第8話

 智大と朱璃は夕食の親子丼を食べ終えた。

 休憩もほどほどに中間試験の出題範囲を確認しているとき、テーブルの方で紙袋の音がした。朱璃がおやつを食べているらしい。

 部屋着とは思えない漆黒のドレスを纏い、塩パン片手に鼻歌を歌っている。


「ふんふんふふんふ」

「…………」

「ふふふんふんふー」


 邪魔するのも申し訳ないので、「……朱璃様」ジャズらしきメロディに一区切りがついたところで声をかける。するとリスのよう頬張った顔を向けてきて、飲み込んでから口を開いた。


「どうされましたか?」

「本日は勉強机で勉強いたしましょう」


 智大はプリントから顔を上げると、余所余所しい普段の姿とは違い忠誠心に溢れた笑顔で、勉強机に目配せした。机は大量の手品道具で埋め尽くされている。


「ダイニングテーブルではいけませんか?」朱璃は食べかすの付いた口をハンカチで拭いていた。ねだるような物言いだ。


「部屋の乱れは心の乱れでございます。勉強に集中していただくためにも、まずは部屋の掃除から始めていただくのが適切かと存じた次第です」

「……わかりましたわ。勉強のことは貴方に一任していますから」


 朱璃は少し不服そうに勉強机へと向かった。


「僭越ながら、私もお手伝いいたします」

「ありがとうございます。では、コインをテーブルにまとめてください」

「かしこまりました」


 一礼した智大は机の片付けをはじめた。

 コインは様々な柄のものがあった。雄々しく羽を広げたオオワシのコイン。偉そうな顔した男性のコイン。何をこんなに使うのか、ダイニングテーブルにはジャックポットの如くコインが積み上がっていく。


 不毛な作業にようやく終わりが見えてきたときだった。ふと指先に、小さめの写真立てが当たった。智大は手に取る。埃被っていたので軽く払う。するとそこには、朱璃に似た美しい女性と、幼い女の子が、手を繋いで立っていた。


「ああ、その写真」朱璃が声を上げた。トランプをケースにしまって、隣から写真を覗き見た。「懐かしいですね。母とサーカスに行ったときの写真です」

「朱璃様のお母上、ですか」


 よく見ると、背後にはサーカスらしきテントが写っていた。朱璃は言葉を続ける。「母と遊んだのは、これが最初で最後でした。この日、母は笑ってたんです」

「それは……」

「父も母もお金ばかり稼いでいます。だから、家にはたまにしか帰ってきません。そのくせ怒るばっかりで、手品が趣味など下賤だとか言って、凝り固まった価値観をわたくしに押し付けてきて」

「…………」

「だけど、この日だけは笑ってたんです」


 儚い目で写真の女性を見つめながら、朱璃は、口元で微笑んでいた。かける言葉を見つけられずにいた智大から、ひょいと写真立てを取り上げる。「すみません。こんなこと急に語られても困りますよね、すぐ片付けますわ」


 智大に背を向けて歩いて、ラックの前で腰を低くする。そして空いたスペースに写真立てを置いたあと、朱璃は数秒俯き、置いた写真をぱたりと前に倒した。


「これで全てですわね。では浦本様、本日もよろしくお願いいたします」


 深いお辞儀を合図に、家庭教師の仕事が始まった。


 朱璃の目標は全教科平均点を上回ることだった。机に向かって朱璃が座り、その隣のチェアで、智大が赤ペンを握る。時折間違いを指摘し、その度に解説を入れる。

 普段から章信に勉強を教えていることもあり、教えること自体にさほど苦労はしなかったが、朱璃が真隣にいるという妙な状況には慣れなかった。


 低くゆったりとした声、淑女のような佇まい、黒いドレス、いざなうような瞳。一つ一つの要素を分解していき、美人だ、と事実を認識する。

 認識するだけにとどまるのは、それら全てを極端なまでに客観視していたからだ。いや、本当は朱璃のような女の子がタイプで、だからこそ美人だと心の底では思っているのかもしれない。しかし仮にそうだったとして、彼にとってそれは事実でしかなかった。美しいというだけの、味気ない事実。


 朱璃の集中力が切れてきたところで休憩に入った。答案用紙に目を通した。智大は間違えた問題にチェックを入れていく。

 筆箱を漁っていると、朱璃に肩をつつかれた。


「浦本様」

「いかがなさいましたか?」

「実は、コーヒーの用意がございますの。お飲みになりますか?」


 反射的に断ろうと思い、考え直す。主人から物を頂くのは恐れ多いが、喉が乾いているのも事実だった。執事としてコンディションは保たなければならない。


「では、ご厚意に甘えて頂戴します」

「わかりました。ちょっとだけお待ちくださいね」


 朱璃は席を立ち、近くから三角折りにされたレジ袋を持ってきた。目の前で解いて、レジ袋の口に手を突っ込む。「この袋に入れたはずなのですが……おかしいですわね」などと奥まで探るが、中からは何も出てこない。持ってきた時点でぺしゃんこだったのだから当然だ。


 そのはずだったのだが、朱璃は「ああっ、こんなところにありましたか」と言って、袋から手を抜き出した。するとどこから出現したのか、朱璃の手には一本の缶コーヒーが握られていた。


「あまりに深いところにあったものですから、袋が飲み干してしまったのかと心配しましたわ」


 驚く智大に、朱璃は冗談を添えて手渡した。


 どくん、と心臓が高鳴った。その感覚には覚えがあった。東の名刺が消されたときにも感じたものだ。

 手品を披露した。冗談を言った。にこやかに笑った。コーヒーをくれた。全ては味気ない事実。そのはずなのに。


 黒塚朱璃という人間の事実は、なぜ心を揺さぶるのだろう――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る