二章 エースオープナー

第6話

 肌寒くなってきたな、と朝日を見て智大は思った。


 道行く人たちは長袖を着ているし、自販機はホットの缶コーヒーが売り切れている。

 先週辺りまでは暑さ対策がどうこうなどとニュースが流れていたはずなのに、十月が目前になると、急激に気温が下がったように思う。近いうち章信が温かい料理を欲しがるだろうと予想した。


 智大は駅の改札を通過した。通学の途中だ。階段を登り、向かい側のホームへ移動する。

 ホームには朱璃が座っていた。飽きずに小物を触りながら、時折電光掲示板を見上げていた。目線を再び下ろした拍子に、朱璃もまた智大に気づいた。


「おはようございます」


 朱璃が言った。器用なことに、定期券を手から出したり消したりして遊んでいる。


「おはよう」智大は歩み寄り、フレンドリーな態度で接した。


「黒塚さんってよく小物を触ってるよね」

「ええ。よく見ておられますわね」


 何がおかしいのか、朱璃は定期券で口元を隠す。

 よく見ているもなにも、先月から君の執事じゃないか。つい言いそうになって、やめた。智大は公と私を分けて考えていた。必要なとき以外に、執事のことを口にするのは憚られた。


「まあね」


 智大はそう言ったきり次の言葉を待った。それから朱璃が笑って、その割には落ち着いた声で、


「手癖は奇術師のさがのようなものですわ。なんと説明すればいいのでしょうか、手が動きを求めてしまいますの」


 と、病気じみたことを話すのだった。


 間もなくして電車に乗り、人の海に押された。満員電車では流石に手遊びしないらしい。朱璃は壁にもたれかかり、遠くをぼうっと見つめていた。降りてからも観察したが、朱璃は手を擦り合わせてばかりいた。


 学校につくと野球部が朝練をしていた。大変そうだと他人事のように思いつつ、上靴に履き替える。


 智大は教室のドアを開けた。他の生徒と喋っていた真鍋治が、智大に気づいて声をかけた。そして次の瞬間には背後の朱璃にぎょっとして、けれども平然な顔を作り直した。


「一緒に登校したのか?」朱璃が窓際の席まで移動したのを確認してから治は言った。

「うん。たまたま駅で会って」

「たまたまねえ。一緒に教室に入ってきたことなんて、今まで一度もなかった気がするけど」

「……そう?」

「見たことなかったんだよな、あの黒塚さんが誰かといるの」


 ぼっち疑惑が暴かれそうだ。知り合いの沽券を守るため、智大は咄嗟にフォローする。教科書を机に移しながら、さりげなく。


「そうかなあ。小中の頃は普通に友達いたよ」

「対応力とんでもねえなそいつ」

「そんな、黒塚さんをモンスターか何かみたいに」


 なかなかに失礼なことを言っている気がするが、智大にもなぜか納得できた。なぜか納得できたが、その続きを口にしたのは智大ではなく治だった。


「実際、魔女みたいな人だなぁと思うぜ、俺は」


 魔女という単語はとても曖昧で、それでいてぴったりな表現だと思った。どうともとれる言葉に智大は迷ったが、


「というか、ずいぶん気にするんだね」


 と、話をそらした。


「そりゃ気になるだろ。黒塚さんのタイプって浦本みたいなやつなのかなーみたいな」

「まさか真鍋君」


「いやいやいやいや!」治は必死なまでに両手を振った。「流石の俺もそこまで無謀じゃねえって。ただ、純粋に気にならね?」


「みんな好きだなあ、浮ついた話」

「だって楽しいじゃん。一組の杉山なんて、こないだ山本と付き合い始めたらしいし。あの鰻と梅干しみたいな二人がだぜ? なんでうちの高校新聞部ねえのかなあ」

「ふうん。よくわかんないけど」


 時間割を確認しながら適当に相槌を打つ。すると、朱璃と智大を交互に見て、納得したように治はうなずいた。


「いやでも、浦本なら釣り合い取れてる気がするんだよな」

「釣り合い? 黒塚さんとってこと?」

「おうよ。だってお前バケモンみてえな学力してるだろ。それと、一人称が僕だからかねぇ? ちょっと頼りなさそうな雰囲気はあるけど、顔も良いし」

「いくら褒めてもカレーパンは奢らないよ」

「だめかっ。強え」


 治は冗談を挟んでから続けた。


「実際性格も良いしさ、モテんじゃねえの?」

「そんなことないと思うけど」

「あんまり謙遜すんなって。だって、りんのやつぼやいてたぜ」

「何を?」


 智大は首を傾げる。それを見た治は、無邪気に身を乗り出してきた。


「卓球だよ卓球。中学んとき、地区大会まで進出してたんだってな。しかも県では三位! すげえじゃんか。そりゃしつこく誘われるわけだ」


 黙りこくったまま鞄の整理を終えると、やがて智大は困ったように笑った。


「……そうだね」


 すげえ、か――。


 何がすごいのだろうと智大は思う。練習の成果を競い合い、勝敗を決める。試合とはその勝敗を確認するための作業にほかならない。


 確かに、勝った。だからなんだ。百点を取れるだけの学力の人間がテストを受けて、百点を取る。県で三位程度の実力の人間が試合に出て、県で三位になる。そんなごく当然の『事実』の何が喜ばしいのだろう? 勝ったという事実は、勝ったという事実でしかないのに。治の語るすごいがまるで理解できない。


 だが振り返ってみると、逆のことならば、いくらでも心当たりがあった。勝ちは虚しいが負けは許せなかった。問題を間違えた自分も、準決勝で負けた自分も、確かに憎んでいる。



 欠けた自分に辟易しながら、智大はその日の授業を受けた。ホームルームが終わり、荷物をまとめて教室を出る。


 下駄箱の前では朱璃が待っていた。その友好的な表情を見て、智大は対応を思い迷った。

 顔には出さなかった。愛想笑いを作り、下駄箱に近づいた。朱璃は履き替えるのを律儀に待っている。一緒に帰る腹積もりのようだ。親友面とも言えるその立ち振る舞いに、智大は内心冷たい目を向ける。


「黒塚さんも帰り?」

「はい。もしよろしければと――」

「ごめんね、今日は用事があるんだ」


 おおらかな口調で智大は遮った。けれど朱璃は即座に察したようで、「そうですか。……大変失礼いましましたわ」凍りつくような声を発した。つかの間の沈黙。運動部の掛け声が聞こえてくる。


「今後のためにも一応言っておくね」彼女にお芝居は通らないらしい。智大は真顔に戻っていった。「君と親しくなるつもりはない。仲良くしてくれるのはありがたいけど、過度に関わると主従関係が崩れる要因になる」


 朱璃からも笑顔が消える。取り乱さず、淑女を貫きながら。「なるほど」


「業務時間内――月水金の四時から八時は朱璃様の執事だ。だけど、学生としての僕たちは知り合いでしかない。それでいいんだ。理解してほしい」


 怒るわけでも、迷惑がるわけでもなく、智大は機械のように事実を告げる。朱璃は言い返さない。納得はしている様子だった。


「おっしゃるとおりですわ。わたくしたちは数回言葉を交わした程度の間柄です」

「…………」

「ましてや本日は火曜日。貴方を拘束する権利など今のわたくしにはございません」


 肯定とも当て擦りともとれる発言に、智大はすぐには言葉を見つけられなかった。代わりに大きなため息をついた。


「すまない。邪険にするつもりはなかったんだ、僕は」

「わかっていますわ。わたくしこそ、出過ぎた真似をしたようです」

「ごめんね黒塚さん」


 朱璃に謝ると、智大は早足で下駄箱を後にした。

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