第2話

 ハンカチが取られると、少女と目があった。

 長くさらさらな髪、睫毛に彩られた儚い瞳、たおやかな風貌。


 黒塚朱璃くろつかあかりの気品が損なわれたことはない。大企業、黒塚商事の社長令嬢として、朱璃は十六歳でありながらも相応の品を纏っていた。


 智大の存在に気づいた朱璃は、口元に手を当てて驚いた。


「あら……浦本様。とんだ無礼をいたしましたわ」


 幼さの残る顔に反して低く落ち着いた声を発し、朱璃は頭を下げた。指先一つとっても上品な振る舞いに、智大はやりづらそうに苦笑した。


「目に入ったりはしてないから大丈夫だよ」智大はベンチの左端まで移動し、薔薇を渡す。「これ黒塚さんのだよね。返すよ」


「ありがとうございます」

「にしても、まさかこの公園で君と出くわすとはね。手品の練習中?」

「ええ。手応えは今一つですが」


 朱璃はハンカチを揺らし、しゅんとうなだれた。


「そっか」返しに詰まる智大。それから数秒、無言で見合う。


 息を吐いて沈黙を振り払い、続けざまに吸うと智大は明るい声で言った。


「一度見せてほしいな」

「手品をですか? わたくしは構いませんが、どうしてでしょうか」

「今、僕、色んなものを見てるんだ。新しい刺激を求めてるっていうのかな。どうせ練習するなら観客になろうかなって思ってさ」


「そういうことでしたか。しかし――」朱璃の顔つきが変わった。凛とした佇まい。ややハスキーな声。「お客様ということであれば粗相はできませんわね」


 闘牛士の如くハンカチを構える朱璃に、おお、と思わず声を漏らした。


 朱璃の手品はまさに舞だった。ハンカチを優雅に扇ぎ、裏と表を交互に見せる。そうして仕掛けがないことを強調すると、ここぞとばかりにハンカチを高く掲げた。朱璃がにこやかに微笑み、昂ぶる期待を解き放つよう大仰にめくる。すると、ハンカチの裏からさきほどの薔薇が姿を表した。


 智大は拍手した。定番の手品ではあったが、質のいいパフォーマンスであることは素人目にもわかった。

 流麗な礼で応えた朱璃は、薔薇を智大に手渡す。「えっ」首をかしげると、朱璃は柔和に笑った。


「観てくださったお客様への贈り物です。つまらないものですが、これが道しるべになることを祈っていますわ」

「道しるべって……」

「お顔に書いていますわよ、迷っている、と」


 緩やかな口調にどきりとした。いつも通り笑顔を作っているつもりだったし、本心を悟られない自信もあった。虚偽のプロたるマジシャンは虚偽に目敏いものなのだろうか。その儚い目には全てを見透かされているようにすら感じてしまう。

 智大としては、見破られたという事実を否定したかった。だが立ち上がる朱璃がそれを許さなかった。


「本日はご鑑賞ありがとうございました。さようなら、浦本様」そう言い、朱璃は公園を去っていった。


 建物の角に消えるのを見送ったあと、貰った薔薇に改めて目を落とした。精巧にできている。棘のない造り物だが、この美しさを前にして贋作とは罵れないなと思った。


 というか、どうするんだこれ。智大はふと思う。はっきり言って要らないのだが、とはいえ贈り物を捨てるのも躊躇われる。……体よくゴミを押し付けられたんじゃないか?


 智大もまたベンチから立ち、薔薇の置き場所を考えはじめた。





「おかえり義兄にいさん」


 家に着くと、義弟の大西章信おおにしあきのぶが出迎えた。ただいまと返す。勉強を教えてほしいと必死にねだる章信を宥め、智大は手に持っている薔薇を見せた。


「それどうしたの?」

「友達から貰ったんだ。捨てるのもあれだし、折角だからどこかに飾ろうと思ってるんだけど」

「そうなんだー……」


 章信は薔薇に興味津々なようで、上から横からと覗き込んでいる。靴を脱ぎ、智大は自室に鞄を置く。薔薇も一旦部屋に飾る。手を洗っている間も、章信は一心不乱に薔薇を見ていた。


「欲しいならあげようか?」

「うーん……」顎に手を当てて考え込んでから章信は、元気な声を出した。「いいよ。義兄さんが貰ったものだから。義兄さん言ってたもんね、『人のものを取っちゃだめだ』って」


 章信が言い、それは智大が教えたこととは違うような気がしたが、実際はそこまで間違っていないような気もしてきて、


「別に取るとかじゃないんだけど……ありがとう」


 智大は曖昧に笑った。その拍子に、時計へと目をやった。


「六時か。勉強もいいけど先にご飯だな」

「肉! 肉がいい!」

「わかったわかった。今日は唐揚げだ」


 忙しなくはしゃぎ回る章信をキッチンから遠ざけ、智大は料理を始めた。


 章信が義弟になったのは今から二年前だった。大喧嘩の末離婚した父と取っ替えるように、母は義父と再婚した。章信はその息子だ。


 最初は何も喋らなかった。高校受験が近いから気を遣っていたと本人は言っているが、それを踏まえても口数が少なかったのは、何らかの心の傷から智大を信用していなかったのだろうと思われた。

 章信の傷を確信したのは、再婚から三ヶ月ほど経った頃だった。自室で勉強をしていたとき、隣の部屋から夜な夜な泣き声が聞こえてきたのだ。いや、それまでにも、何かを抱えこんでいる様子はあった。だが受験を控えている智大にも余裕がなかった。


 智大は章信とは名字が違う。もっといえば、母とも義父とも違った。名字が変わることでいじめられないようにという義父の配慮だったが、それがかえって義弟との溝を深めたようだった。家の表札も、再婚と同時に変わったのだ。当時小学三年生だった章信にとって、大西の名を冠さない智大の存在はまさに異物だったのだろう。義兄さん、などと気軽に呼ぶようになったのも、つい去年の話なのだから。


 唐揚げができた。皿の上にキッチンペーパーを敷き、入念に油を切って盛り付けていく。章信の希望どおり肉の山になった皿を、智大はリビングへと運んだ。

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