第7話
「えっ」
翌日智大は驚いていた。
ホームルームが終わり、教室を後にする。するとどうだろうか、黒塚朱璃が平然とした顔で隣に立っているではないか。
靴を履き替えて声をかけると、待ってましたとばかりに朱璃が微笑んだ。
「今日こそわたくしと帰りましょう!」
「えぇ……」
心なしか周りの生徒まで同じ挙動を取っている気がする。凄まじいまでのデジャヴに智大が呆れ顔を浮かべた。
「昨日も見たぞこの光景……」
「水曜日なので特に問題はないと判断したのですが」
「そうだけど、驚いてるのはそこじゃないよ。昨日の今日で誘えるのが見かけによらず図太くてさ」
「お嫌でしたか?」
「嫌とかじゃないよ。最低限は仲良くしないとって思うから」これは本心だった。「ただ、まあ、単純に意外だなあとは」
「友人としてもそうなのですが、今日は主人としてお話がありますの。申し訳ありませんが今回だけは」朱璃は言った。
智大は次の言葉を考える。人目を確認した後、やりづらそうにうなずいた。「わかった。とにかく行こうか」と。
智大が先に歩きだした。朱璃もついてくる。校門を出た後、近くの自販機の陰に移動し、「昨日はすまなかった」と言って深々と頭を下げた。
朱璃は手に口を当てて驚いた。
「そんな、滅相もありませんわ。距離感を掴みかねていたのはわたくしの方です」
「昨日帰ってから考えたんだけど、やっぱり言葉が強すぎたなって思ったんだ。黒塚さんは僕と仲良くなろうとしてくれていただけだろう?」
「それは、その通りですけれど」
頭を上げると、朱璃はすっきりしない顔をしていた。
「浦本様は昨日、知り合いのままでいいとおっしゃっていました。わたくしたちの考えに相違があったのは紛れもない事実です」
「……執事は執事、僕は僕。公私混同はしない。僕の考えは変わらない」
「…………」
「その上で、昨日のあれは今後の関係に支障をきたす別れ方だった。あくまで僕たちの問題なのに、そこに執事の話を持ち出してしまったわけだから」
智大は、はきはきした口調を崩さない。
「几帳面な方ですのね。あの程度公私混同には含まれません」朱璃はその長髪を優雅に撫でた。「そもそも、浦本様をお選びした理由は、そういった真面目なところを見込んでのことですわ」
「そう言ってくれると助かるよ」
智大は姿勢を正すと、先導するように歩道へと戻った。一応辺りを見渡すが、誰かに聞かれている様子はなかった。
「もうすぐ中間試験です。貴方には家庭教師もご依頼していますので、当分は一層のお骨折りをお願いすることになります」
「うん。そういう契約だから」
「しかし、浦本様にもプライバシーがありますわ。昨日の件は、まあ、よくあるすれ違いだったと思いますが、今後ああいったことが起こらないとも限りません。そうなると、浦本様には余計なご負担をおかけしてしまいます」
「そうだね」
「そこで一度、擦り合わせの機会を設けたいと思いましたの」
擦り合わせ――。
その言葉を耳にした途端、智大の眉がぴくりと跳ねた。
「擦り合わせ?」
「はい。とはいえ、踏み込まれたくない領域はわたくしにもあります。互いのパーソナルスペースが許す範囲で、思っていることを話し合おうかと」
智大は「そうか」としゃがれた声を発する。
良い提案であると理屈では納得していた。けれど智大は、認め難かった。
昔から智大にとって、他者は他者だった。自分とその他を潔いほど切り離して考えていた。事実、見てきた他者は皆宇宙人のような思考だったし、そんな価値観の合わなそうな他者たちと、親しくなりたいと思ったことはなかった。
中学時代も同じようなものだった。高校受験が迫ってきたあたりでようやく、他者たちは一人ずつ独立した個人として彼の目に映るわけであるが、そのころにはもう、他者から絶妙に離れた位置取りで、馴染むでも孤立するでもなく存在する術を、修得していた。
「ずいぶん僕のことを信頼してるみたいだけど、どうしてかな」
「信頼ですか。そう見えますか?」
「僕たちは互いのことをほとんど知らない。昔軽く話した程度だ。なのに君は、僕を平然と迎え入れている。単純に疑問なんだ」
工事中の道路を、ガードマンに案内されるまま避けて進む。
親睦会など内心まっぴらだったが、最低限の仲は保たなければという考えから断るに断りきれず、本題から逸れた話を続けてしまう。
すると朱璃は優しく目を細め、智大の瞳を覗き込んだ。
「信頼など、誰しも最初はゼロです。しかし、良い関係は往々にして良い結果を生み出しますわ。トラブルの回避やパフォーマンスの向上などもそうですが、単純に、仲が良いほど気分も良いものです」
「それは、そのとおりだ」
「信頼は行動で示すものだと思っています。さきほどの擦り合わせの提案も、その行動の一つだと思っていただければ幸いです」
そうだな、と言ったきり、智大は口をつぐんだ。
契約書を作ってくれたこと。日程に融通を利かせてくれたこと。発言に違わぬ朱璃の行動を思い出し、いよいよ否定の材料がなくなる。
「万が一の話だ」智大は治の話を思い出していた。「僕と黒塚さんの関係が……発展しすぎたとしよう。それが原因で業務に支障をきたすかもとは考えないのかな」
それを聞いた朱璃が締めとばかりに、
「貴方は公私の分別がつく方であると、わたくしはそう評価しております。この評価は、今までの仕事ぶりで浦本様が示してくださった信頼ですわ」
と、言った。
「誠意には誠意でお応えするのがわたくしのポリシーです。わたくしは主人として、また、一人の人間として、公私混同しないことを貴方に誓いますわ」
とも。
こいつは曲者だ、と智大は思った。
人にはいくつかの思考パターンがある。個性とも呼ばれるような、個人の考え方の癖のようなものである。おそらく彼女は、そういった思考パターンの数々を熟知している。そして弱点を突いて言い聞かせるのだ。鎧の隙間に針を刺すよう、相手に気付くことすらさせずに。
反論を諦めて、笑顔を作った。それを見た朱璃も何事もなかったかのように笑った。
「友人がいないと言っていた割には舌が回るな」
「奇術の世界にはこのような言葉がありますの。『手が一つに口が三つ』」
「へえ、どういう意味?」
「奇術師は手の三倍、口を動かす生き物だというお話ですわ」
「あの手癖の三倍か、それは大変だ」
「きっと前世はマグロだったのでしょう」
共に歩きながら、智大は自分から喋ることはしなかったが、朱璃の軽妙な話を聞いた。手品のこと、練習の日々、東の反応。
変な感じだった。時間が早く過ぎていくような。聞き逃すには微妙に惜しい程度の珍奇な無駄話が、すらすらと耳に入り込んでくるような。
「手品もクライマックスです。『貴方の選んだカードは、ズバリこれです!』と、意気揚々とハートの5を取り出したわけですが」
「うん」
「東様ってば、『あれ、俺何選びましたっけ?』なんておっしゃいましたのよ。あの時は奇術師であるわたくしの方が驚かされましたわ」
「鶏みたいだな……」
「前世はにわ――今日は色んな動物が出てきますわね」
淑やかな口元から軽口を垂れ流しまくる彼女は、奇術師というよりは奇人であったが、しかし気付けば談笑に巻き込まれていた。そして、彼女の穏やかな雰囲気こそがそうさせているのだとも気付き、心の中で今一度呟く。
こいつは曲者だ。
*
きぶし公園が見えてくると、一旦朱璃と別れ、荷物を置きにマンションへと向かった。四階のボタンを押し、間もなくしてエレベーターのドアが開く。廊下を数歩進んだそのとき、家の前に少女が立っているのが見えた。
背は高くないが章信の友人にしては大きかった。手にはなにやら小包を持っている。警戒しつつ、智大は爽やかな笑顔で近づいた。
「こんにちは。うちに何か用ですか?」
「ああ!」少女の困り顔がぱあっと明るくなった。「もしかして403号室の人ですか?」
「はい」
「あたし、402号室のハネダっていいます。さっき隣に引っ越してきまして、挨拶をと思ったんですけど留守みたいだったので」
ハネダと名乗る少女は、耳下に伸ばしたサイドテールを尻尾のよう揺らし、「これどうぞ。羊羹です」と、智大に小包を手渡した。小包には掛け紙が貼ってあり、そこには『ご挨拶』と書かれている。
「ご丁寧にありがとうございます。これからよろしくお願いします、ハネダさん」
「いえいえっ、こちらこそよろしくです。それじゃあ浦本さん、あたしはこれで」
そう言うなり少女は402号室に飛び込んだ。愛想はいいが忙しない女の子だと思った。
自宅に上がると章信が心配そうな顔で玄関へ駆けてきた。知らない人のインターホンは出ないように、という智大の言いつけを守っていたようだ。
「ただいま」
義弟を安心させるよう、智大は優しい笑顔を向けた。
「引っ越しの挨拶だったよ。ハネダさんって人らしい」
「それ何?」章信は小包を指差す。
「さっき貰ったんだ。羊羹だって」
智大は靴を揃えながら言った。
「開けていい?」
「いいよ。僕はアルバイトに行くから、今日も留守番頼んだよ。中身は食べていいからね」
そう言って私服に着替え、章信に小包を渡した後、
「いってきます」
「いってらっしゃーい。頑張ってね」
智大は再び家を出た。
思考が朱璃に塗り替わる。
仕事だ。
再びきぶし公園まで歩いた頃には、お隣さんのことなど頭から消えていた。
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