第4話

 勤務時間――午後4時から午後8時まで

 勤務場所――黒塚宅

 給料――時給2000円



 執事の契約書を読み返しながら、智大は床に座って洗濯物を畳み、黒塚家でもこんなことをするのだろうかと考えていた。掃除をしたり、料理をしたり、大量の皿を洗ったり。そして忘れてはならないのが、黒塚令嬢の草履持ち。窓から見える黒雲のように、智大の頭にはもやもやとした不安が積もっていた。


 契約書を貰ったのは二日前の木曜日だった。

 最初はたちの悪い冗談なのではと思った。けれど朱璃の話を聞いていくうち、智大を名指しで選んだ理由も聞かされ、契約書まで見せられたら信じざるを得なくなった。たちの悪い冗談は、たちの悪い真実へと進化したのだ。



 わたくしの身の回りのことをお願いしたいと思っておりまして、できれば交友のある方がよかったのです、なにぶん人見知りなものでして、それで、浦本様ならばと思いましたの、学校がずっと一緒で、紳士的で、しかも手品に興味がおありということで、わたくしの手品も見ていただけそうですし、わたくしには友人と呼べる友人もいませんので――。



 朱璃の作り物めいた口調が思い出される。おんぶにだっこに肩車までねだるような内容だったことは憶えているが、要するにこの依頼は、『黒塚家』ではなく『黒塚朱璃』個人のものということだった。このような契約書を作ったのも、約束を守るという意志の表明らしい。


 とまあ、こんなトンチンカンな話にも関わらず契約書を受け取ってしまったのは、その条件の良さからだ。

 智大は家事ができる。勉強も教えられる。家が近ければ給料もよく、スケジュールは融通を効かせると朱璃が言っている。なにより決め手となったのは「まずは一日、お試しでいいので来てくださると嬉しいです。合う合わないもございますし、わたくしも無理強いはしたくありませんから」という気の利いた言葉だった。


 そうだ、合わなければ一日でやめればいい。簡単な話だ。


 にこにこした章信が、廊下の曲がり角から現れた。その顔からは、智大への尊敬の念が感じ取れる。


「義兄さん、今日はアルバイトに行くんだよね」

「うん、もうすぐだな。家事は大丈夫そうか?」

「バッチリだよ。俺だって義兄さんみたいに頑張るんだ」


 やる気に満ち溢れた章信を見て、智大は安心した。普段から手伝いを積極的にしてくれる章信ならばなんとかなるだろう。

 章信は続ける。


「で、でも、無理しちゃだめだよ。お仕事大変なんでしょ?」

「そこそこ大変だとは聞いてるけど、大丈夫だ。僕は――」


 強く在らなければならない。不完全な自分を許さない、許しちゃいけないんだ、絶対に。憎しみの炎を糧に智大は笑いかけた。


「給料いいから小遣い増えるぞ。章信ってカードゲーム好きだろ? 日程は掛け合ってくれるみたいだから、お金が貯まったら一緒に買いに行こう」

「やった! じゃあ、また勉強も教えてくれる? これからも遊んでくれる?」


 気丈な振る舞いの節々からは不安が滲み出ている。智大はあやすように、愛する義弟の頭を優しく撫でた。


「もちろんだ。僕は義兄ちゃんだからな」


 決して笑顔を崩さずに時計を流し目で見、作業を中断して立ち上がった。洗面所に行き、身だしなみを入念に確認すると、バッグをしょって玄関へ向かう。


「帰るのは八時過ぎくらいになると思うけど、何かあったら遠慮なく電話するんだぞ」

「はーい、行ってらっしゃい。頑張ってね」

「章信も。それじゃあ行ってきます」


 智大は家を出た。すぐにきぶし公園が見えてきて、智大はやはり手品を思い出す。薔薇はハンカチにカモフラージュされていたのかもしれない。たしかあの時、朱璃はハンカチを揺らしていた。


 黒塚宅に着くと、話し声が聞こえてきた。片方は黒塚さんのようだ。智大を待っているようで、シックな黒いワンピースに身を包んでいる。智大の足音に気づいたのか、会話がやんだ。隣の燕尾服の大男が前に出てくる。男は大学生くらいに見えた。身体は智大より一回り大きくて、茶髪をツンツンに逆立てている。


 男は智大の顔を見るなり、「君もそう思うっすよね⁉」と詰め寄ってきた。


「え、何がです?」


 智大は押され気味に訊き返す。

 すると男は一枚のカードを差し出した。そこには『東大貴あずまだいき』と汚い字で書かれていた。名刺のつもりだろうか。


「もうすぐ新しい人が来るらしいんすよ。それでお嬢様に、名刺を印刷しておいて、って言われたんす」

「はい」

「でも印刷機とかよくわかんねぇから、手書きでいいかなって。そしたらめっちゃ怒られて」

「はあ」

「名刺なんてわかればいいですよね? どうせ個人的なアレみたいですし。最悪バイクの免許見せればいいっすし」


 東の問いに智大は眉をひそめた。言うべきことが多すぎてどこからツッコめば良いのかわからなかった。

 見かねた朱璃が二人の間に入り、名刺に成り損ねた何かを取り上げる。


「読めない名刺は名刺足り得ません」


 これ以上ないど正論を吐くと、朱璃は右手に持った名刺を軽く振り――次の瞬間には名刺が消えていた。


「えっ」


 見間違いかと凝視するが、白い手のひらには塵一つ残っていない。どこかに投げ捨てた様子もない。

 そうして驚く智大を他所に、朱璃はその手をポケットに入れ、新しい名刺を取り出した。智大に渡す。


「予備を作っておいて正解でしたわ。こちらは、わたくしの家で使用人を勤めております、東大貴様です」朱璃は腕組みし、東を振り返った。「それと東様、この方が浦本様です。本日はご指導の役をお願いいたしますわね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る