第5話
更衣室のクローゼットに立て掛けられた燕尾服を目にし、智大は固まっていた。東の服装から予感はしていたものの、いざ着るとなると、流石に時代錯誤が過ぎるのではと思った。
横では東が書類に目を通していた。軽薄そうな風貌に反して根は真面目らしい。
そうだ、これは仕事だ。引き受けた以上、一切の妥協なくこなす義務がある。
そんなことを思考して智大は着替えた。ほっそりした袖元と、肌触りのよい白手袋に、智大は顔を引き締めた。ここからは仕事だ。
「な、なんか、雰囲気変わりましたね」東が智大に困惑の視線を向けた。「浦本君でしたっけ? さっきまでは、もっとこう、ほんわかしてたっていうか」
智大は眉一つ動かさず、東に礼をした。
「自己紹介が遅れました。私は浦本智大と申します。本日はご指南のほどよろしくお願いいたします」
「……教えることあんまりなさそうっすけど、とりあえず行きますか」
そういって東は先行した。
仕事の前にまずは案内だった。智大は東の後をついていった。東に貰った地図を見る限り屋敷は三階建てで、これまた中世を思わせるような内装になっている。キッチン、浴場、トイレから階段の場所まで、説明を受けるままに智大はメモを取っていった。
一通りの説明が終わったところで、智大は扉の前に立たされる。東の固い顔から予想はついた。この先が朱璃の部屋だ。
東が隣でマニュアルらしきものを閉じた。
「屋敷の説明はこれでほぼ全部っす。とはいえわからないことだらけだと思うんで、何かあったらすぐ言うんすよ」
「ご配慮いただき恐れ入ります」
東に礼を述べて、扉をノックした。お入りください、と中から朱璃の声が聞こえてくる。背と襟を伸ばし直すと、智大はドアノブを回し、足を踏み入れた。
部屋は物で溢れていた。壁にはステッキが数本立っていて、勉強机は手品道具でぐちゃぐちゃになっている。部屋の隅にはダース買いされたトランプの山がある。部屋そのものの広さもあってか、扉を隔てたこの空間だけは別世界のように思えた。
薔薇の香り漂う部屋の中、朱璃は、中央のダイニングテーブルでトランプを切っていた。
「失礼します」智大は歩を進める。一定の距離で立ち止まり、柔らかな笑顔のまま頭を下げる。「改めまして、黒塚様の執事を勤めます、浦本智大と申します。本日は何卒よろしくお願いいたします」
あら……。そう呟いて手を止める朱璃。その顔には驚きの色が写っていたが、すぐ元に戻った。
「ご丁寧にありがとうございます。では、早速ですが、夕食の準備をお願いします」
「かしこまりました。どのような品をご希望でしょうか?」
「どのような料理をお作り願えますか?」
「食材さえあればどんなものでもお作りいたします」
言い切る智大に、朱璃はまたもや目を見開いた。
「そうですね……では、肉料理をお願いしましょうか。できればさっぱりしたもので」
「かしこまりました。少々お待ちください」
智大はうなずいた。部屋を出て、外で待機していた東と合流し、そのままキッチンへと向かう。
「冷蔵庫の食材は自由に使ってもよろしいのでしょうか?」
エプロンを装着しながら智大が訊いた。目の前には巨大な冷蔵庫が二台、風神雷神の如く並んでいる。
「そっすね。よっぽど使いすぎるとかでもなければ大丈夫っすよ。まあ、使い切るとか逆に無理なんで誰も気にしてないっすけど」
確認を取った智大は冷蔵庫を開き、頭の中で献立を組み立てた。器具の場所もついでに訊き、流れるよう調理に取り掛かる。
智大の手際は素晴らしいものだった。まるで無駄というものを憎み根絶やしたように、一切の隙がなかった。
料理は半時間程度で完成した。そうして味見を済ませ、ワゴンに乗せて持って運ぼうとしたところで、東に呼び止められた。
「言い忘れてたんすけど、ちゃんとお嬢様の自室に持っていくんすよ」
「自室ですか? ダイニングルームがあったと記憶していますが……」
「あそこは使用人の休憩室みたいなもんっす。お嬢様は毎日自分の部屋で食ってるんで」
「私達以外に三人ほど使用人がいるともお聞きしていますが、黒塚様はご一緒なさらないのですか?」
「……仲、悪いんすよ」
掠れた声で東は呟いた。その顔には苦悶の色が浮かんでいる。東がそのことでひどく悲しんでいるのは、出会って数時間しか経っていない智大にも理解できた。
かと思えば東は、不自然なほど明るく笑った。
「ま、そのうちなんとかなるっす。それより早くしないと料理冷めますよ」
触れられたくないのだろうな、と思った。ならば、わざわざ追求する必要はない。契約書の文面上、黒塚家のいざこざは業務範囲外だ。
智大は急ぎ足で料理を運んだ。まだ冷めてはいない。再び部屋に入り、テーブルに食器を並べていく。部屋に甘い香りが漂いはじめる。朱璃の儚い目が幸せそうに細まる。
「まあ、とても美味しそう!」
「チキンソテーの野菜ソース添え、チーズオムレツ、それとサラダでございます。ごゆっくり召し上がってください」
「はい。それではいただきます」
そう言って両手を合わせて食べはじめた。所作を保ちつつも朱璃は美味しそうに頬張る。部屋の隅で待機していると、「立ちっぱなしも大変でしょう。浦本様もお座りください」と不意に声をかけられた。
「そんな、恐れ多いです」断ろうとするものの、
「まあそうおっしゃらずに。どうか話し相手になってくださると嬉しいです」と何度も押され、断り続けるのも失礼に値すると思った智大は、やむなく正面の席に座った。それを見た朱璃が嬉しそうに頬を緩めた。
「お味のほどはいかがでしょうか?」
「素晴らしいですわ。こんなにも美味しいお食事は久方ぶりです」
「身に余るお言葉です」
「あら、世辞ではありませんのに」
朱璃はナイフでオムレツをスライスする。テーブルの端には、さきほどまで使っていたであろうトランプが置かれていた。
主人の話し相手を務めるため、手始めに食いつきの良さそうな話題を切り出すことにした。
「黒塚様は、手品が本当にお好きなのですね」
「手品はわたくしのアイデンティティですわ。イリュージョンという言葉があるように、愉快な幻を演出してくれますのよ」
「愉快な幻、とは面白い表現です」
「手品なんて嘘ですもの。嘘だからこそ、人の心に希望を与えてくれます。浦本様ならばご存知でしょう?」
「…………」
言葉に詰まった。朱璃は嫌味のない笑みを浮かべていたが、だからこそ何を言うべきかわからなかった。
黒塚さんは覚えているのか、昔一度だけ話したあの日のことを。
「お仕事の話に戻りましょうか」朱璃が話題を変えた。「既に東様から説明をお受けになっているかと思われますが、この家には正規の使用人が居ます。わたくし個人ではなく黒塚家の使用人です」
「存じ上げております」
「だから掃除や洗濯をしていただく必要はございません。東様以外の使用人と関わる必要もありません」
その声はどこか排他的に響いた。朱璃はすかさずサラダを口に運んだ。
話の意味は理解できた。が、意図までは理解しかねた。そもそも使用人が居るのは、この広い屋敷を管理するためだ。使用人が居れば生活には不自由しないはず。であれば、自分が居る理由は?
「では、私は一体何をすればよろしいのでしょうか?」
「わたくしからお願いしたいことは主に三つです。夕食の準備、家庭教師、そして手品の評価」
「手品の評価?」
これまた理解できない言葉に、智大は首を傾げる。
「ええ。わたくしの手品に駄目な部分はないか、また、どうすればより良くなるか。第三者として思ったことを忖度せずに話してほしいのです」
智大は首を横に振った。
「お待ちください。手品に興味があるとは申し上げましたが、私はトリックに関しては全くの素人です」
「だからこそです。タネを一度知ると、知らなかった頃には戻れません。そして、知っているという事実は先入観を生み出します。わたくしが知りたいのは一般人の目線での評価ですから」
「左様でございましたか」
「もちろん、これらは浦本様が執事を続けてくださることを前提としたお話ですわ。無理強いはいたしません。ですが、受けていただけるのであれば、相応のお給料を約束します」
控えめぶった様子を見せながらも給料をちらつかせる少女に強かさを感じ取りつつ、智大は思惑に乗っかる。
時給2000円。四時間で8000円。ある意味想定より激務だが、家庭教師と家事代行を足してニで割ったと思えば充分すぎる額だ。
なにより、ずっと気になっていた。薔薇はいつ隠したのか? 東の名刺はどこへ消えたのか? なぜそのようなことが起こり得るのか? どうして彼女はそれらを起こせるのか? もしかすると、疑問の先には自分の望むものがあるかもしれない。智大にとっては金銭よりもそっちのほうが大きかった。
「喜んでお受けいたしましょう」
智大は大きくうなずいた。次の瞬間、朱璃はナイフとフォークを置いて、雨後の快晴のような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。浦本様にお願いして正解でしたわ」
「恐縮です。至らぬ点も多いかと存じますが、何卒よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」柳髪を美しく靡かせて、朱璃は思い出したように言う。「ああ、それともう一つ」
「いかがなさいましたか」
「わたくしのことは朱璃とお呼びください。ここは黒塚家ですから」
安くない給料を支払ってまで執事を欲する彼女の思惑はわかりかねた。が、智大にとってはどうでもよかった。
執事が仕事をこなし、主人が対価を払う。それが黒塚朱璃と交わした契約である。それ以上でもそれ以下でもない。黒塚朱璃の執事として、『私』は役割を全うするのみ――。
まるで心を隠すように、智大は笑顔の仮面を被った。
「かしこまりました、朱璃様」
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