Ep.19 決別
「やめて……やめてったら……やだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
引き裂かれたTシャツの下から現れた白い身体のあちこちに、鞭で打たれた赤い線が走っている。
冷えた外気に触れ、傷がひりひりと痛む。
「許さないからな! 覚えてろよ、ちくしょう! あんたら全員、殺してやるんだから!」
暴虐の限りを尽くす集団の餌食となりながら、燈瑚は無い牙をがちがちと鳴らした。今すぐにでも、そこにいる野郎の腕に食らいつきたい衝動に全身を焼き尽くされ、頭上の鎖をがちゃがちゃと鳴らすが、男たちの手は我先にとばかりにデニムパンツへと伸び、あれよあれよという間にベルトが外された――その時だ。
「ウオオアッ!」
重なる二つの雄叫びと共に、廃墟の扉がものすごい音を立てて外側から開いた。
この場にあった全ての視線が、騒音の元を振り返る。
外から吹き込んできた初夏の風が薄汚れた床を滑って、辺りに真っ白い埃を舞い上げた。
「ああ、お前たち」
逆光の中にいた二つの人影を見据えて、北山はフフフ、と含み笑いをもらした。
外から乗り込んできたのは、大きく息を乱した青木と菅谷だった。
「青木さん……菅谷さん……!」
地獄に現れた救世主の姿に、燈瑚は安堵の涙を流した。
遅れて登場した二人のヒーローは、敵の舎弟に囲まれてボロボロになっている燈瑚の姿を――服を破られたあられもない状態を目の当たりにして、まさしく怒髪天を衝くという言葉にふさわしいほど、怒りに髪をざわめかせた。
「サトル、てめぇ、やってくれたなァ!」
菅谷が、怒りのあまり目の縁を真っ赤にしながら叫んだ。興奮のせいか、目的の《サトル》とは昨日のうちに対面を果たしていることに気が付いていないらしい。
その血走った双眸から血涙でも流しそうな勢いに、北山は首筋の産毛がゾワリと逆立つのを感じた。恐怖によってではない。まもなく、己に深い怒りの念を抱いた不良少年界のトップたちを自分の下に就かせることができるのだという根拠のない未来に、武者震いが止まらなかったのだ。
「待ってたよ、お二方。僕の部下は無事に手紙を届けてくれたようだね。君たちを呼び出した理由は他でもない。大事な話があるからなんだ」
北山は仰々しく両手を広げながら、舞台上の悪役のような口調で言った。
「聞こうじゃないか。卑怯にも人質を取ってまで、俺たちをこんなところに招待した理由を」
青木が冷静な声とは裏腹に、今にも爆発しそうな怒りを腹の底へと沈めながら促す。
それをわかっていながらも、北山はなお、ニヤニヤ笑いをやめない。
「なに、難しいことなど一つも要求しないよ。ただ僕は、君ら両チームに僕の舎弟になってほしい、ただそれだけなのさ」
「ふざけんじゃないぜ。誰がそんな戯言に頷いてやるもんかよ」
中指を立てて反発する菅谷の隣で、口を噤んだままの青木は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
「僕は喧嘩がしたいわけじゃないんだ。というのもね、このチームはまだ誕生して日が浅い。これだけの人数が揃っていても、この町で幅を利かせる最強集団のツートップたる君たちが相手となっては些か不利だからね。穏便に話し合いで決着をつけたいと思ってるんだ」
「話し合い? 話すことなんて何もない。お前がしたくないといっても、俺たちはお前に鉄拳で制裁を加える。燈瑚を人質にし、散々痛めつけてくれた礼をさせてくれよ」
「フフフフフフフフ、そうだよ。彼女は人質。君たちが僕の舎弟になるというのなら、彼女はこのまま返してあげる。けれど、もし嫌だと言ったら――」
北山は、仲間から鞭を受け取り、持ち手の先で燈瑚の胸をそっと突いた。
「わかるでしょう? 彼女は怪我をするよりももっと怖い思いをすることになる」
「この下衆野郎……!」
今にも飛び掛からん勢いの菅谷を押さえて、青木が一歩前に出る。
「大事な人質にずいぶんひどいことをしてくれたみたいだね。人質を取ることだっていくらか卑怯だけど、その人質をここまで傷つけ、あまつさえ俺の言うことを聞け、と強要するのは、卑怯を通り越してただの屑じゃないか。そう思わないか? 北山サトル。そんな君がこの町のトップになったって、俺たちの下についている奴らは絶対に納得しないよ」
「わかっているさ。だから君たちを呼んだんだ。この町の不良たちを束ねる君たちが、舎弟たちに《
「残念だけど、君の思い通りにはいかないよ。君はもう、僕たちの手綱を持ったつもりでいるらしいけど、たかだか少し卑怯なだけの君に、僕たちのような猛獣を扱いきれるわけないんだから」
「ほう。それでは、君たちのお姫様はどうなっても構わないと言うのかな、青木瞳」
北山は、ぐい、と燈瑚の髪を掴んで、露わになった白く滑らかな首筋に指先を這わせた。
擽ったい、という感覚を押しのけて、吐き気を催すような不快感が細い悲鳴となって喉をつく。その瞬間、ヒーローたちの頭にかっと血が上った。
「その子に触れるな、外道!」
二つの声が重なるや否や、憤怒の化身となった固い拳が戦いのゴングを鳴らした。
「やっぱり、こうなっちゃうか」
その時である。
廃墟のドアをくぐって、また新たな一団が登場した。北山の舎弟たちだ。中には、二人に手紙を届けた青い髪の少年と緑髪の少年もいる。
全部で何人いる……? ざっと見て二十人は下らない。元々いた人数を合わせれば、北山一派の戦力は三十人以上にのぼるだろう。
「嘘でしょう……北山君、まだ仲間を隠していたのね……」
燈瑚が絶望の景色を目にしながら、つぶやくように言った。
「うん、そう。きっと、彼らが頷いてくれることはないだろうと思っていたから、外で待機させてたんだ。彼らは強いよ。僕が中学生だったころの……隣の市で悪名を轟かせた不良少年たちだからね」
北山は、可笑しくてたまらないといったように、にやにやと気味の悪い笑みを深める。
青木と菅谷も、予想だにしていなかった伏兵に度肝を抜かれた。
「まじかよ。こんなにいたのかよ」
菅谷がげんなりしたように呟く。
「やはりあいつは卑怯なんて言葉じゃ足りないね」
「お前の方こそ、話し合いで決着つける気なかったんじゃねえか! たった二人相手にこれだけの人数かき集めて、ご苦労なこったよ!」
菅谷は吐き捨てるように言った。
「先に交渉決裂を宣言してきたのは君たちじゃないか。さあ、もう後戻りできないぜ。残念ながら、君たちに勝てる見込みはなくなったな!」
「オオオオッ!」と雄叫びを上げ、少年たちは小波、大波となってぶつかり合った。
二対三十の圧倒的不利な状況にもかかわらず、二人の瞳には燃えさかる闘志が強い光を放ってゆらめいている。
青木の、固く握りしめた拳が少年たちの顔面に炸裂した。彼のしなやかな肉体は防御の形をとりながらも、確実に相手の弱点を突き、猪突猛進を身にまとったような菅谷は、力強い一撃で相手に圧倒的な恐怖を与えるかのような戦いぶりを見せた。
三十人の舎弟どもから繰り出される拳の嵐をかいくぐり、しなやかでありながら滅法界なパワーで敵をのしてゆく。
さながら鬼のような戦いぶりに、燈瑚は唖然としないではいられなかった。
暗闇で光る獣の目のように、金色の残像を弾きながら、二人は次々と向かってくる男共を蹴散らしてゆく。
「お前ら、たかが二人相手に何をやっている!」
北山は、喧嘩から一歩離れたところで苛立たしげに爪を噛んでいる。
その時、燈瑚の背後に誰かが近付いてきた。伏兵か、と身構えたが、それは香の舎弟の一人、アマネであった。どこから入ってきたのだろうと思ったが、ちょうどすぐ後ろにあった窓が開いている。きっとそこから入ってきたのだ。
彼は、薄い唇に人差し指を立てて「静かに」とジェスチャーすると、彼女の手首を縛る鎖を解きながら、「大丈夫ですか」と声を潜めて言った。
「ええ、ありがとうございます。けど、どうしてここに?」
「さっき、おれの携帯に青木さんから連絡が入ったんです。急いでここに向かえって。たったそれだけの短いメッセージでしたが、なにか大変なことが起こっているのは簡単に想像ができました。おれはたまたまこの近くにいたんで、すぐに駆け付けられましたけど、他の奴らはもう少ししたらつくんじゃないですかね」
渡された手紙には《一人で来い》と記されていたが、どうやら青木も、相手の言うことを大人しく聞くつもりはなかったらしい。
アマネは解いた鎖を投げ捨て、グレーの学ランを脱いで、燈瑚に着せた。
その時、北山が彼女らを振り返り、
「あ、お前! 何をしている!」
「ああ、どうも。あんたがサトルさんですか。人質から目を離しちゃ、世話ないですよ。燈瑚さんは返してもらいます」
アマネは燈瑚をつれて喧嘩から離れた位置へ避難する。
北山はギリ、と奥歯を噛み締め、二人を追いかけた。
「ふざけるなよ、餓鬼!」
こめかみに血管を浮かび上がらせながら、北山は拳を振りかぶった。
アマネは軽く燈瑚の肩を押して自分から遠ざけると、突進してくる北山に向かって前蹴りを放つ。まともに腹に食らった北山は、ぐう、と呻いて体をくの字に折り曲げる。
「ほら、来いよ」
アマネは挑発するように指先をちらつかせながら、今度は彼の踝辺りを足払いの要領で蹴った。
滑稽な姿で横転した北山は、急いで立ち上がるなり拳を固めて態勢を整えるが、アマネは一切の隙も与えず、右、左、と拳を突き出し、軽やかな身のこなしで後ろ回し蹴りを放つ。
無駄のないスマートな動きでありながら、その威力は相手の防御をいとも簡単に破り、次に繰り出されたアマネの横蹴りは見事にがら空きとなった北山の腹に炸裂した。
「ううっ……!」
「ほらほら、あんたの番だぜ。早くおれに拳の一つでも叩き込んでみなよ」
「てめえ、ちょっとは黙ってろよ……!」
北山は腹を押さえながら、掠れる声で言った。
「もう向かってこないんですか? あっけないな。あんた、そんなんでよくチームのリーダーが務まりましたね。舎弟たちもよっぼどひよっこの集いだと思われる。見てみなよ、目も当てられない惨状を」
「なに……!」
北山は周囲を見渡して唖然とした。
アマネの言葉通り、三十人の舎弟は折り重なるようにして地に伏し、立っているのは青木、菅谷、アマネ、燈瑚、北山、彼ら五人だけになっていた。
その北山も、アマネの蹴りの餌食となり、今にも腰を落としそうになっている。
「……あの人数をたった二人で……?」
首を上げた北山が顔面蒼白で呟いた。
青木と菅谷は、大きく息を乱しながらも、しっかりとそこに立っていた。唇の端から血を流し、頬骨に痣を作り、整髪料で整えた髪を無残にも乱し、服のボタンをいくつか落とした痛々しい姿で。
「ハハハハハハハハッ、甘く見てもらっちゃ困るよ。俺たちは君みたいに一朝一夕で作り上げられたチームじゃない。場数はこちらが上に決まっているだろ?」
「くそ……!」
煽るような青木の言葉に、味方を失った北山は隠しおおせようのない焦りを見せ始めた。
三十人もの数を相手にして顔のいたるところに傷を負いながらも、真っ直ぐ立ってぴんぴんしている二人に追い詰められては、じりじりと後退るほかない。
「こいつ、オンコーそうな顔してンだろ? だがな、それは偽りの仮面なのよ。青木瞳の本性は、このおれでさえ恐れるぜ」
「偽ってなんかないよ」
菅谷の言葉を否定しつつ、冷静な青木はこう続ける。
「でも、俺は存外に執念深い。大事な彼女に酷いことをされちゃ、大人しく笑っているわけにはいかないよ」
今や穏やかな仮面を剥ぎ取った青木の表情には、今までの彼からは想像もできいない、さながら修羅を思わせる人格が宿っていた。
まるで別人なのである。憎しみに心を支配された鬼のようにとでも言おうか、彼の相好にあるのは、まさしくそれなのである。
するとその時、外から大勢の足音がこちらに向かって掛けてくる気配がした。青木の連絡を受けた仲間たちが駆けつけてきたのだ。
「お、来た。……いよいよ終わりだな、北山。お前の仲間はもういないのか? こちらも戦力を揃えて来たというのに、無駄足になってしまったかな?」
青木は嬲るような視線で北山を見据える。
金の力に頼って不良集団のボスになりあがった北山には、ここにいる真の不良少年たちに、天地がひっくり返ったとしても勝てる見込みはない。待ち受けているのは哀れなほどに滑稽な敗北の未来――それだけである。
「青木さん! 全員揃ってます!」
大勢の到着と同時にそう叫んだのは、先頭に立ったコージだ。隣にはキイチもいる。
「ああ、助かった。ありがとう。――さあ、どうするよ、北山サトル。果敢に向かってくるかい?」
「ち、ちくしょう……! なんなんだよ、お前ら……!」
北山は癇癪を起した子どものように髪をかきむしりながら言った。
「それは俺たちのセリフだぜ。散々大口叩いたわりには、情けないありさまだな、サトルくん。……ん? なんだお前、昨日の……燈瑚の友達じゃんかよ。今気が付いたぜ。ハハハハハ、俺も馬鹿だな。いない、いないと探し回った《サトル》の正体が、昨日書店で出会った北山君……お前だったとはな。うまく化けて生活していたようだな。欺かれたぜ。昨日の優等生ぶりを見ちゃ、お前を疑おうなんざ思わない」
菅谷はその瞳に例の残忍な闇を漂わせながら、北山を見下ろした。威圧感を放つにはおあつらえ向きな高身長は、北山の精神にこの上ないダメージを与える。
じりじりと距離を詰めてくる二人の鬼に、北山は素早く地に膝を着くと、
「ご、ごめんなさい、許してください……!」
額を床にめり込ませる勢いで土下座した。まるで手のひらを返したような情けない姿に、一同は拍子抜けしないではいられなかった。
その姿を冷たく
「どうする」と、菅谷。
「さて、どうしようか」青木は腕を組む。
「一番の被害者は燈瑚だ。あいつに一任しよう」
「ああ、それがいいな」
青木は納得して頷き、血が滴る唇を手の甲で拭った。
二人は同時に燈瑚を振り返る。
「燈瑚、どうしたい? 決めていいぜ。お前を酷い目に合わせた男を、どのように処分してやろうか」
「……」
燈瑚はアマネに手を借りて彼らの前に歩み出ると、哀れな北山を見下して、慈悲深い声音で言った。
「北山君はいつも優しくて、学校で仲良くしてくれるし、親切で社交的で、私が勉強でわからないことがあった時も丁寧に教えてくれました。大学でできた数少ない友人なんです。私を利用するために近付いてくる子達とは違う。いつも自然体で仲良くできる北山君は、大事な友達」
彼女の情の深い言葉に、その場にいた誰もが、じーんと胸に温かさが込み上げてくる想いだった。それは北山も例外ではなく、己に差し込んだ希望の光に、感動の涙を浮かべつつ彼女を見上げた――。
「……千束さ――」
「けど」
だがその瞬間、燈瑚の顔から慈悲深い微笑みが消えた。そして無慈悲にも、こう続けた。
「それとこれとは別よ。あなたは私を裏切った。私の兄貴を卑怯な手で騙した。金で人の心を支配した。それだけのことをしておいて許してもらえると思っているなら、あなた相当頭悪いわ」
冷たい硝子のような声でそう言い、燈瑚はそっと持ち上げた右足で、北山の後頭部をぐっと踏みつけた。
「よくも、私にこんなことをしてくれたわね……絶対に許さない……!」
湧き上がる怒りが全身を焼く。こめかみの辺りが集中的に熱くなって、体内で血液が沸騰しているかのように全身が怒気に震える。
まるで本来の人格が別の者に塗り替えられてゆくように感情が昂ぶり、燈瑚は容赦することを忘却の彼方へ吹き飛ばした。
怒りに見開かれた目、屈辱を噛みしめた歯、まるで人相の違う燈瑚の姿に、その場にいた全員が緊張しないではいられなかった。
「痛い、痛いよ、千束さん! やめてくれ……!」
「鞭で何十回と
燈瑚は力を緩めるどころか、さらに強く足元の球体に体重を乗せた。
北山はミシミシ、と頭蓋骨が軋むような音を耳にした。
「ごめん、ごめんなさい! 許してくれ、何でもする! ちゃんと慰謝料も払うよ! だからもうやめて……」
「またあなたは! 金で解決しようとしたわね。まったく反省の色が見えない。あなたの罪は金で償えるようなものじゃないのよ」
北山の頭から足を退けた燈瑚は、逃がすものかと彼の胸倉を掴んで引き立たせ、
「北山君……」
握り締めた拳を、彼の左頬に思い切り叩き込んだ。
無様に床に倒れた北山は、子どものようにしくしくと泣き喚きながら、彼女に許しを請い続けた。
しかし、彼女は聞く耳持たず、その声を掻き消すように、言い放った。
「あなたはもう友達なんかじゃないわ。二度と私の前に現れないで」
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