Ep.14 失言

「今日はおつかれさまでした」


 ここのところ誰かに家まで送ってもらう機会が増えたな、と軽く頭を下げた燈瑚はぼんやりと思う。

 陽はすっかりと傾き、町を照らす陽光は立ち並ぶ家々の外壁をミカン色に塗り替えた。

 空を横切るカラスたちが、地上を駆け回る少年少女に帰宅を促すように寂し気に鳴いている声を聴くと、一日の終わりが近付いてきていると実感して、心が切ない。


 菅谷は機嫌よさそうににこっと笑いながら「お前もな」と言った。情報収集の際に得た――疲労を一切感じさせない顔で首の後ろをさする姿に、もうあの底無しの暗黒は付き纏ってはいない。

 昨日と今日とですっかり印象の変わってしまった菅谷一郎は、本当に二十四時間前にここで脅しかけてきた相手だとは思えなかった。


「明日も情報収集しますか?」

「や、明日はバイトあるんだ。難しいかもしれん」

「……そうですか」


 燈瑚は自分でも気が付かないまま、しゅん、眉尻を下げた。

 こういう言い方は不謹慎かもしれないが、疑惑の《サトル》を追う彼との共同捜索は、ありきたりな日常から逸脱したスリルとときめきがあった。


 学友たちが知らない自分がここにいるのだと思うと、不思議と気持ちが高揚して、キャンパス内では「うん」「いいよ」と頷いてばかりいる千束燈瑚とは全く違う人格が表に出ているのが心地よかった。

 まさか自分も、非日常に飛び込んでみたいなどという俗っぽい願望を持っていたなんて思いもよらないものだから、少々戸惑ったほどだが、今日にいたるまでの燈瑚は、ただの大学生で、当たり障りなく周囲との衝突を避けてきたが故の不必要なまでの柔らかさがあった。しかしそれは、彼女自らがあえてそうすることで目に見えていた人柄だ。

 

 今まで彼女自身が人前で見せてきた《千束燈瑚》という少女は、真面目でお人好しで、頼めばなんでも引き受けてくれる良い人――否、だった。そんな自分はいつでも利口で正しい人間でなければならなかった。

 他人に良い印象を与えるために、燈瑚はいつだって清廉潔白でなければならなかったけれど、本当は違う。燈瑚には、その《良い人》の部分に抑圧された全く逆の本心があった。


 好きで学友たちに利用されているわけではない。

 それが、菅谷の前では一切必要のない気遣いであるのだから、彼の隣にいる限り、品行方正で真面目な清廉潔白さはなりを潜めるし、飾り気のない本来のままの千束燈瑚でいることができる。その心地よさも相まって、彼女は些か大胆不敵な思想へと傾きつつあった。


「そうだ。お前の連絡先教えてくれよ」

 菅谷はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出す。「わかったことがあったらすぐに教えあおう。いつでも連絡してくれて構わない」

「はい」

 互いの電話番号を交換したところで、今日の捜索は終了した。

「じゃ、またな」


               ▼


 オレンジ色の夕焼けに照らされた、ノスタルジックな雰囲気の漂う商店街を抜けると、ちょうどすぐそこに立った男が「よお、菅谷」と片手をあげて声をかけた。


 菅谷は軽く目を見開いて、突然現れた相手の顔をまじまじと見る。

「お前は、千束ンとこの……」

 青木瞳だ。画材店で買い物した荷物は家に置いてきたのだろう。両手の空いた身軽な格好で、道のかたわらの赤いポストのそばで腕を組んでいた。

 おそらく、ずっとここで待っていたのだと思われる。まるで「やっときたか」とでも言いたそうな表情を、菅谷へ向けていた。


 菅谷は、燈瑚と共にいた時の気さくな笑顔がまるで泡沫うたかただったのではないかと錯覚するほどの冷笑を浮かべて、青木に向き直った。ああ、その凍り付くような笑顔の中に、あの恐ろしい暗黒が揺らめいている。


「わざわざ俺を待ち伏せまでして、何か用か? あんたもよっぽど暇人だな――と言いたいところなんだがな、実を言うと、俺もあんたに話したいことがあるんだ」


 青木は口を噤んだまま不機嫌そうににらみつけてくる。その鋭利な視線と無言が意味するところを悟って、菅谷も相応の威圧感を放った。

「話す事なんて何もないってか?」

「どうしてお前があの子と一緒にいたんだ?」

「あの子……?」

 彼の言うが誰を示しているのか、まもなく察した菅谷は、真一文字に引き結んだ唇を三日月形に割いて、相手をおちょくるような笑みを浮かべながら、「そんなことが気になるのか?」と探るように言った。


 普段、温厚であるはずの青木は、彼のその態度に腹を立てて、

「彼女にちょっかいを出さないでくれるか」と強い口調で言った。

「ちょっかい? ハハハハハハハッ、まるで親友を取られたガキみてぇな言い方だな」

 心底愉快だ、というように声をあげて笑う菅谷。


「茶化すな。真面目な話をしているんだぜ」

「お前だってあの子に、ちょっかいだしてんだろ?」

「なに? 俺がいつ、そんなことをした」

「あの子を、千束香のに利用しようとしたんだろう? やることが随分乱暴じゃないか。あんたらしくもない」


 青木は苛立ちを腹の底へ鎮めるかのように奥歯を噛み締めた。


 ……嫌な予感がする。否、勘の良いならもう気が付いたのではありませんか。今の菅谷一郎のセリフを聞いて、なにか胸がざわつくような気がしませんか。

 残念ながら、青木青年は相手の放ったとんでもない一言の正体には気が付いていない様子。

 それは菅谷一郎も同様で、自分が今、余計な一言を口にしたことなど全く意に介しないまま、余裕を浮かべた顔でしゃべり続ける。


「そう怖い顔をしなさんな。俺に悪意はない。彼女はただの友人さ。俺だって、不良以外の顔は持ち合わせてるんだぜ。あんただって、学校では普通の学生さんやってんだろ? それと同じだよ」


 菅谷はそう言って彼の傍を通り過ぎようとしたが、青木はそれを許さなかった。さっと伸びた力強い手が、菅谷の肩を掴んでゆく手を阻んだのである。指が食い込むほどのものすごい力に、菅谷は余裕ぶった顔を痛みに歪めた。


「……何をする。この手を放せよ」

「あの子を巻き込みたくないんだよ……!」


 青木のぎらりと光る瞳が、言葉以上の感情を伴なって訴えかける。その双眸から見え隠れするもう一つの激しいの正体を、菅谷は一瞬にして悟った。

「……話はそれだけか」

 青木の手はより強く菅谷の肩を掴んだ。短く切り揃えられた爪が、今にも肩の肉を抉り取らん勢いである。

「彼女を利用する気か。そんなことをしてみろ、俺はお前を絶対に許さないぞ、菅谷!」

 菅谷は掴まれた肩を振り返るようにして、怒れる青木の顔を睨みつけると、

「普段、慎ましやかで温厚なあんたが、そこまで感情を昂ぶらせるなんて、彼女に相当みたいだな」と、茶化すように言った。


 青木は目を見開くのとは正反対に、すっかり口を噤んでしまう。

 夕暮れと沈黙。道路にはひっきりなしに車が行き来している。不自然に立ち尽くす彼らの傍を、何人もの人が通り過ぎてゆく。


 菅谷は肩に食い込む手を無情に振り払うと、相手を見下すように、

「単細胞で人の話を聞かん千束香入院中の今、あんたとなら冷静に話が出来ると思ったんだが、なかなかどうして、カッとなりやすい性質たちらしいな。俺からの話は、ない。今のあんたにしても無駄だとわかったからな」


 青木の表情が一気に凍りついたのはその時だった。――同時に、菅谷の顔にも「しまった」と言わんばかりの、失言を悔いる焦りの色がにじむ。

 香の入院について、燈瑚に口止めされていたのをすっかり失念していたのだ。否、失念していたというよりは、存外彼も頭に血が上っていたのだろう。つい、啖呵の勢いで零してしまったような感じだ。

 一度外へ出てしまった声を喉にひっこめることなど出来ようはずもなく、菅谷はバツが悪そうに顔をしかめた。心の中で燈瑚に「すまん、口が滑った」と両手を合わせる。


 初めのうち、青木は彼の失言を聞き間違いか何かかと思っていたが、相手の反応が、そうではないことを物語っていた。感情が表によく出る菅谷の表情からは、異様な自信に溢れる色がいくらか抜け落ち、少しばかりそわそわした風情があった。

 青木が失言に気が付いてませんように、と願っているのだ。だが悲しいことに、一言目の失言を見送った青木も、今回ばかりは聞き逃さなかった。――菅谷があまりにも平然と話すものだから、気にも止まらなかったらしい。はじめ、「千束香のに利用しようとしたんだろう?」という発言も、大胆不敵を通り越した、もはや愚かともいえる失言だとは思いはしないか?


 青木は、思わず数歩よろけながら、去来した疑問にたちまち頭全体を乗っ取られた。

 ――菅谷の奴……ボスが不在だと、どうして知っている?

 その答えが燈瑚にあると瞬時にひらめくと同時に、それは彼女が自分たちを裏切ったのでは、という恐ろしい疑念に直結した。


 まさか、燈瑚がそんなことをするはずない。彼女がそんな、愚かしいことをするはずがない。

 そういう思いとは裏腹に、青木の脳内を様々な不安が埋め尽くす。

 忽然と現れた一点の闇が、青木を中心にして世界全体を塗り込めると、商店街の雑踏は完全にシャットアウトされ、たった一人、胸の内で生まれた不安に心を揺さぶられた。

 燈瑚が自分を裏切るわけないという思いと、菅谷の失言の元とが、彼の心を嵐の夜の様にざわめかせた。


 半ば茫然自失の青木は、もはやライバルの姿など見えていないかのように、他次元の風景を見つめるような目付きになっていた。


 さすがに菅谷も、その状態を見ては少なからず同情を禁じ得なかった。

「お、おい、勘違いすんなよな。あいつは何も言っちゃいないぜ。あんたらのやばい状況を密告してきたのは誓ってあいつじゃないからな。そこんところ、早とちりするなよ」

 あまりフォローになっていない言葉を並べたてるも、その声は相手には一切届いていないようで、何の反応も帰ってこなかった。

 すっかり成す術をなくし、肩を落とした菅谷はその隙に「じゃあな」とだけ告げて、青木に背を向けたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る