第4話 

午前3時を回り、私は捜索するのをやめた。

5時間分の徒労が私の体をいつもより重くしていた。無闇にスコッチを飲みたかったが懐には余分な金はなく、そもそも酒を受け付けない体だった。依頼主の家前に置いた自転車をそっと動かし、暗くなった家を眺めてから私は帰路についた。

真夜中でも蝉は鳴く。

蝉の声は私の脳裏にもう手の届かない幼い頃のことを否応なしに思い出させた。

私は小学生で夏休み、祖父の田舎に家族で帰省していた。祖父の家の後ろには鬱蒼した森林が広がり、虫取り網をもった私は何度も山の奥深くへカブトムシを探しに行ったものだった。あの頃は祖父も元気で、両親も若く何もかもが光輝いていたようだった。そしてあの時もこんな風に蝉が鳴いていたように思う。

私は街路樹の脇を通るたびに、そんな蝉の声を体に受けながらペダルを漕ぎ続けた。

「はい、止まってー」

私は突然、何者かに呼び止められた。

「はい、無点灯。ね」

若い警官だった。ニキビ面のまだ少年のような顔をしていた。

「夜はつけないと。ね。ちょっと質問いい?」

私は黙って自転車から降りた。

「ええと、この自転車はあなたのですか」

「はい」

「ちょっと登録票調べますね。ちょっとお待ちください」

私は緊張を悟られないように、わざと首を鳴らしたり、特に意味もないのに振り返ったりしてみた。

「年齢は?」

「35です」

私は自然と敬語が出てきて情けないような気がしてきた。

「今は飲んできた帰り?」

「いや、仕事かえ―」

「大変だね。こんな遅くまで。すぐ終わるからね。ね」

若い警官は無線で私の自転車の登録番号と色などをどこかに伝え、相手からの返答を待っていた。私はたばこを取り出して、火をつけようとした。

「ああ、こらこら」

「え」

「路上だよ」

「あ、そうか。はい」

たばこをしまいながら、背中にじっとりと汗をかいてきた。なぜ、こんな若いやつに「こらこら」などど言われなければならないんだ。私は納税している。と考えて毎年税務署に卑屈な顔をして領収書を出す自分を思いだして、私はうなだれた。

「はい、わかりました。えーと、すみません確認とれたんでね。でも無点灯とたばこね、これはダメだから気を付けてね」

「ええ、はい」私は自転車にまたがった。夜の風を受けて冷えたサドルが私を憂鬱にさせた。

「もういいですかね」と私は声をかけたが、若い警官は何か別の事柄を考えているのか何も返事はなかった。私は自転車を漕ぎだした。とたん「無点灯!」と怒鳴られ、口でもごもごいいながらライトをつけた。私は振り返らなかったし、もう警官は何も言わなかった。

私は角を曲がると、全速力で漕ぎだした。やがて上り坂になったが構わず立ち漕ぎをした。歯を食いしばって漕いでいると、目じりにうっすら涙が浮かんできて、それはいつしか嗚咽となって溢れた。

こんなはずではなかった。

俺は映画業界の暗部にかかわる仕事をし、人気女優の秘密を守り、人知れず、誰もに求められない正義を貫くはずだった。トレンチコートを着て、ブルーバードに乗り、ヤクザに目を付けられ、警察には疎んじられる、そんな探偵になるはずだった。それがどうだ、日夜、飯の為にいなくなった犬猫を探し、泥だらけになり、誰からも相手にされない。

涙はやがて濁流になり、視界がぼやけるほどだった。坂の上にたどり着いても涙は止まらなかった。泣きながら、坂道を下った。色々な明かりが尾を引いて踊った。

瞬間。

猫が。

「あ」

猫が自転車の前に飛び出て、私は急ブレーキをかけた。前輪が止まり、私の体は宙に舞った。

「びゅぎゃー!!」

と猫が叫んだ。

しかし、叫んでいたのは私だったのかもしれない。







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