第11話 門(6)

縛が解けたサキュバスは、まっすぐバーンに飛びかかった。

両手を組んだままの体制で、床に押し倒されてしまった。

サキュバスがバーンの上に馬乗りになっている。

彼女はバーンの頭を押さえると、彼の唇を奪おうとしていた。

残る力を振り絞って、バーンは唇を奪われまいと抵抗した。

しかし、眼を閉じたまま、呪文の詠唱は止まらなかった。

「 Od Ma-Of-Fas Bolp Como Bliort Pambt Zacar …Od Zamran Odo Cicle Qaa Zorge Lap Zirdo Noco Mad Hoath Iaida.」

一方、バーンの詠唱を後押しするかのように、碓氷も最後の詠唱に入っていた。

「我また御座に座し給う者の右手に、巻物のあるのを見たり。その表裏に文字あり。7つの印をもて封ぜられる。」

左手で胸の前にある十字架を握り、右手は開いたままちょうど宣誓をするような形で、身体の横にあった。

「然るに天にも地にも、地の下にも、巻物を開きて之を見受ける者なかりき。」

どこかでピシッと何かがはじけるような音がした。

「我また天に、地に、地の下に、海にあるよろずの造られたる物、また凡てその中にある物の云へるを聞けり。」

今度は祭壇の上にあった聖水の瓶が、ひとりでにはじけた。

破片が彼のもとまで飛んでくるが、碓氷はそんなことにはお構いなしに、さらに続けた。

「曰く『願くは御座に座し給う者と子羊とに、讃美と尊崇と栄光と権力と世々限りなくあらんことを。』…アーメン。」

碓氷が空中で十字を切った。

パキーッという長く甲高い音があたりに鳴り響いた。

「よし!」

その声を待っていたかのバーンが両眼を、右眼を開けた。

金色の瞳を。

彼女の目はバーンの右眼に見据えられた。

そして同時にバーンの周りにある魔法陣と“守護者の門”とそれを囲むの魔法陣が、まばゆい金色に光り輝いた。

あたりは目を開けていられないほどの光に満ちた。

地下室から影という影が消える。

彼女はバーンの体の上から弾け飛び、“守護者の門”の方へと引き戻されていた。

サキュバスは、声にならないような悲鳴を上げた。

バーンは、一際大きな声で最後の呪文を詠唱した。

「Lap Zirdo Noco Mad Hoath Iaida!」

サキュバスは髪を振り乱しながら、両手で目を押さえて、苦しみもがいていた。

やがて、ほどなく彼女の体は出現したときと同じ、蒼い光の炎に包まれた。

その炎を碓氷はただ見つめていた。

その中で、サキュバスはその姿を次第に変えていった。

バーンは床に大の字になるように、力無く眼を閉じて横たわっていた。

全身の力が抜けていった。

背中にはじっとりと濡れた冷たい床の感触が、伝わっていた。

聞こえないくらい小さいため息をつく。

(終わった…か……)

そこへ、臣人が急いで駆け寄ってきた。

「こんアホぅが。」

臣人の声に、うっすらと目を開けた。彼の顔をのぞき込む、心配顔の臣人がいた。

起きあがらせるのに手を差し出した。臣人の手も腕も血だらけだった。

その手をバーンは握った。

「無茶しよる。立っているのでさえフラフラのヤツが、あまり無理するんやない。」

臣人に寄り掛かるようにして、バーンは立ち上がった。

「どっち…が」

『お前だってボロボロだろう』と言わんばかりに、ぽつりとつぶやき、少しため息をついた。

「で?」

“喚起”魔術が成功したかどうかをたずねたが、

「……」

バーンは何も言わずに、“守護者の門”の方を指さした。

炎がなくなるとそこには一匹の黒い子猫が横たわっていた。

「あれま、かわいくなって」

臣人はその子猫を見るなり、微笑んだ。

碓氷も彼らのもとへと静かに歩み寄ってきた。

その表情は驚きに満ちている。

碓氷は次々に疑問をぶつけてきた。

「なぜ、凶眼を持つ者が、サキュバスを封じることができるのかね?それになぜ、“守護者の門”が君の力に反応したんだ? サキュバスと同じ魔力をもっている君に?」

バーンは少し悲しそうな眼をした。

「いや、むしろ!」

「碓氷さん……」

静かに碓氷の言葉を途中で遮った。

バーンは、右眼を気にするようにそっと手で覆い隠した。

「運がよかった…それだけさ。」

無表情で、言葉を続けた。

それはまるで、自分の本心を悟られないように。

「碓氷さんには、隠してもわかるだろうし…。礼拝堂で感じたように…俺の中にあるのは“魔族”の力だ。だからといって俺は“魔族”には決してならない。奴らのいいようには絶対にならない。」

バーンは碓氷の顔を、目を真っ直ぐ見て、真剣な表情で言った。

「むしろ俺は“魔族”が憎い。」

(俺の大切な存在ものを奪ったやつらが・・・。)

そのバーンの言葉を臣人はつらそうな面持ちで聴いていた。

「だから、」

碓氷は言葉を見つけられなかった。

何と言ってよいのか、慰めたらよいのかわからなかった。

(碓氷さんが“神”を信じるようには、俺は“神”を信じない。

俺の中の“神”は死んでる。“神”は、あのとき俺を救ってはくれなかった。

俺は、“神”でも“魔族”でもない俺自身を信じる。俺自身の力を。)

碓氷は理事長の言葉を思い出していた。

『彼の持つ力を云々いうよりも、彼という人間を理解しようとする方が大切なのではないか、と私は思うのだがね。それに彼は私の親友からの大切な預かりものだ。彼にとって、この学院で関わる人、出来事がすべて彼にとっての『地の塩』となるはずだ。もちろん、碓氷神父、あなたもですよ。』

あの言葉の意味を、今、理解したのだ。

目の前にいる彼は、今まで碓氷が闘ってきた“神”に敵対するような存在ではない。

バーンは、何と闘っているのだろう。

何と闘ってきたのだろう。

その答えは…。

そんなことを碓氷は考えていた。

そこには、バーンに不信感を持っていた自分はいなかった。

彼の『本質』を垣間見た気がしていた。

碓氷は、ふっと表情をゆるませた。

「本当にすまなかった。私は神父として失格だよ。口では『神への信仰』を語りながら、『本質』を見抜く力がなかった。おごった心で見ていたらしい。」

碓氷は、すっとバーンに右手を差し出した。

「このまえはしてもらえなかったが、今度は私の方から頼むよ。」

バーンは碓氷の右手を力強くとった。

「助けてくれて、ありがとう。」

碓氷もぐっとバーンの手を握り返した。

バーンは碓氷の顔を見るのが恥ずかしくてちょっとうつむいた。

「おー。話もまとまったところで、コイツどないする?」

“守護者の門”の方から戻り、子猫の首を持ったまま臣人がニヤッと笑った。

みゃあみゃあと、か細い声で鳴いている。

「さて、どうしたものか」

「碓氷さん。喚起魔術で一応の契約は結んであるので、俺に預からせてもらうわけには、いきませんか?」

碓氷は笑うと、バーンの肩をぽんとたたいた。

「ああ、その方がいいだろう。」

子猫は臣人の手を振りきって床に落ちたかと思うと、パパッと、嬉しそうにバーンの肩に駆け上がっていった。

「猫に変化へんげしたとはいっても、やっぱサキュバスはサキュバスやな。」

みゃぁーと大きく鳴くと、その大きな深紅の目を見開いた。



3人は地下室をあとにした。

“守護者の門”が静かに暗闇の中に見えなくなった。

鉄製の扉を閉める。次の封印の儀式は5年後。

それまで、ここは静寂が闇を支配する空間となる。

外はもうすっかり雨も上がり、夜も明けていた。

朝日が礼拝堂を何事もなかったように包んでいた。

外へ出ると、今まで地下にいたためか陽の光がことのほか眩しく感じられた。

臣人は、思いっきり背伸びをした。

一息ついて、子猫とじゃれあうバーンに、こう切り出した。

「なあ、基本的な質問してええか?」

「……」

「“守護者の門”って結局なんや? アメリカにいた時、そんなもん見たことも聞いたこともなかったで。」

臣人は肩に手を置くと、首を左右に振っている。

「はっきりとしたことは俺もわからないけど…。古代から続く上位霊との交信や召喚の儀式をおこなうための場所ってとこ…かな。」

バーンは、子猫の喉を撫でながら答えた。

「何を呼ぶんやか」

「さあ?」

関心がないようにバーンは、機械的な説明をした。

「ただ“門”がある場所は霊的にも高まった場所であることが必要不可欠なんだ。“地”の力を借りて、それを使うものの力を増幅し、望むものを呼び出したり、封印したりできるのさ。天使の召喚も可能だが…」

服についた泥をはたきながらバーンが答えた。

「魔族の召喚もできる…か」

「ああ。」

「何から守護してるかが問題やな。」

臣人はちょっと探るような眼差しで碓氷の方を見た。

「イギリスによくあるサークルストーンや有名なストーンへンジ。あれも“守護者の門”のひとつっていわれている。もっとも実際に使われている“守護者の門”はヨーロッパで、2つ3つしか見たことがないがな。」

「それがここの学院の中にあるっちゅうことが不思議やな。しかもこの日本に。碓氷はんは知ってまんのか?」

急に話を振られて碓氷はどぎまぎした。

「知ってはいるが、私の口からは…。」

「まあ、今となってはどうでもいいことやけどな」

ちょっと肩をすくめながら、臣人は碓氷のほうから視線をはずした。

「さて、これからどないしよ?」

東の空が太陽の光を映して次第に白く輝き始めた。

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