第5話 偶像

しばらくして。

バーンはひとり礼拝堂の中にいた。

誰もいない礼拝堂に。

礼拝堂の両側の壁には聖人の像が何体も飾られている。

聖パウロ、聖ヨハネ、聖フランシス、そして正面のステンドグラスを背に聖母マリア。

バーンは正面中央のマリア像を見上げていた。

その慈愛に満ちた表情が、背後から午後のまばゆい光を受け、さらに優しい表情に見えた。

まるで、自分にだけ微笑みかけているような錯覚にすら陥る。

自分が、遠い昔に忘れてきてしまった何かを思い出させるように。

ずっと聖母マリアは微笑んでいた。

両手を広げて、まるで何かを包み込むように、そして愛おしむように。

バーンは遠い眼をして、それを見上げていた。



『ねえ、バーン。』

前を歩いていたラティが急に振り返った。

高校からの帰り道。彼女を送りながらの帰り道。

あれは、秋の初め。あの時も、眩しい光の中だった。

『……』

バーンはラシスを黙って見ていた。

『笑ってみて?』

『急に何を言い出すのか』、というちょっと驚いた顔で彼女を見た。

『……』

そんなことは気にしないかのように、彼女は続けた。

肩に掛かった長い金髪が風に揺れる。

手でかき上げた彼女の髪からは、ほのかにオレンジの香りがした。

その目は、真っ直ぐにバーンにそそがれている。

『バーンが笑ったら、きっとそれを見た女の子はみんな振り返ると思うわよ。』

ラティは、本を持つ手を胸に当てて、にっこりと笑った。

『もちろん、私も含めてね。』

その笑顔が眩しすぎて、バーンは彼女の顔が見ていられなくなった。

『……』

『ちょっとぉ、何で、そこで私から視線、はずすのよ。』

何を言ってもバーンから、言葉は返ってこなかった。

しかし、ラシスは彼から言葉が返ってこないことに対して、怒っているふうではなかった。

むしろ楽しそうに、彼のかすかに動く表情から、彼の言葉を読み取っている。そんな感じだ。

『少しは、自覚持ちなさいよ。』

ちょっとふくれた顔をしながら、彼女がバーンの腕を引っ張った。

『…ラティ。』

腕を組むように、身体をピッタリと寄せてきた。バーンは、ちょっとはにかんだ。

『バーンはね、もてる要素なら他の人よりもたくさんあるわよ。それに、気づいてないだけ。』

ラシスは自分の頭をバーンの腕にコツンとぶつけた。

彼女の胸には、銀の小さな十字架のネックレスが光っていた。

『……』

『気がついて。自分の持っている魅力に。素敵な人なんだから』

(魅力的なのは……君の方だよ。)

『本当よ。』

『……』

(ラティは、俺の右眼のことなんて気にも止めなかった。

他の人と、俺以外の人と同じように…『普通』に当たり前に接してくれた。)

『感情を押し殺す必要なんて無いのよ。』

(感情を。素直に、自分の気持ちをぶつけてくる君がうらやましかった。俺には縁のないものだと…そう思っていたから。

この気持ちにもっと早く気がついていれば、君を…

いや、気づいていたんだ。気づいている自分を…認めるのが、怖かった。)

君を護りたかったのに…護られたのは、俺の方。君は……)

『ね、だから、笑って?』

(俺は? 感情を表に出さないようになって、どのくらいになるのだろう。

最後に笑ったのは…いつだった? もう、覚えていないほど、遠い昔。)

最後に泣いたのは? ラティが、逝った7年前の冬……)

『……』

『まさか、笑い方を忘れたなんて言わないわよね!?』

本気で心配しているように、彼女がバーンの顔をのぞき込んだ。

とりとめもない冗談を言ったり、くすぐってでも笑わせようとしていた。

彼女はなんだかとても楽しそうに見えた。

何かをふっきったように、彼女の目には強い決意のようなものがあった。

『ラティ』

(『特別』、『普通』、そんな垣根も君といると…感じなかった。

そんなことを言ってくれる君が、君の存在が俺にとっては『特別』だったんだ。

君の笑顔を消してしまった。俺を…きっと、恨んでいるんだろうな。)

バーンは眼を閉じた。

(ラティ…)



「マリア様が、あなたに微笑まれましたか?」

「!!」

急に背後から声をかけられて、バーンは現実に引き戻された。

「それとも、どなたかお知り合いの方にでも見えましたか?」

「……」

振り返ると彼の背後には、一人の神父が両手を前に組んで立っていた。

ドアを開け閉めする音は聞こえなかった。

まるで気配を消すかのようにして、そこに立っていた。

神父は、バーンのそばへ微笑んで近づいてきた。

バーンは、ただならぬ雰囲気をこの神父から感じていた。

表面的には愛想を振りまいているが、その言葉の奥には何か別のものが隠されている気がした。

「失礼。お気を悪くなされませんよう。あなたを見ていたら、そんな気がしたものですから、つい言葉にしてしまいました。」

「……」

バーンは何も言わず、少しうつむいた。

「神父の碓氷と申します。」

碓氷は右手を差し出した。

肉厚のある、大きな手だった。

バーンはポケットに両手を入れたまま、その手を取ろうとはしなかった。

両眼を前髪で隠したまま、黙って碓氷の声を聞いていた。

「オッド先生でいらっしゃいますね。」

碓氷はバーンにその気がないのを悟ると右手を引っ込めた。

「……」

その引かれた手を見ながら、彼はようやく碓氷の顔に厳しい視線を向けた。

透き通るように青い瞳で碓氷を見ていた。

「あなたのことは、こちらの学校にいらっしゃってからずっと気になっておりました。」

碓氷も同じように、バーンの瞳を見ていた。

「……」

(こいつはただの神父じゃない。)

そう、バーンは確信した。

碓氷の持つオーラが普通人でないことを物語っている。

自分と同じ種類の力を備えた人間。

ただ、決定的に違うのはそのオーラの本質だ。

「あなたの方からここへ出向いていただけて、嬉しく思っておりました。少しお話をしませんか?」  

「……」

バーンは何も答えなかった。

答えるつもりもなかった。

碓氷は、その表情とは裏腹に自分に対してあまりいい感情を持っていないように思えたからだ。

ソフトな語り口でも、碓氷はバーンの表情ひとつ、言葉ひとつに対しても見落とすまいと全神経を向けていた。

バーンはいつもどおりの無表情で碓氷を見ていた。

しばしの静寂。

だが、その場の雰囲気はどんどん重くなっていった。

空気が動けないような重圧で満たされていっている。

目に見えないない何かを探り合っているように。

やがて、

「この…」

バーンが初めて口を開いた。

「礼拝堂に地下室はあるか?」

碓氷は一瞬、何を言われているのかわからなかったが、すぐに答えた。

「地下室ですか?ありますよ。それが?」

(まさか!?気づいているのか。)

碓氷はバーンの眼を見た。

バーンの右眼はまた前髪に隠された。

が、碓氷は何かを感じとった。

「あるのなら、気をつけな。俺にかまうのがあんた本来の仕事じゃないはずだ…。」

そういい残すとバーンは碓氷の横をすり抜け、礼拝堂をあとにした。

その後ろ姿を碓氷は何も言わずに、ただ見送った。

バーンはゆっくりドアを開けて出ていった。

バタン・・・・。

ドアがかなりの間をおいてゆっくりと内部と外部を隔てた音がした。

碓氷は身震いした。ぞくっとした身体を手で押さえる。

陽射しが十分入ってきているはずの礼拝堂には、そら寒い気だけが残されていた。

その“気”を放っていたのは他でもないバーン自身だった。

(何という“気”を持っているんだ。彼は。

こんな“気”を放つ人間がいるとは、信じられないが。

やはり『普通』の人間ではなさそうですね。

いや、本当に『人間』…なんだろうか?この感じは、むしろ……)

碓氷は青い顔でそんなことを考えていた。



その後。

碓氷は別館3階の理事長室にいた。

広い部屋は、よく使い込まれた調度品に囲まれ、落ち着いた風合いだ。

心配になった碓氷は、理事長に直談判に来ていた。

部屋にいくつもある格子窓には、ブラインドが下ろされ、光が筋になって部屋の中に入ってきていた。

「なぜあのような者をこの学院にお入れになったのですか。彼は我々の側(神の側)の人間ではありません。」

理事長とおぼしき人物は、大きな革張りのアームチェアーに深く腰掛け、碓氷の話を聞いていた。

理事長は、日本人の風貌ではなかった。

さっぱりとしたダークブロンドの髪、白い肌にはしわが深く刻まれていた。

「私は、長い間『神』に仕え、『神』に敵対する者とも対峙してきました。あの者の持つ“気”を今日感じとって、確信いたしました。」

「……」

「彼は非常に危険です。いくら強大な『力』が使えようと、あのそら寒い気を持っている彼は『悪魔』以外の何者でもありません。理事長!!」

普段、物静かな碓氷が声を荒げていった。

今日、礼拝堂で彼が感じたバーンの様子を細かに理事長に語った。

その話を聞いても、理事長は別段驚いたふうでもなかった。

ただ、碓氷の話に耳を傾けていた。

碓氷は、ともかく自分の危惧している最悪の事態を切々と訴え続けた。

「あの『力』に吸い寄せられるように、これからもこの学院には不可思議な現象が後を絶たなくなります。それでなくともここは、日本で重要な拠点なのです。彼の件で、バランスを崩すようなことがあっては、私は教皇猊下にどのようにお詫び申し上げたらよいか。」

脅しにも似た言葉に、ようやく理事長が口を開いた。

「それもまた、予測の範疇だ」

理事長は厳しい顔で、両手を机の上に置き組むと碓氷を見据えていった。

「碓氷神父。それでは尋ねるが、君は何を根拠に自分を我々の側(神の側)の人間と定義し、彼をそうではないと言うのかね。」

「先ほども申し上げました通り、」

理事長は、碓氷の言葉を遮った。

「私の質問に答えたまえ」

碓氷自身の見解ではなく、キリスト教徒として、神父として、ひとりの人間として根幹をたずねたのだ。

「『神』への信仰です。」

きっぱり言い切った。

それを聞いて少し安心したように理事長は言った。

「『神』への信仰だけが我々をこちら側の人間にしているのではないのだよ。」

碓氷は、理事長が何を意図してそう言っているのかが、わからなかった。

そんな彼を一瞥して話を続けた。

「彼の右眼は確かに『魅了眼』。凶眼だ。その『力』に誘われて、多くの望まざる者がこれからも彼にまとわりついていくだろう。」

「でしたら」

理事長は、碓氷の言葉など聞かずに話し続けた。

「だが、それは逆にみると彼に救いを求めている者が後を絶たないということでもある。救いを求める者の手を振り払えるほど君のいう『神の愛』は狭いものなのかね?」

碓氷は言葉を失って、下を向いた。

たしかに全てのものに対して『神の愛』は平等であるが、それは…。

「彼の持つ『力』を云々いうよりも、彼という『人間』を理解しようとする方が大切なのではないかと、私は思うのだがね。」

嫌味ではなく、ただ真実を淡々と述べるように理事長は碓氷に言った。

「それに、彼は私の親友からの大切な預かりものだ。」

「しかし」

「彼にとって、この学院で関わる人、出来事がすべて彼にとっての『地の塩』となるはずだ。もちろん、碓氷神父、あなたもですよ。」

下を向いていた碓氷は驚きの表情を隠せなかった。

「私も!?」

「彼に対してどんな考えを持っていようと、私はそれを否定はしない。しかし、彼をこの学院から去らせることだけはしない。絶対に。」

理事長は、アームチェアーからゆっくり立ち上がった。

そして格子窓の側まで行き、ブラインドの隙間から外を眺めた。

「しかし、このあいだの事件のように、生徒がこれからどのような危険にさらされるか。」

「それは承知の上です。葛巻君もいるからそのあたりのフォローは大丈夫ですよ。何と言っても葛巻君の祖父でもあり、私の親友でもある國充住職に厳しく仕込まれているだろうからね。」

納得がいかない碓氷は、また下を向いた。

「このあいだの事件も結局は、調理室の扉と窓だけで済んだので、女子生徒ひとりの命を救ったのですからよしとしましょう。」

理事長はどうも物事を楽観的に考える帰来があるようで、にっこりと微笑んだ。

(碓氷神父。バーン君も、また、『救い』が必要な我々と同じ『人間』なのです。

その『救い』をもたらすためには。そう、彼の魂を救ってやるためには、彼自身がその答えを見つける以外に方法がない。

まだ気づいていない彼の『本質』を目覚めさせるためにも、彼はここにいなければならない。

それは教皇猊下が一番ご存じのはず。だからこそ、彼をここに置くことを許されたのですから。

そして、それは学院の存続などという小さな話ではなくなるのですよ。

この世界そのものを巻き込む可能性のある『闘い』に…)

そう思いながら、心の中でこの言葉を飲み込んだ。

理事長の言葉を聞いても碓氷は納得がいかなかった。

それをみてとったか理事長は話題を変えた。

「それはそうと、碓氷神父。例の儀式はどれほど進んでいますか?」

気を取り直すように、碓氷は頭を数度横に振り、答えた。

「はい。3分の2の儀礼は完了しております。月齢もここ1週間で十分な強さになりますので。」

「そうですか。5年に1度とはいえ、面倒をかけますね。」

「いえ。これも大切な私の役目だと思っておりますので。」

「では、頼みましたよ“守護者の門ガーディアンズ・ゲート”を。」

「はい。」

碓氷は深々と頭を下げた。

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