第19話

「義兄さんが遊びに行く⁉」


 財布から取り出された水族館のチケットを目にし、章信は凍りついていた。そんなに驚くことか、と智大は思った。遊びに行くという行動は、世間一般から見ておかしなことではないはず。ましてや高校生の発言なのだ。


 智大は財布をポケットにしまい直した。

 折角の休日ということで、章信との約束を果たすためにカードショップへと行くことにした。予算の確認中にチケットが目に留まったので、軽い世間話のつもりで来週の予定を伝えたのだが、まさかここまでの反応をするとは思いもしなかった。


 時計の針が昼の一時を指した。リビングルームには冷たい日差しが差し込んでいる。


「なんかあった?」黒いジャンパーを着込みながら、章信が智大に困惑の視線を向けてきた。「その、最近はアルバイト増えて忙しいんだよね」


 智大は、


「そうだね。火曜と木曜も、最近は働いてるかも」


 と言った。


「休みの日も朝から晩まで勉強してるでしょ。義兄さんが遊びに行くところとか、見たことなくて」


「ははは、いいじゃないか」ソファから義父の声。「そうねえ。あんたいっつも勉強してんだから、たまには息抜きしなさいな」母の声も。


「僕だって遊びにくらい行くよ。今日だってカードショップに行くわけだし」


 智大は誤魔化すように笑った。


「ほら、そんなことより早く行こう。見る時間がなくなっちゃうぞ」

「うんっ」


 愛する義弟は目を輝かせて玄関へと駆けた。智大の胸中にはまだ戸惑いがあった。それらに足を取られるようにのそのそ歩き出した。


 このあいだ貰ったペアチケットの詳細を見、昨日、智大ははこべら水族館について調べてみたのだった。イルカショーとペンギンが名物の、カップルにも人気な水族館らしい。そのような場所にこんなつまらない男を連れていってどうするのだとますます思ったのだが、あの黒塚朱璃のことだ、おそらく他に誘える相手がいなかったのだろう。


 それで、昨晩は一睡もできなかった。本当に届いた手紙に驚き、部屋に飾った薔薇を眺めては悩んでいた。なぜチケットを受け取ったのか、自分は水族館に行ってどうしたいのか。

 どれだけ脳に鞭打とうとも、行き着く答えは決まって一つだった。智大は来週、朱璃とデートに行くつもりだということだ。

 不快感はない。調べた情報からプランを組み立ててすらいる。デートを了承している時点で当然といえば当然なのだが、他者への親しみという感情を、彼は自覚せざるをえなかった。


 問題は、それが何によるものかだった。

 智大としては、恋をしているつもりはなかった。デートは仕事ではないので、義務感で了承したわけでもない。しかし東のお願いが引っかかっているのも事実だ。智大が寄り添うことで、東の気持ちは救われるし、同時に朱璃の気分も良くなる。

 けれどそれ以上に彼の心を突き動かすのは、純粋に、朱璃と過ごしてみたいという好奇心だった。自慢の奇術で謎を呼び、意味深な顔してデタラメばかり言う少女に対し、彼女ならまた何かを起こすかもしれないと考えていたのだ。それで彼は、漠然ながら他者に期待する自分にもまた混乱し、悩んだのだった。


 歩道橋を渡り、大通りの小さな商業ビルに入った。看板を確認して、エレベーターで三階に向かった。

 カードショップはこじんまりとしていた。気前の良さそうな中年親父が、エプロンを着てカウンターに立っていた。「らっしゃい」と見た目通りの元気な挨拶が飛んできた。芝生に放たれた犬のように章信が見て回り、智大もそれについていく。途中ショーケースを眺めていた帽子の客と視線が合い、逸らそうとして二度見した。羽根田麻耶である。


「……ん?」

「浦本ぉ⁉」


 彼女は飛び退き、UFOでも見るような目で智大を見つめた。


「今日はよく驚かれるなぁ」

「いやだって、よりによって浦本がこんな店に来ると思わないじゃん」

「僕そんなに気難しいイメージ持たれてるのか……」

「気難しいっていうか、人間味を感じないことはあるかも。完璧超人だし」


「ちょくちょく言われるよ」智大は笑って受け流した。「というか、君こそなんでカードショップにいるの?」


「カードショップいる理由なんてカード買う以外ないでしょうに」

「そりゃそうか」


 当然の返答に智大はうなずいた。そこで章信が顔を覗かせた。


「何してるの、義兄さん」章信は義兄の背後に身を隠し、おずおずと麻耶を見る。「だ、誰?」


 それに対して麻耶は控えめに笑いかけた。章信を驚かせないよう気遣ってくれているのは、智大にもわかった。

 彼女は軽くしゃがみ、章信と目線を合わせた。……しゃがむほど背に差はないが。流石、智大に背が追いついてきただけはある。


「弟さん、でいいのかな? あたし羽根田麻耶。最近引っ越してきてね、お兄さんとは同じクラスなの」

「お隣の羽根田さんだよ。ほら、羊羹の人」

「羊羹の人て。ようわからんイメージついちゃうでしょーが」


 麻耶がツッコんだところで、ようやく義弟は前に出た。


「ああっ、お姉さん、羽根田さんだったの?」

「そそ。何回かマンションで会ったよね」

「うん。それと、この前河川敷でも見かけたよ」

「河川敷……?」


 首を傾げる麻耶。


「多分マンションの北側にあるきぶし川のことだね。河川敷は普段スポーツクラブの練習場になってるんだけど、行く機会は少ないかな。ほら、店とか交通機関が揃ってるのは南の公園方面だからさ」


 智大が補足した。

 唖然と固まった麻耶だったが、次の瞬間、散歩してるとこ見られてたか、恥ずかしー、と頭を掻いた。


「そんなことよりさ、弟君も何かカードゲームやってるん? さっきから色々見てるみたいだけど」

「……ピスラピ」


 章信は小さく呟いた。

 『ピスラピ』――正式名称をピスキスラピス――というのは章信がはまっているトレーディングカードゲームのタイトルだ。かっこいいモンスターからかわいいモンスターまで様々なデザインのカードが取り揃えられており、アニメ化までされたことから海外でも人気を博しているらしい。


 麻耶はまたもや凍りついた。沈黙。時間と共に少しずつ解凍され、次には燃え上がった。その顔は、街の案内をしたときより感極まっていた。


「こんなところにもピスキストがいたなんて!」

「まさか、お姉さんもピスキスト⁉」

「これはもう、語り合うしかないね。――カードでっ!」

「えっ、えっ」唐突な距離の縮まりかたに智大は困惑する。何だ、ピスキストって。疑問に固まる智大を他所に、ピスキストとやらは盛り上がる。


「つっても店ん中でやるわけにはいかんからね。来週あたり、家の前でやらん?」

「あ、でも、来週は義兄さんが遊びに……」


 章信に服の裾を引っ張られた。水族館の予定と被ってしまうことを気にしているのだろう。智大は、義弟の頭を優しく撫でた。


「構わないよ。確かに留守番は頼んだけど、ずっと家の中に居ろってわけじゃない。危ないことさえしなければ、もっと自由に遊んでいいんだぞ」

「ありがとう。じゃあ羊羹のお姉さん」

「オッケー、来週の土曜日の昼過ぎにしようか。私たちの魂のデュアルをっ!」

「何だ、デュアルって……」


 二人の異国語は何から何まで理解できなかったが、ともあれ、妙な友情が芽生えたことだけは彼にもわかった。

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