Ep.20 解決
先の事件から二日が経過した。
燈瑚は生まれてはじめて学校をサボって、青木、菅谷の三人で平日の公園に集まっていた。
例に洩れず、本日も空梅雨の本領を発揮し、目に痛い原色の塗料に包まれた園内の遊具も強い日差しを受けて眩く光り輝いている。
園内には元気に走り回る帽子をかぶった数人の子どもと、彼らの母親が井戸端会議に夢中になる様子が広がっている。
三人はベンチに腰を下しながら、子どもたちの駆け回るのをぼんやり眺めていた。
今朝の天気予報では今年の最高気温を更新すると予想され、原稿を手にしたお天気キャスターは一日中半袖着用を推奨していた。
家から出る前に久しぶりに嗅いだ日焼け止めの香りに、今年ももうすぐ夏がやってくるのだと実感する。
まだ身体には鞭で打たれた痛みが彼女の日常生活を苦しめていたが、シャワーのお湯が身に染みていた事件初日に比べたら、いくらかマシである。
けれど服が風に揺れるたびに反射的に身を固くしないではいられす、燈瑚は妙に背筋を伸ばしながら缶に入ったカルピスを飲んでいる。
「怪我の調子はどうだ?」
缶コーラのタブを開けながら、菅谷が問う。
「痛いです。でも、服に隠れて見えない私よりも、二人のほうがよっぽど痛々しいですね」
覆しようのない勝利を収めたとはいえ、二人は三十人もの人数を相手にしたのだ。彼らの顔にはいくつか絆創膏が貼り付けてあって、目につく位置に何か所か痣も作っている。ケロッとしている当事者以外から見ると、なかなかに見るに忍びない外見だ。
「俺たちは慣れてるから大丈夫だよ」と苦笑したのは、シガレットケースを手にした青木である。その指先は銀のケースから煙草を一本取りだしかけていたが、
「待て青木。ここは子どもたちの国だ。煙草はやめろ」
菅谷に止められ、彼は「そうだった」と、少しばつが悪そうに、ケースを胸ポケットにしまった。
そもそも彼は禁煙を始めたばかりなのであるが、まだ煙草は十本ほど残っているし、捨てるのも勿体ないからとなんとなく持ち歩いている。けれどそれが原因で、無意識のうちに煙草に手を伸ばしてしまっているのだから、勿体ないと言わずに思い切って処分してしまった方がいいのかもしれない。
喫煙者の肩身が狭いこのご時世、余りものをもらってくれるような愛煙家は周りにはいないのだ。
あの事件の後、青木、菅谷に手を借りて満身創痍で帰宅した愛しい娘・燈瑚の姿を見た両親は、まるで修羅の如く怒り狂い、我が娘と二人の連れに食らいつかん勢いで何があったのだと問い質した。
たどたどしく訳を話す燈瑚と一緒に、責任を感じた二人も説明を加えると、攻め込むべき相手が北山一家だと理解した両親は、三人を連れて、車で二十分ほどのところにある北山家に乗り込んだ。
母が止めなければ、ステアリングを握った父はそのまま北山家の玄関扉に車を突っ込ませるところだった。
そこら一帯はいわば高級住宅地で、周囲に立つ家々もこだわりぬかれたデザインの上品な雰囲気が漂う。
その中でも北山家の敷地はひと際広く、庭の花壇には色鮮やかな花が植えられ、隅の方に置かれた白いベンチの後ろには薔薇のアーチが置いてあった。立派な門構えに、二階建ての大きな家、青い屋根の素敵な家だが、それがどうしたとばかりにアクセルを踏み込むものだから、車内は阿鼻叫喚の地獄絵図もいいところだ。
比較的冷静な方であった母のおかげで大事故は未然に防ぐことはできたものの、車を降りてからはそんなもの関係なしとばかりに、母も手の付けられない暴れん坊に大変身である。
叩き壊す勢いでインターホンを鳴らすのがいい歳をした夫婦だと知った時、北山夫妻は警戒心剥き出しで対応に出た。
立ち話ではなんだから、という建前のもと、部屋の中へ通された五人は、出された紅茶をひっくり返さん勢いで、この家の息子の罪状を述べた。――主に白熱していたのは燈瑚の両親たちで、他の三人は口をはさむ余地なく、高そうなティーカップが壊れないかどうかひやひやしながら、怒れる夫婦の手綱を握っていることしかできなかった。
北山の両親は、突然乗り込んできた五人組の話す内容に、最初こそ
両親でさえ知りえなかった彼の本性がこの場で明るみになると、北山父は「もうやめてあげてください」と燈瑚が仲裁に入らざるを得なくなるくらい息子を殴り、母は世界の終わりを目の当たりにしたみたいにその場でわんわんと泣き崩れた。
燈瑚の両親は、まったく同情の気持ちも見せずに、毅然とした態度で、洒落たティーカップの中の紅茶を一気に飲み干した。
燈瑚ら三人は、目も当てられぬ惨状に無言で視線を合わせるほかなかった。
最後に、北山少年を交えての話し合いが行われた。
燈瑚は事を荒立てる気はない、と控えめであったが、嫁入り前の愛娘が傷つけられたとあっては、彼女の両親が納得するはずがなかった。
その結果、弁護士を間において改めて話し合いを設け、慰謝料を取る形で事は解決へと向かっている。
「北山君は遠くの大学へ転学するそうです。――もう二度と、会うこともないでしょう」
燈瑚は昔を懐かしむような顔で言った。
もはや彼女の心のなかには、彼に対する未練などこれっぽっちもなかった。北山との別れはあまりいい思い出ではないけれど、此度の事件で、彼女は得るものがあったような気がする。
双子の兄に間違われて誘拐される。兄の替え玉作戦は瞬く間に失敗し、片思い中の相手に裏切られ、この身にいくつもの鞭を受けた。思い返してみれば、ここ数日の経験はまさしく恐怖の渦中の出来事で、うら若き乙女の心には、深い深い傷となって永遠に消えることのないように思われた。
それでも、どうしてだろう。彼女の胸には涼やかな風が吹きわたり、新たな世界に一歩踏み出したような新鮮な心地が広がっていた。その理由を、彼女は心のどこかで理解していたようで……。
暫しの沈黙が流れた。
決して不快ではない沈黙の中、三人はぼんやりと空や遊具などを見つめる。
子どもたちのはしゃぐ声は、初夏の陽気に負けないくらいに
そんな幼い歓声から独立した三人の沈黙は、公園の外から飛び込んできた少女によって取り払われた。
「千束さぁん」
手を振りながら近寄ってきた少女は、燈瑚と同じ学科の同級生だ。
「あら、川上さん……」
彼女は、燈瑚のノートや、代返目当てで近寄ってくる友人の一人だったので、プライベートでこのように鉢合わせしてしまったことに、燈瑚はほんの少し気分が落ち込んだ。
「今日は学校来なかったのね。どうしたの?」
挨拶代わりに川上が言う。
「ちょっとね。用事があったの」
「そう。……この人たちはお友達?」
「ええ」
「こんにちわ」
川上は青木らに会釈すると、
「千束さんの家、この辺なの?」
と、早々に本題を切り出す。
「うん、そう」
「よかった! じゃあさ、明後日、日本文学史Ⅰの小テストあるじゃない? ノート持ち込み可だったわよね? あたし、ノート取れてなくてさ、貸してもらえる?」
手を合わせて頼み込む川上に、昔の彼女であったなら、「いいわよ」と上辺だけの
「ごめんなさい。私あの講義、ノート取ってないの」
「えッ、どうして」
川上は上擦った声で言う。
「だって、ノートなんか取らなくてもよくわかるもの。原田先生の授業はわかりやすいものね」
吹っ切れたように爽やかな笑みを向けた燈瑚とは逆に、川上は残念そうに表情を曇らせて、
「そう、それなら仕方ないわよね」と、視線を落とす。
「お役に立てなくてごめんなさい。でも川上さん、あなた、最近まともに講義出てないでしょ? なにかあったの?」
川上はきょとんとしながら、
「……いいえ、何もないわ」と言った。
「あら、そうなの? あまりにもあなたのことを見かけないから、おうちの方で何かあったのかと心配したわ」
「そう……、ううん、何もないのよ、ホントに……。ちょっと、その……バイトとか、友達付き合いが忙しくって、なかなか昼間に起きられなくて……」
川上は、先生に叱られて言い訳をするみたいな口調で言った。
「そうだったのね。バイトお疲れ様」
「ありがとう」
「今日もバイトに行くの?」
「いいえ、今日は休み……」
学校に来れないくらいバイトに勤しまなくてはならない理由があるのかとも思ったが、友達付き合いを優先して勉強をも疎かにする彼女に、遊ぶお金以外の必要なお金はないだろうと勝手に考える。
「そう。……でも、毎月大学に高いお金払ってるんだから、ちゃんと出席して、たっくさん勉強しておかないと損よ。払ってる分以上にこの大学を利用して元を取らないと、って気持ちで学校に来ると、自然と勉強もはかどってしまうわ。私、明日は学校行くから、よかったら一緒にカフェで小テスト対策しましょ。ノートは取ってないけど、参考書があれば十分教えてあげられるわ」
「え、ええ……」
川上は少し以外そうに頷いたのち、微かに笑みを浮かべて、
「そうね、私も朝から講義があるから、お昼休みにでもお願いしていい?」と、言った。
「もちろんよ」
燈瑚はにっこり笑って、去ってゆく川上の背中に手を振り続けていた。
しばらくそうしていたが、やがて彼女の姿が見えなくなって、つぶやくように言う。
「原田先生の講義は、小テストの点も成績に大きく関わってくるんです。でも、ノートをしっかりとって、真面目に授業を受けていれば、誰だって満点は取れる内容です。彼女の言う通り、ノートの持ち込みは許可されているので」
「でもお前、ノートとってないんだろ?」
手を降ろした燈瑚は、微かに声を漏らして笑うと、
「私がきちんと授業に出席して一生懸命とったノート、講義サボって遊び歩いているような子たちには見せたくありません。……けれど、そんな意地悪なことを言って、相手に不快な思いをさせるのも、本意ではないんです」
燈瑚が川上に言ったことは嘘である。本当はしっかりノートをとっているし、原田教授の授業において、話を聞いているだけで点数が取れるテストなどありはしない。
「だから、こうして勉強を通して、仲良くなれる同窓たちとだけ交流を深めていきたいなと思ってます」
きっと川上とは、いい友達になれるかもしれない。そう思ったから、明日の昼休みに勉強の約束を自ら取り付けたのだ。
彼女は友達も多くて、いつも人の輪の中心にいるようなタイプの人だけれど、決して勉強が嫌いな人ではないということを、燈瑚は知っていた。
「いいんじゃないかな。本当の友人っていうのは、そうやって作っていくものだよ」
青木の言葉に、燈瑚はホッとしたように表情を緩め、「そうですよね」と、ひとつ頷いた。
「そろそろ行くか?」
「ええ」
燈瑚は残りのカルピスを飲み干して、自販機横のくずかごに空き缶を捨てた。
三人はこれから、病院へ向かうのだ。
兄、千束香のお見舞いに。
ここ何年かまともに会話もしていなかった兄貴を見舞うのは、ほんの少し緊張する。
けれど、二人は同じ年に生まれ、同じように歳を重ねてきた双子のきょうだいなのだ。
たった数年の沈黙など、すぐに溶けて仲直り。
お互いに謝ったりなんかしないだろうけれど、きっと子どもの頃のように、また仲良くなれるはず――。
燈瑚は、数日ぶりに会う兄の顔を想像して、胸が緊張に震える思いだった。
どれ程の怪我で入院したんだろう? 全身包帯巻きかしら? 大人しくするのが苦手な兄は、ちゃんとベッドで横になれているかしら? 私の顔を見て開口一番、何を言ってくるかしら?
燈瑚は驚く香の顔を想像して、フフフと笑みをこぼした。
「おれら三人のこの組み合わせ、ボスになんて説明しようか」
公園を出たところで、青木が苦笑混じりに言った。
そういえば、まだ香は今回の一件を全くと言っていいほど知らないのだ。
自分の知らないところであやうくチームが壊滅しかけ、自分の知らないところで妹が自身の影武者を務めかけ、自分の知らないところで第三のチームが喧嘩をふっかけてきていたのだ。
さらに、入院したと思ったら、妹と舎弟とライバルの男が三人で見舞いに来る、そのような状況に、きっと兄貴は動揺する。
「まあ、そうですね……」
燈瑚はぼんやりと空を見上げて、
「じゃあ、友達ということで」
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