四章 スリーカードモンテ

第22話

 デート当日の午前九時。待ち合わせ場所のきぶし公園で、智大は忘れ物がないかを確認していた。

 彼はダークカラーのパンツを履き、上半身もこれまたチャコールのチェスターコートで着飾っている。上品なショルダーバッグが陽で反射して眩しい。髪の毛も、普段以上にぴっしりと揃えられていた。まあ、それもこれも、「少しでも黒塚令嬢に見合うように」という、義務感で彩られた虚飾なのだが。


 思いの外気負っているな、と胸の中で事実確認を行いながら、智大は深呼吸した。彼女とは一度カフェに行っているので、デートも大丈夫だと思っていた。もちろんあれはデートではなくただの話し合いだが、それでも幾分か気持ちはマシだった。今回も似たようなものだと踏んでいた。

 ところが今感じているのは、圧し潰されそうなほどの義務感だ。

 デートは娯楽である。娯楽とはつまり楽しいものであるからして、彼女を楽しませるのはもちろんのこと、自身もポジティブな感情を抱かなければならない。それが今回のタスク。そうでなければ娯楽として成立しない。デートは初めてなので、上手く思考しなければ。


 楽しい、か。


 当たりカードを引いたときの章信の表情を想起し、試しに貼り付けてみる。喜びで上がる口角と眉。悪くはないが、デートというシチュエーションには少々そぐわない気がした。なので、今度は一緒にカードを買いに行くときの章信を真似する。期待に緩む頬に、いつもより気持ち開いた眼。こちらのほうが適切か。


 忘れ物の確認を終えた。屋敷側に目を向けるも、まだ朱璃は来ていない。

 そしてその数秒後のことである。屋敷側から、羽根田麻耶が現れたのだった。珍しく髪を後ろで結んでおり、トレードマークのキャップも被っていない。一瞬目が合う。が、距離のせいか彼女はこちらに気づいていないようだ。公園には足を踏み入れず、駅のある西側へと曲がった。


 昼過ぎに章信との約束を控えているはずだが、おやつでも買いに行っているのだろうか。でも、店や交通機関が揃っているのはどちらかというと西側で、黒塚家のある南側は案内していないはずだけど――。


 そのとき、突然、視界が真っ暗になった。「だーれだっ」続いて耳元で声がする。一応は屋敷の方向を見ていたのに。これをしたいがためにわざわざ遠回りしてきたのか。

 智大は頬を緩めた。


「この突拍子のなさは黒塚さんだな」


 正解ですわ、とあてがわれていた手が離れる。聞き慣れた低い声に、鳥のさえずりが重なる。

 振り返ると、愉快そうに笑う朱璃がいた。


 すっきりとした白いダウンジャケットに、薄桃色のロングスカート。足元は動きやすそうなスニーカーを履いている。

 予想より普通の恰好だった。が、それでもちゃんと着こなせるあたり、彼女はアパレル会社の令嬢なのだと改めて実感させられる。


「服、すごく似合ってるよ」


 慣れない褒め言葉を発すると、朱璃が満足そうにはにかんだ。


「ありがとうございます。……えっと」朱璃は智大の袖をきゅっと掴み、隣に並ぶ。そのままこちらを見上げると、恥ずかしそうに微笑んでみせた。「今日はよろしくお願いします、浦本様」


「こちらこそ」



 こうして朱璃とのデートが始まった。

 電車の中でも彼女は真隣に座っていた。普段より耳元が赤くなっていて、しかし手元はいつも通りに五百円玉を弄んでいた。指と指の間でコロコロ動かしたり、突如消えたと思ったらまた出てきたり、たまに失敗して落っことしたり。足元に転がったそれを拾ってやると、恥ずかしそうに謝るのだが、また我慢できなくなって手癖を再開する。

 やはり奇術師というよりは奇人なのだが、不思議なことに、彼女の手遊びは見ていて飽きないものがあった。


 次は、はこべら駅、はこべら駅です。お出口は右側です。気だるげな車内放送が流れる。「着きましたわね」またもや袖を握る朱璃。

 カップルに見えるであろうやりとりを微笑ましく眺めていたマダムに見送られ、智大たちは電車を降りる。


 はこべら水族館は、駅を出て数分歩いたところにあった。巨大な建物は白と水色で彩られており、入口近くの広場には至る所にペンギンのロゴがあった。

 受付に行くと窓口があり、制服姿の若い女性が笑顔で出迎えた。二人はチケットを出した。


「ごゆっくりお楽しみください」


 受付を通されて少し進むと、開けた空間に出た。改めて見回す。

 四方八方の水槽から漏れる青い輝きが、暗い館内をぼんやりと照らしている。右の水槽ではクラゲが美しく舞っていて、左奥では小魚が群れをなしている。

 どうやらここはロビーのようだ。中央の休憩コーナーが、子守に追われるファミリー客たちに占領されていた。


「人が多いから、離れちゃだめだよ」


 ご機嫌にはしゃいでは母親を困らせている幼児を見、智大は朱璃の手を握った。


「紳士ですのね」


 朱璃がコントラバスのような声を返す。口元を綻ばせ、横目で彼を見上げながら。


「だって君、すぐ迷子になりそうだし」

「貴方はわたくしにどのようなイメージを抱いていらっしゃるのでしょうか」

「……マイペースすぎる変人」

「ふふっ。ではしっかりと手綱を握っていただきませんとね」


 ニンジンめがけて走り出してはいけませんもの。朱璃はそう言って身体を寄せ、一回り小さな手で握り返した。


 BGMがフェードアウトし、ループする。静かなさざ波を思わせる曲。水族館の雰囲気にぴったりだ。


「大丈夫。最初からそのつもりだよ」


 楽しげな笑みを浮かべると、二人は紺碧の世界を歩きだした。

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