん?」


 脈絡が飲み込めずに訊き返す。


「探ってください」


 言われるまま右ポケットに手を入れた。スマホと、正体不明の感触が一つ。取り出してみると、折りたたまれた千円札だった。

 穏やかで、それでいて心底楽しげな朱璃の笑顔。手品を成功させたときの、見慣れた合図。智大は、自分でも思いがけないほどその笑顔に揺らいだ。



 ――最近はずっとそうだ。僕の心は空洞だったはずなのに、彼女だけは、見ていると未知の感情が湧いてくる。


 黒塚朱璃。私の主人で、僕の知り合い。


 恐ろしいほどに美しいこの少女に、自分は一体何を感じとっているのだろう。



 どうしようもないほど胸が鼓動していた。朱璃を見ていられなくなって、明後日の方を見た。


「黒塚さんはさ」次の言葉も考えないまま、智大はおずおずと言った。


「なんで、今、手品を?」

「こうでもしないと受け取っていただけないと思いましたので」

「そっか」


 その言葉にも、朱璃は笑みを浮かべたままでいた。熱い顔を冷やすよう、ソフトドリンクを三口で飲み干す。目の前のパフェグラスがさっきより濁って見えた。まるで心の惑いを思い知らされたように。


「最近気づいたんだけど」ようやく目を合わせて、智大はずっと気になっていたことを言った。「目を盗むのが上手いよね、黒塚さん」


 揺らぎを鎮めるために世間話を切り出したのだが、なんだか悪口っぽくなってしまったことに気がつき、


「ああ、悪い意味で言ったわけじゃないんだ。公園で見せてもらった薔薇の手品もそうだったんだけど、上手いこと相手の気をそらしてるなって思ってさ」


 と付け足した。

 すると朱璃は、やや改まった表情になった。


「ミスディレクション」


 朱璃はゆっくりと言葉を選ぶ。


「会話や手振りなどで注意をそらす、手品の基本技術の一つです」

「名前の通りだね」

「観客の目を真実から遠ざける。ある種、それそのものが小粒の手品であるとも言えましょう」


 朱璃に会話の主導権を受け渡したところで、智大は止まない鼓動を落ち着けた。


「確かにすごいけど、悪用されそうだ」

「実際にされていますわね。例えば、ポケットから物を盗る技術と、さきほどわたくしが行なったポケットに物を入れる技術。どちらも同じスリの技術ですわ」

「言われてみれば、目的が違うだけでやっていることは一緒なのか」

「そういうことです」


 手品トークはそこで止まった。お喋り好きな朱璃にしては意外だったが、ムードを楽しんでいるのだろうと考えると納得できた。


「黒塚さん」


 短い髪を手で整えながら、智大が言った。


「どうされましたか?」

「このあと行きたい場所とかってあったりするかな? 時間的にはイルカショーなんかがあるけど」

「そうですね……」


 何やら考えているようだが反応は芳しくない。だから智大は、楽しげに笑いかけた。感情の知識を稼働して、理論で知りうる「楽しい」を精巧に模倣しながら。


「ホウボウ、見よっか」

「はい!」

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