第10話 門(5)

肌の白い均整のとれた肉体は筋肉質で、どこかギリシャの彫刻のようである。

しかし、その美しさに似つかわしくない能面のように動かない表情で。

そして、まばたきをしない深紅の眼で、こちらをじっと見ていた。

バーン、碓氷、臣人と3人の男を順々に、舐めるように視線を移動させていた。

「くっ…」

彼女と視線があった途端、バーンはまた右眼を押さえた。

(“魅了チャーム”を使ってやがる。)

首を振ると彼女の黒髪が振り上がった。

彼女は舌をぺろっと出すと、ひとりの男の方にゆっくりと一歩を踏み出した。

確かな足取りで、“守護者の門”の残骸を踏み越えていく。

同時に、その男も引き寄せられるかのように彼女へ向かって歩き始めた。

その男とは碓氷だった。

目をカッと見開いたままで、赤い法衣を脱ぎ捨て、黒い神父服になった。

雲の上でも歩いているかのように、ふらふらと彼女の前に立った。

碓氷は彼女の顔を見上げていた。

彼女は、碓氷の顔を見て何ともいえない微笑みを浮かべた。

そして、さも愛おしそうに、碓氷の頭から首筋にかけて手で撫で上げた。

真っ赤な口紅ルージュでも塗ったような彼女の唇が碓氷の唇に重なった。

「そうはさせへんで!!おらぁっ。」

臣人が横から勢いよく飛び出して、碓氷にタックルした。

「復活してすぐ食事っつうのは甘いんやないか。おまえに精気はやらんでぇ!」

臣人と碓氷は勢いよく床に倒れ込んだ。

「碓氷…さん。」

バーンは右眼を押さえて、小さくつぶやいた。

(なんとかしないと。このままでは、最悪…だ……。)

右眼の戒めをはずして、感覚チューニングを変える。

もう一度、“守護者の門”の周囲を丹念にチェックする。

片壁になっていても“守護者の門それ”はまだ生きていた。

不気味なほど蒼い光が放出されている破壊された壁の後ろの空間が歪んでいる。

その空間はどこか別の空間へとつながっていた。

禍々しい気を放つ、人間界ではない異空間に。

しかし、もう片方の壁の封印が残されていた。

“門”の周囲にある二重の魔法陣に眼をやる。

ヘブライ文字が確認できた。

バーンはそれを解読しはじめた。

(…この“門”は。そういうことか。そういうことなら…まだ、方法はある。

だが、問題は、今の俺に…それだけの余力があるかどうかだな。

ここまできたら…そんなことは、言っていられない…か。

やるしか…ない。)

そう思いながら、バーンは倒れている臣人の方を見た。

バーンから見て、右手奥の壁際に臣人と碓氷は倒れていた。

しばらく二人は動かなかった。

やがて、

「…!」

臣人のタックルの強烈なショックがきいたのか、碓氷は正気に返った。

彼の目に光が戻った。

「神父はん?」

「私は? やつの術中にいたのか?」

信じられないといった様子で顔を手で覆った。

臣人はかすかにうなずいて見せた。

その様子を見ながら、バーンは息を整えてつらそうに立ち上がった。

「臣人!」

不意に名前を呼ばれて、臣人は驚いたようにバーンの顔を見た。

「“喚起”魔術を…やる。」

「なっ!?」

その言葉を聞いて、耳を疑った。

バーンが、こんな状態では無理だと臣人は判断していた。

「おい、こら、バーン。ただの人が、そんな高等魔術できるんかいな?」

語気を荒げて、バーンに忠告した。

しかし、彼が言いだしたら聞かない頑固なところがは、臣人は十分承知していた。

止められないことはわかっていた。

「フォロー、頼む…。」

いつものフォローと勝手が違う。

霊が相手ならば、デフェンスに臣人、オフェンスにバーンときちんと役割分担がされているが、今回は

「どう、フォローせーちゅうんじゃ!?」

困ったように臣人は叫んだ。

ヤバイ状況であることはわかっていても、どう動いたらいいのかわからないようだった。

小さな声でバーンは臣人に、“守護者の門”を見る視線とともに告げた。

「書き換えられた魔法陣…を元に戻してくれ。」と。

(それで、また封印が復活する。)

バーンの語らない表情に表れる彼の言葉を、臣人は理解しようとした。

この状況を打開する方法を。

臣人も“守護者の門”の方を見つめた。

「書き換えられた魔法陣って。一体、どこが。」

視線が泳ぐように動くが、バーンの視線の先に自分の視線を合わせるように追っていく。

壁を取り囲む魔法陣をよく見る。

すると、“守護者の門”の奥、彼のいる位置から4mほど先にある場所で視線が止まった。

「!」

大きな水たまりができている。

水は天井から滴り落ちてきたものだった。

おそらく、サキュバス淫魔が意図的に一滴また一滴と気の遠くなるような時間をかけて、魔法陣の上に落とし、文字を書き換えていったのだ。

だとしたら納得がいく。

正当な手順をふんで、行われた封印の儀式。

にもかかわらず、碓氷の術が通じず“守護者の門”が崩壊した理由が。

プラス、マイナスで相殺するはずだったエネルギーが、魔法陣を書き換えることによって同質のエネルギーになり、倍になって“門”そのものを崩壊させるきっかけをつくってしまったのだ。

ようやく、そこまでの答えを臣人は導き出せた。

「な~る。」

ニヤッと笑った。

臣人は近くに転がっていた燭台を手に取り、立ち上がると走り出した。

「そーいうことかい。」

その様子をサキュバス淫魔は見落とさなかった。

彼女が振り返りざまに臣人の方に手をかざした。

突風が巻き起こり、臣人は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられてしまった。

鈍い音があたりに響く。

「ってぇ!」

背中をモロに壁にぶつけてしまった。

激しい痛みが彼を襲った。

頭にもその衝撃はダイレクトに伝わり、脳震盪でも起こしたようにグラグラした。

ここで動けなくなるわけにはいかない。

そんなことを思い、意識を繋ぎながら、ズルズルと臣人の身体は床に落ちていった。

それでも臣人は燭台を手放さなかった。

今度は向き直って、彼女は深紅の眼でバーンの方をギッと睨みつけた。

バーンはそれに対抗するかのように、同じように彼女を睨んだ。

「いくら 、睨んだって、俺に“魅了チャーム”は効かない・・・」

バーンとサキュバスの睨み合いが続いた。

それを横目に、臣人は何回か頭を振って立ち上がると、再度チャレンジした。

走るとさっき受けた衝撃で体中がぎしぎしきしんだ。

ほんの数歩で、問題の場所に辿り着くことができた。

臣人は、水たまりの中に燭台の根本の釘を刺し、本来あるべきヘブライ文字を石畳の床に力一杯刻んだ。

すると、今まで発せられていた蒼い光が、急にすうっと消えた。

臣人はそれを確認すると燭台を放り投げた。

ゆっくりと息を吸い、おおおぉぉと『息吹』をする。

手で印を結び、サキュバスに向けて術法を開始した。

(今度は、こっちからいくでぇ。)

「オン アリミヤ ナウソバ ウンハツタ…オン アリミヤ ナウソバ ウンハツタ…オン アリミヤ ナウソバ ウンハツタ…はっ、縛!」

サキュバスは、ビクッとして動きを止めてしまった。

(いつまでこの状態をキープできるか、わからんでぇ。バーン。)

臣人は、バーンの方へ目で合図を送った。

それを見てバーンは、うなずいた。

そして、惚けて座り込んでいる碓氷に声を掛けた。

「碓氷さん、手を…貸してくれ。」

「もう無理だ。」

碓氷は、あきらめ顔で独り言のように言った。

「“守護者の門”は、崩壊してしまった。あいつを封印することは…できない。」

碓氷は、両手のこぶしを握ったまま、下を向いた。

「あきらめるのか!?」

弱々しかったバーンの言葉が、急に強い口調になった。

「あんたの信じる“神”は、そんなに弱いのか!?」

バーンは“神”という言葉を、声が震えるほどの怒りをもって口にしていた。

“神”。

キリスト教における“神”。

唯一にして、絶対なる“全能神”。

かつて、自分も両親と同じように敬虔なクリスチャンであった。

だが7年前、“神”は自分を救ってはくれなかった。

自分?

いや、違う。

自分ではない。

もし、『神の愛』が信じるものにとって平等で、無限であるならばラシスを救って欲しかった。

心からそう願ってやまなかった。

生き返ることはなくとも、せめて安らかな死であれば、少しは救われただろう。

しかし、過去(現実)はそうではなかった。

試練というには、あまりにも残酷すぎた。

彼の人生で、ただひとり心をひらいた彼女を失ってしまった。

もう二度と戻れない、あの一瞬は。

「“神”…?」

碓氷はバーンの言葉をオウム返しに返した。

「“神”が弱い?」

彼は自分が神父だと言うことを忘れていた。

「“神”が」

バーンは、碓氷を説得し始めた。

この眼の前の状況を何とかしなくてはならない。

サキュバスが出現していることは事実である。

不確定な“神”の力など当てにできないと思いながら、バーンは話し始めた。

今、この場には術者が3人もいるのだ。

自分たちの力で、何とかできるはずだと信じていた。

「まだ、“門”は半分残っている。完全に開ききった訳じゃない。本来、天界と現世に接点を開く役目の“門”が魔界につながっているんだ。」

碓氷は黙り込んだ。

自分が今まで持っていた『信仰心』を顧みながら、自分は一体何を信じて生きてきたのか?・・・と。

「開ききらないうちに、再度封印の儀式を。」

「……」

「そうしないとあいつより上位の悪魔が“守護者の門”を通って姿を現してしまう。碓氷さん、」

バーンは、真っ直ぐ碓氷の顔を見つめていた。

うつむいていた碓氷が、何かを確信したように顔を上げた。

「弱いのは“神”ではない。」

そして、バーンの顔を見た。

碓氷の目に、バーンの金色の右眼が飛び込んできた。

理事長から彼の『魅了眼』のことは聞き及んでいたが、それを初めて見た。

礼拝堂で受けたそら寒い気は、もうバーンからは感じなかった。

碓氷が感じたあの第1印象と今の彼の印象は全く違っていた。

「弱いのは、私だ!」

そう言うと碓氷は力強く立ち上がった。

「『奇跡』は、『信仰』によってのみ起こる。そうだったな、バーン君。」

少し微笑みながら、碓氷はバーンに話しかけた。

「すまない。私は、いささか目に見えるものに惑われすぎたようだ。」

「碓氷さん……」

バーンの眼が少し穏やかになったように見えた。

「“守護者の門”の方は私に任せたまえ。全能なる“神”の力を信じて今一度やってみよう。」

碓氷は自信に満ちた目でバーンにうなずいてみせると、胸にあった大きな十字架を握りしめた。

「全能なる主よ。今一度我が声を聞きたまえ・・・」

バーンもそれを見て、自分のまわりに魔法陣を敷いた。

「Ol Sonuf Vaorsagi Goho Iada Balata. …Lexarph, …Comanan,.. Tabitom. Zodakara, eka; zodakare oz zodamram. Odo kikleqaa, piape piaomoel od vaoan….」

しかし、なかなか体の自由が利かない。

いつもなら何のことはない魔法陣をつくるだけでかなりの体力を消耗しているのがわかった。

(一気にやってしまわないとこっちが力負けしてしまう・・・。共鳴が災いしたな。)

地下室に低い三つの声が互いに絡み合った。

「大いなる北方の…四辺形の名と文字において、われ汝を召喚す、…北の物見の天使たちよ。神秘なる統一タブレットの名前と文字に於いて、われ汝を召喚す。」

バーンは胸の前で両手の親指と人差し指を合わせて三角形をつくり、召喚の呪文の詠唱を始めた。

「生命の霊の神聖なる諸力よ。不可視のうちに住まう天上の天球の天使たちよ。汝らは宇宙の門の守護者なり。またこの神秘なる天球の守護者なり。……邪悪なるものと不均衡なるもとを遠ざけよ。われを強め、啓発せよ。」

左手の人差し指で、二つの違った向きの五芒星を中空に描いた。

そしてその星の中央に、さらに何かの図形を描いた。

「されば、われ、永遠なる神々の密議の住居を、清いまま保たん。わが天球を純粋にして聖なるものとせん。わればわれなかに入りて、神聖なる光の秘密にあずかる者とならん。」

バーンの詠唱は、時折苦しそうに弱々しくなることがあった。

だが、途中でやめるわけにはいかなかった。

バーンは眼を閉じた。

「…Ils Micaolz Olprt Od Ialprt Bliors Ds Odo Busdir Oiad Ovoars Caosgo Casarmg ERAN Laiad Brints Cafafam Ds I Vmd Aqlo Moz…」

と、サキュバスは急に苦しみだした。

臣人に捕縛されていて大きな動きはできない。

が、両手をバタバタと開いたり閉じたりして抵抗している。

いるが、

「オン アリミヤ… ナウソバ… ぐっ。」

臣人の真言が止まった。

サキュバスの手にいつの間にか握られていた“守護者の門”の破片が臣人の印を結んでいた手を直撃した。

「しもうたっ。バーン!」

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