Ep.15 《サトル》……?
一夜明けた日曜日。
人々の頭上にはどんよりした曇り空が広がり、今朝の天気予報での降水確率は七十パーセントと、少し高めだったため、燈瑚は部屋にこもって読書に耽ることにした。
本棚の前に立って、どの小説を読もうかと思案する時間も、読書好きには至福の時である。
綺麗に整列した背表紙を順番に眺め、今はこれの気分じゃない、これは夏が来たら読もう、といくつかの本が彼女の眼鏡にかなうことなく弾かれてゆく中、数分かけて迷った挙句、三か月前に買ってそのままになっていた江戸川乱歩の『吸血鬼』が、棚の端からそっと引き抜かれた。
温泉旅館の一室で、どちらかに毒の入ったワイングラスが並ぶテーブルをはさんで向かい合わせに座る若者の青年と中年紳士のシーンから物語はスタートする。
美貌のヒロインとその恋人に忍び寄る恐怖。謎の誘拐犯に攫われる愛らしい一人息子の少年。そして登場人物たちの前に度々現れる醜悪な男の正体は?
背筋に忍び寄るどろどろとした恐怖に全身を緊張させながら、怖いもの見たさにも似た抗いがたい欲求を刺激する巧みな文章に、燈瑚は夢中になった。
こういったように、恐怖心と好奇心を刺激する繊細な文章に惚れ込んで、彼女が乱歩作品を贔屓にするようになったのは、当然の理とでも言おうか。
彼の作品には、そういった恐ろしい描写の他にも、時として悲しく切ないラストや、胸の一部が抜け落ちてゆくような物寂しい結末を迎えるものも多々あり、一言では言い表せない乱歩作品の魅力は、時が経った現在でも、多くの読者を魅了してやまないのである。
朝から本の頁を捲ることに集中していた彼女だったが、正午を三十分後に控えたころ、誰かが二階に上がってくる気配がして、ふと顔を上げ、扉の方へ目を向けた。
コンコン、と控えめなノックの後、母が小さく扉を押し開けた。
「燈瑚、お客さん。青木さんて人」
「……青木、さん」
色恋の気配など全く感じさせない我が娘に男の来客ありと、母は少し驚いているらしい。にやにやしたいのを必死で堪えて、細く開けた扉の隙間からすっと顔を引っ込めると、階段を爪先で降りるような足取りで去ってゆく。
そんな
玄関には青木の姿があり、暗い顔をした燈瑚がやってくるのを確認すると、小さく右手を挙げた。
「こ、こんにちわ、青木さん。何かあったのですか?」
燈瑚は、気まずさから自然と早口になってしまった。
青木は難しい顔で少女の顔を窺うと、「少し出られるかな? ここだと話し辛いんだ」と、表を指差した。
燈瑚はその言葉が意味するところを推測し、表情が強張るのをどうすることもできなかった。
それでもなんとか苦し紛れの微笑を浮かべて、
「ええ、大丈夫です」と頷く。
二人は外へ出た。
ひと気のないところで話がしたいとは、一体何事かしら。
家の前で向かい合ってすぐ、少しの沈黙ですら恐れた燈瑚の方から、「玄関で話せないような大事件が起きたのでしょうか?」と訊ねる。
「いや……」
歯切れの悪い青木から向けられる探るような視線。あまり好意の感じられない雰囲気に、痛くもない腹を探られているようで居心地が悪かった。
なんと気味の悪い静寂だろう。無意味にも感じられるほどの長い時間を突き付けられて、燈瑚の喉はからからに喉いた。罪悪感が、彼女の喉をこれでもかと焼いているのだ。
ぴりついた空気に肌を突き刺され身が竦む想いの燈瑚を見て、彼はようやく本題を切り出す。
「菅谷のことだ」
「え……っ」
燈瑚の首筋から反射的に冷や汗が噴出した。
菅谷の名を出した瞬間、彼女の背筋が異様に伸び、赤い舌が唇を舐めると、青木の顔は確信得たりとばかりに厳しいものに変わった。
「昨日、君と菅谷が一緒にいるのを見かけたんだ。ファミレスから出てくるところを、たまたまね。……まさか君、菅谷一派に寝返ったのか?」
穏やかでない言葉に、燈瑚の顔がサッと青ざめた。震える声で「何ですって……?」としか答えられなかったのは、違うと言い切ることも出来なかったからだ。
「あいつに、ボスが入院中だと言ったろ?」
責めるような口調に、彼女の息は上がる。
どうしてそれを知っているのだろうと考える余裕もなく、ただ口を魚のようにぱくぱくさせることしかできない。
そんな時間が数秒続いた後、結局返す言葉も見当たらず、観念するように「ごめんなさい」と謝罪するしかなかった。
「昨日、外で会って、一昨日のことを謝罪されました。入院している兄貴のことも、他言しないと約束してくれました」と、混乱する頭でそこまで言って、第三者のチームの存在について思い出す。菅谷の代わりに、《サトル》のことを訪ねようとした彼女の言葉を、青木は遮るようにして、
「あいつを信用しちゃ駄目だ。菅谷という男は血も涙もない冷血漢だと言ったろう」
決め付けるかのような《冷血漢》という言葉に、聞き捨てならないとばかりに燈瑚は反論する。
「菅谷さんはそんな人じゃありませんでした。兄貴の入院のことも謝ってくれたんですよ? そんな人が冷血だなんて……」
「君を欺くための方便かもしれないぜ」
浅はかな女だ、と言われたような気がして、燈瑚はついカッとなって声を荒げる。
「どうしてそんな事を言うのですか!」
まさか怒鳴られるとは思っていなかった青木は、思わず瞠目して言葉を失う。
きっと彼は、菅谷が周囲に対してどうして冷徹なふるまいをするのか、知らないのだ。……あたりまえだ。菅谷は、己の辛い過去をあちこちで話して聞かせるほどお喋りではない。
叫んでしまった数秒後に冷静さを取り戻した燈瑚だったが、己の発言を撤回しようとは微塵も思わず、怒ったように視線を他所にやって、
「話はそれだけですか? 私、忙しいので失礼します」と踵を返した。
「あ、待っ……」
彼に対する多少の罪悪感に苛まれつつも、燈瑚はこの状況から逃げ出したい一心で青木が止めるのを無視して、家の中へ姿を消した。
▼
玄関扉を施錠した燈瑚は、左胸の奥で大暴れする怪物の怒号を押さえ込みながら、突っかけサンダルを脱ぎ捨てて、よたよたと二階へ向かった。がっくりと肩を落として一段一段階段を上っていると、気まぐれで塗ったペディキュアがだいぶはげ落ちているのがよくわかった。
自室に入るなり、机の上の読みかけの本が目に留まる。
世界観にどっぷりハマり、夢中になって半ばまで読み進めた本を手に取るも、このように荒くれた心のままでは読書を続ける気にはなれなかった。
燈瑚は、洋服掛けに掛けたトートバッグを手にし、中に財布、スマートフォン、ハンカチ、念のため読みかけの本を乱雑に詰め込むと、再び部屋を出る。
自分でも信じられないくらいにむしゃくしゃしていた。少し、攻撃的とすら感じる己の心を彼女自身が持て余し気味だったのだ。このまま部屋にいては、物に八つ当たりしかねないと懸念し、自制のきく外へと逃げ出すのが一番安心だった。
リビングでテレビを観ていた母に、「少し出かけてくる」と告げると、まだ近くに青木がいるかもしれぬことを恐れて、わざわざ靴をもって裏口から外へ出る。
空には
さて、外出を決めたはいいが、どこへ行こう。駅の方へ向かって歩きながら、頭の中で行き先を巡らせる。
未完成の課題があれば、行きつけのコーヒーショップで片づけることも考えたのだが、日ごろの真面目な性分故、教授陣から出されていた課題の類はひとつ残らず完成し、とっくに勉強ファイルの中で礼儀正しく提出されるのを待っている状態だ。
そういえば学校で使うルーズリーフがもうすぐ無くなりそうだったな。赤ペンのインクもじきに切れそうだった。
この間、重たい教科書をまとめて持って帰ってきたときに、持ち手が千切れて使い物にならなくなった大学用の鞄があるから、手頃な価格のものが欲しい。
と、前方に、馴染みの大型スーパーが見えてくる。中には雑貨屋や服屋、文房具屋もある。今、彼女が必要としているものはそこで十分調達できるだろう。
燈瑚はちょうど青になった信号を渡って、フードコート側から店内へと入っていった。
▼
「あ」
文具屋で、徳用ルーズリーフとボールペンの替え芯を手にした燈瑚と、買い物かごに大学ノートと、細々した文具を沢山入れた北山が出会い頭に声を揃えた。
「千束さん。最近、よく会うね」
「そ、そうね」
燈瑚は咄嗟に前髪を整えながら言った。勢いのままに家を出てしまったので、髪型をセットするどころか、化粧すらしていない。
北山に会う可能性を加味しておくべきであった。彼とは家からの最寄り駅が一緒で、偶然にも住んでいる場所が近いというのを、友達になってすぐの時に聞いていたが、昨日といい今日と良い、こうも偶然が重なるとは思わなんだ。
激しい後悔と、だらしない姿を見られた羞恥とが燈瑚の中で荒波を立てる。
けれど北山は、彼女の心境など意にも介さず「よかったら、このあと少しお茶でもしない? 僕、小腹空いちゃったんだ」と誘った。
願ってもいないお誘いに、思わず、
「いいの?」と伺いを立てずにはいられなかった。
「僕が聞いてるんだよ。千束さんが嫌でなかったら付き合ってよ」
嫌、だなんて誰が言うもんか、と燈瑚はニコニコ顔で「もちろん、付き合うわ」と頷いた。
二人は、順番にレジに並んで会計を済ませた後、表の道に面したフードコートに足を運んだ。
買い物をしている間に一雨あったらしく、人々が歩くアスファルトの上は黒く濡れていた。
燈瑚は、クレープ屋からただよう甘い香りに誘われてチョコバナナクレープを、北山はラーメンを注文した。
「付き合ってくれてありがとう」
北山が割り箸を割りながら言う。
「いいのよ、私も暇だったんだもの」
燈瑚はクレープに嚙り付く一口を小さく小さく食べながら言った。クリームのたっぷり入った甘味の楽園に大口を開けて齧り付きたい衝動を押さえつけながら、ちびちびと淑やかぶるのは、悪あがきがすぎるだろうか。
二人は、もぐもぐと口を動かしながら他愛もない会話に興じていたが、北山のラーメンの器の中の麺が空っぽになるころ、ふと彼はこんな言葉を漏らした。
「あまり天気良さそうじゃないし、今日は家に引きこもって、終わってない課題をやろうと思ってたら、ちょうどA5のコピー用紙が切れてて、仕方なく外出したんだ。けど、こうして千束さんに会えたし、ラッキーだったよ」
「え、どうして?」
燈瑚はまだ半分以上残っているクレープを食べる手を休めて、頬に朱をさしながら言った。私に会えて、どうしてラッキーだったの? と直接的に訊ねたいのをぐっと堪えて、彼の答えを待つ。
すると北山は、改まったように箸を置き、やにわに姿勢を正しすと、
「千束さんはさ、付き合ってる人いるの?」と上目遣いに訊ねた。
まさに藪から棒に、といった感じであった。思わず燈瑚は目を見開き、
「い、いないわ。私に付き合ってる人なんて」
と、ぶんぶんと首を横に振る。
「そ、そっか」
それきり、北山は口を噤んでしまった。
思わせぶりな言葉の羅列に、多少なりとも期待していた燈瑚は少しがっかりして、先ほどより少しばかり口を大きく開けて、クレープに噛りついた。
外を歩く人だかりは、買い物袋を下げて家路につく主婦や、休日に友人と遊びに来た子どもたちの姿が多く目についた。
緊張を抱えた沈黙の中、
それまで沈黙を守っていた北山がようやく口を開いたのは、表通りへ通じる自動ドアを潜り抜けた時だった。
「千束さん」
心なしか、絞り出すような響きを含んだ声。
「うん?」
二人は立ち止まり、分厚い雲間から覗く陽光を半身に浴びながら向かい合った。
真っ向から見る北山の顔は驚くほど赤く染まり、何かに怯えるような弱々しいものだった。
口を開けたり閉じたりと、発言するのを躊躇っているような雰囲気に、燈瑚の胸は言い表しようのない感情に支配された。
「どうしたの?」と訊ねようとした瞬間、北山は意を決したように口を開いて、一言一言、はっきりと、己の心の内を吐露した。
「あなたのことが、好きです。付き合ってください」
束の間の陽光がのぞく初夏の陽気の下、北山がじっと燈瑚の目を見つめて言った。
たちまち、燈瑚の胸は燃え滾る炎のように熱く、今まで感じたことのない幸福感に包まれた。
目頭にじんわりと温かいものか込み上げてくる。
視界が滲んで、北山の表情がよくわからなくなる。
呼吸が荒くなるほどに心臓が忙しなく脈を打ち始め、軽い目眩すら感じ始めるなり、彼女の顔は花が開くようにほころんでいった。
言葉が出てこないまま、時だけが過ぎた。
何か言わなくては、と乾いた口を開く。
「あ、ありがとう。とても嬉しいわ」
たどたどしく言葉を紡ぐ燈瑚。急く心を抱きしめながら、彼女は込み上げてくる愛おしさに胸をいっぱいにしながら、己の心を打ち明けた。
「私も、北山君が好き。あなたの恋人になれるなんて、嬉しいわ」
「本当かい!」
北山は燈瑚の華奢な手を取った。
ああ、心臓が破裂してしまいそうだわ。燈瑚は、彼に触れられた箇所が発火してしまいそうな感覚に、一層顔を赤らめた。
「ええ、本当よ。ずっとあなたのことが好きだったの。でも、北山君はいろんな女の子からも人気があったし、私には告白する勇気なんてなかったから、あなたからそう言ってもらえて、今、とても幸せよ」
「僕だって幸せだよ、とっても! ね、燈瑚ちゃん。僕のこと、北山君じゃなくて、サトルって、名前で呼んで?」
「――サト……」
照れ笑いを浮かべる燈瑚の声が不意に途絶えた。
上昇した体温が少しずつ、ほんの少しずつ下がっていくような感覚に燈瑚は気が付いた。
サトル……?
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