Ep.18 身を打つ鞭の悲鳴
燈瑚の身に危機迫る同時刻。
乗用車がひっきりなしに通る大通りに面したコンビニエンスストアの喫煙所で煙草を吹かしていた青木の元に、水色のワンピースを着たおさげ髪の女の子が駆け寄ってきた。
その女の子が自分の前で立ち止まり、じーっと顔を見つめてくるものだから、青木はまだだいぶ残っていた煙草の火を傍らの灰皿でもみ消して、口の中の紫煙を吐き切ると、少女と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「どうしたの、俺に何か用かい?」
すると少女は、折りたたまれた白い紙をすっと差し出して、
「さっきそこで、これをお兄ちゃんに渡してって言われたの」と今来た道を指さして言う。
「俺に?」
怪訝に思いながらも、青木はその紙を受け取る。なんの変哲もない、大学ノートの切れ端である。外側には宛名などは一切書いてはおらず、差出人も不明だ。
変だな、と思った青木は、
「ねえ、君。この手紙、どんな人が渡してって?」
「青い髪のお兄ちゃんよ。黒いマスクしてた」
「青い髪……?」
青木の記憶の中にそんな頭髪の男など覚えがなかった。――青い髪……。一体誰だ? 同じチームの舎弟にはそんなふざけた頭をしたやつはいないし、配下のチームの一員にも覚えがなかった。
一向に解決しない謎を追って、思案の底へ下って行こうとした青木の横顔をじっと眺める少女。それに気づいた彼ははっと我に返り、
「わざわざありがとう、お嬢ちゃん」と、ニコニコしながら礼を述べた。
「うん!」
少女は嬉しそうに頷いてぱたぱたと走り去っていった。
その小さな後姿を見送った青木は、早速四つに畳まれた謎の手紙を開いた。
シャーペンで書かれたと思しき乱雑な文字の羅列を目で追うごとに、彼の表情に焦りの色が込み上げてくる。
中身はこのように記してあった。
青木瞳
千束燈瑚は君が助けに来るのを待っている。
彼女を無傷のまま取り返したいのなら、今すぐR町にある廃墟まで一人で来られたし。
急げ、青木瞳。千束燈瑚の悲鳴が僕の鼓膜を刺し貫いて耳障りなのだ。
北山サトル
▼
「なんだと……サトル!?」
時を同じくして、とある書店の新刊コーナーで品出しをしていた菅谷一郎の元にも、同等の内容の手紙が送りつけられていた。
「さっき、店の前で君に渡してって言われたんだ。なんか怪しい感じだったけど、菅谷くん、変な事件に巻き込まれたりしてないよね?」
常連客の青年は、人のよさそうな顔を不思議そうにしながら、馴染みの店員にそう言った。
菅谷は読み終わるや否や、それをものすごい剣幕でぐちゃぐちゃに握りつぶすと、
「おい、あんた! この手紙、どんな奴が持ってきた?」
と、食らいつくような勢いで客の青年に掴みかかり、ぶんぶんと肩を揺さぶって訊ねる。
「み、み、緑色の髪の少年に……菅谷って店員に渡してくれって……言われたんだ」
青年はぐるぐると目を回しながら答えた。
「緑色? なんだその阿保みたいな頭した奴、俺は知らないぞ」
「どうしたんだい、菅谷君!」
騒ぎを聞きつけた店長が、レジでの接客を一旦中止して、血相変えて駆け寄ってくる。
店内にいた他の客も本を選ぶ手を止めて、店の中央で起きた騒ぎに注目した。
「店長!」
菅谷は青年から離れると、化け物に追われでもしているみたいな鬼気迫る表情で店長に詰め寄り、
「大変申し訳ないのですが、本日は早退させてください」
言うや否や、彼は返事も聞かずに店を飛び出した。仕事用の緑色のエプロンを剥ぎ取って店内に脱ぎ捨てるなり、弾丸のごとき速度で街を駆け抜ける。
「ついに姿を現しやがったか、サトル……舐めたことしてくれンじゃねぇか!」
菅谷はこれでもかと小さく丸めた手紙を忌々しげに地面にたたきつける。
運よく歩道の信号は彼が近づくタイミングで青に変わり、一切速度を緩めることなく、道行く人々に疾風を叩きつけながら、指定された廃墟目指して、一心不乱に足を動かし続けた。
▼
薄暗い部屋の中にピシィッと、耳を塞ぎたくなるような鋭い破裂音が響き渡った直後、「ああっ!」と女の高い悲鳴が上がる。
それを三度ほど繰り返した後、部屋の中央で乾いた拍手の音が反響し、刹那、静寂が訪れる。
場所は、北山一派の拠点とする廃墟である。
天井の梁から吊るされた鎖に両手を縛られるような形で拘束された燈瑚は、身に襲い掛かる苦痛を受け止めるべく肋骨が浮かぶほどの荒い呼吸を繰り返しながら、力なく崩れ落ちた。が、力が抜けたことにより、半ばぶら下がるような形で、全体重が両肩に負荷をかける。
まともに立てなかった。全身に反響する身の裂けるような痛みに、筋肉が震えて力が入らないのだ。
血が流れているのではないかと錯覚するほどの激痛だが、服の上から鞭を打たれる程度では、女の柔肌とて裂けるほどでもない。
猛獣を躾けるような鞭を人間に、しかも嫁入り前の女に振るうとは、なんて下衆な奴ら。
燈瑚は、鞭を手にした男の隣で腕を組んでいる北山サトルを、飢えた獣の如き双眸で睨みつけた。
彼はフフフフフ、と含み笑いを零すと、
「可哀想だね、燈瑚ちゃん……いや、千束さん。申し訳ないけど、僕は相手が君のようなか弱い女の子だろうと、一切手加減しない主義なんだ」と、暗記したセリフを読み上げるように言った。
「あなたに……女だからって手加減されても、うれしか、ないわよ」
蚊の鳴くような弱弱しい声だったが、彼女の中の、北山サトルへ向けられた怒りの炎はまだ尚も熱く燃え滾っていた。
まるで重罪人のように鞭打たれても、燈瑚の胸の内に生まれた屈強な意思は、屈するどころかより一層、強靭さを増し、肉体的に弱まる彼女を懸命に支えた。
彼女の心には獣がいた。己の身に迫った危機から彼女自身を守る、
さめざめと涙を流し、幼子の様なか弱さで許しを請う燈瑚の姿を望んでいた北山は、その態度が気に入らなかったようで、顔面に張り付けたうすら寒い微笑みを引っ込めると、
「君は僕の友達だから、女の子として大事なものを失わないように、力で
「同情してくれてるの? アハハハハハ、無駄なことをするのね。有限である時間を費やしてまで私を痛めつけて、一体何になるのかしら」
燈瑚が身動きするたびに、彼女の頭上で銀の鎖がちゃらちゃらと鳴った。
彼女の荒い呼吸とその音が重なる度、周囲の男たちは胸がゾクゾクするような、不思議な心地よさに打ち震えた。
「どうして、そんなボロボロになってまで余裕でいられるんだい」
北山は然も面白くなさそうに言った。
「余裕、ね。あなたには私がそう見えているのね。でも、生憎と余裕なんてこれっぽっちもないわ。ただ私は、最終的にあなたにどうやって謝罪させようか考えているだけよ」
北山は、なおも尽きぬ虚勢を張った彼女の態度に呆れたように、ふう、と息を吐くと、嘆かわしげに首を横に振った。
「君は僕が思うよりもずっと強い女の子だったようだね。ごめんよ、君を甘く見すぎていた。敬意が足りなかったね。じゃあ、ここにいる奴らみんなに大事なものを奪われたとしても、強く生きて行けるよね」
「……? 何を……」
「脱がせ」
冷徹に言い放つ北山の声に、その瞬間、燈瑚の全身を今まで以上の恐怖が駆け巡った。
一気に脳が覚醒する。彼女を守る剛毅な獣さえも、一刹那、動揺のために爪を引っ込めたほどである。
間抜けな顔に下卑た笑みを貼り付けた舎弟どもがじりじりと近寄ってくる。
己に集中して伸びてくる無数の手が燈瑚のTシャツを乱暴に掴む。
「やめて、やめて……!」
鎖の音が悲鳴のように響き渡る。
必死に身をよじって抵抗を試みるも、背後に回った二人に体を押さえつけられてしまえば、女一人の全力をもってしても、簡単にねじ伏せられてしまう。
そして無骨な手が襟首にかかると、安物のTシャツを力いっぱい引き裂いた。
▼
R町の廃墟と言われて思い当たる場所はひとつしかなかった。
菅谷一郎は、アパート建設の立て看板が乱立する区画が目前に迫ってきたとき、「お前、菅谷か!」という背後からの呼び声に気が付いて、速度を緩めないまま首を後ろに向けた。
「あ、あんた、青木じゃねえか!」
すぐそこに、同じく全力で駆けつけてきたのであろう青木瞳の姿があった。すぐさま追いついた彼は、「お前のところにも手紙が来たのか?」と息も絶え絶えに言う。
「ああ。燈瑚が人質に取られてるみたいだな」
「菅谷、お前は《北山サトル》を知ってるのか?」
「……ああ。会ったことはないがな。そいつが、今回の俺たちの一件にかかわっていたというのはわかってる」
「なんだ、それ……どういうことだよ」
初めて耳にする情報に、青木は眉を顰めた。
「昨日あんたに話したかったのは《サトル》についてだったんだ。そいつは俺たちの舎弟をリンチし、それを火種に両チームを煽って壊滅させようとした。舎弟襲撃の黒幕だ」
「は……ぁ? お前、それを知ってて何故昨日言わなかったんだよ……!」
「あんたの機嫌が最悪だったからだろ! 俺は話したいことがあると言ったはずだぜ。ったく、ボスもボスなら舎弟も舎弟だな。あんたはもうちっと冷静な男だと思ってたのによう」
青木は言われ放題言われて、バツが悪そうに口元をゆがめた。反論したいところではあったが、息が切れてろくに言葉も紡げなかったのである。
煙草を吸い始めてからというもの、長い時間走ったり喧嘩したりというのが出来なくなった気がする。以前そのことを香に零したら、「おめ、それは加齢の始まりじゃないか?」とにやにやしながら言われた。
今日というほど、成人した己の肉体を恨んだことはない。せめて煙草をやめて、運動に適した身体を作っておけばよかったと後悔しても、今は何の役にも立たないのが腹立たしい。
――燈瑚ちゃん……。
青木の脳裏に燈瑚の笑顔がよぎる。
控えめな性格で、でも一度決めたら引かない頑固者。
小心者なのか大胆不敵なのかわからない二面性を持った彼女に、いつしか青木瞳は心を奪われていた。
だから昨日、燈瑚と菅谷が一緒にいるのを見て、心の底から感じたことのない不快感が沸き起こり、嫉妬に身を焼かれる苦しみに悶えたのだ。
それに気づいたとき、己の心の醜い部分を見たような気がして、吐き気すら覚えた青木だったが、彼女に抱いた恋心をどうにかできるほどの効力はなかったと見える。彼の中で燈瑚を思う気持ちは、昨日よりも格段に大きくなっているのだから。
その時である。
目前に見えてきた廃墟の中から、女の悲鳴が聞こえてきた。間違いない、燈瑚の声だ。
手紙に書かれていた《無傷で返してほしくば》という言葉を裏切るほどの凄惨な悲鳴に、二人は頭の芯が冷える思いを味わった。
「燈瑚!」
「燈瑚ちゃん!」
青木と菅谷は速度を上げ、まるで大地を駆け抜けるチーターよろしく、廃墟の扉へと突進した。
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