Ep.16 恐ろしい裏切り

 ドクン、ドクン、と心臓が大きくはっきり打つ。けれど、明らかに違う。何が違うって、この心臓の音は想い人から好意を告げられたときに鳴りだしたものとは、一切の意味が変わってしまったということだ――その理由は……。


 ――サトル。


 どこかで聞いた。

 サトル。

 昨日、彼女らが町中探し回って、結局見つけられなかった《サトル》。

 第三のチームの存在を匂わせた謎のサトル

 事件の渦中にいる幽霊のようなサトル


 否、菅谷が言っていた《サトル》とは別人に決まっている。さほど珍しい名前ではないし、単なる偶然だ……。

 そう言い聞かせるも、それとは対称的に、本能はうるさいほどに警鐘を鳴らす。耳に侵入しようとする一切の音を閉め出すほどに。


 ちがう。そんなわけはない。《サトル》、五人に一人くらいの割合で男性は大体サトル君だわ。――恐怖のあまり、無茶なことを考えているとは理解しつつも、燈瑚は険を含んだ目で北山を見つめた。


 彼はしゃあしゃあ顔で「どうかした?」と首を傾げる。その顔すらわざとらしい作り物のように見えてしまっては、もうどうしようもない。彼女の中に生じた疑念は覆ることはないだろう。

 ――なんでもないわ、サトルくん。

 そう答えたかった。けれど、その意志とは裏腹に、

「ねえ、北山君」

 と、深刻な声が喉を突いて出た。


 己の心拍音にかき消されそうなほどにか細い声は、喉に張り付くようで酷くかすれていた。

 言ってはいけないような気がした。これを言ってしまえば、彼との関係が一切合切ダメになってしまう……そんな気がして、彼女は心の底から悲しみが湧き上がってくるのをどうすることもできなかった。

 それでも、この話を無かったことのように切り上げることもできないまま、燈瑚は乾いた喉を上下させ、北山少年の中にある答えに向かって、そっとメスを差し込んでゆく……。


「北山君はさ、私の兄貴のこと、知ってる……?」

「……入院中のお兄さんがいるんだよね?」


 その答えは、燈瑚の頭の中を巨大な竜巻に蹂躙されたかのごとく、めちゃくちゃにかき回した。

 その渦の中で、構築されつつある信じがたき思索が天へ向かって手を伸ばし、空を覆う分厚い雲を突き抜けて、真実と名をいただいた太陽が彼女の曇った脳内を眩く照らしだした。

 ああ、今、千束燈瑚の目の前で、真実が目に見える形となって存在を明らかにした。

 彼女の荒れに荒れた思考の中から根気よく立ち上がった本能が、一つ、また一つと言葉を紡ぐ。


「どうして入院してるか、知ってる?」

「……何故、そんな事を聞くの?」


 心なしか、北山の声が冷たく響いた。

 少しずつ、近寄りたくない真実へと歩を進める。恐ろしいのに、近付かないではいられない。覗き込まないではいられない。


 ここが分かれ道だ。この話をここで終わらせたら、彼女たちは晴れて恋人同士に。

 けれど、燈瑚がどうしても彼の口から真実を聞き出したいというのなら――もう後に戻ることなどできない。大きく口を開けた底無しの落とし穴へ真っ逆さまだ。

 二度とは戻ってこられないかもしれない。

 常日頃を真面目に生きてきただけでは、このような緊張感を味わうことなど滅多にないのだろう。

 心臓がうるさい。服の上からでも大きく脈打っているのがわかる。それに合わせて自然と、呼吸の量もスピードも上がってゆく……。


 燈瑚は、地獄の底へ伸びる大きな深淵に、恐る恐る身を寄せるような心地で続けた。


「あのさ、北山君。私、言ってなかったわよね?」

「……何を?」

「兄貴が入院してること――私、あなたには一言も言ってなかったわよね?」


 その瞬間、一羽の鴉が、ギャア、と不気味に鳴いた。

 たちまち、二人の世界は深い深い水底を思わせるしじまに包まれた。

 彼女が口にした言葉が何を意味するのか、もう、お判りいただけただろう。

 なぜ彼は知っていた? 千束香が入院していることを、どこで知ったというのだ?

 先の事件にまったくの無関係者である北山少年が香入院の件を知っていてはいけないのである。何故かって、それが意味する残酷な真実を、彼に恋心を抱いている燈瑚は絶対に受け入れられないからだ。


 北山の、陽光を受けた方とは逆側の顔に、墨で塗りつぶしたような昏い影が落ちたのはその刹那だった。


「あーあ、とちったか」


 今まで被っていた仮面をかなぐり捨てたかのような豹変振りに、燈瑚は総毛立った。

 人の好さそうな印象を与えていた、大きな愛らしい瞳には胡乱な色が差し込み、いつも気さくに「おはよう」と挨拶してくれていた口から放たれた言葉は、とても彼から生まれたものとは思えないような嫌な感じが含まれていた。

 一瞬にして人格がすり替わった様は、さながら天才マジシャンの手品を見ているようで。燈瑚は信じられない思いに支配され、無意識下で後退りした。

 たった今食べたクレープの甘さも忘れて、口の中に苦い味が広がってゆく。


「どうして兄貴が入院したことを知っていたの?」

「……理由が知りたい?」

「質問しているのは私よ。ね、どうして、知っているの?」


 燈瑚は乾いた唇を何度も舐めながら言った。

「そんなの、決まっているだろ? 僕が仕組んだ喧嘩で、千束香は入院したんだからね」

「……あなたが兄貴の舎弟を襲ったのね」

「菅谷一派のアサクラ シズカをやったのも僕さ」

 本人の口から明かされた真実から目を背けるように、燈瑚は唇を噛みしめて、顔を伏せた。


 どうしてこれが夢ではないのだろう。どんなに唇を噛みしめても、今見ているのは紛れもなく現実だとばかりに痛みは襲ってくるし、目の前にいる片想いの相手は全く別人のような顔でそこに佇立している。


「どうしてそんな事を」

 切迫した熱い息が彼女の喉を灼いた。

 北山はその質問には答えず、他所を指差し、

「ついて来るかい? ここでは話し辛いだろ?」と言った。


 周囲には大勢の人の姿がある。ここで話を続けてしまえば、やがて冷静でいられなくなったときに周りの人に迷惑をかけてしまうかもしれない。

 燈瑚はゆっくりと頷いた。



 互いに一切口を開くことなく十分ほど歩いて行くと、たちまち周囲にひと気がなくなる。

 どこまで行くのだろう……燈瑚は注意深く北山を監視しながら、辺りに目を配った。

 小さな山だか丘だかを切り開いて出来た空き地がすぐ傍にある。辺りに民家などはなく、かつてここには、多くの緑が生息していたのだろうという印象を抱かせた。

 ここら一帯は近々アパートが建てられるらしく、あちこちに立った看板には建設会社の名前が入っていた。


 重機が入る何年か前は、この辺も子どもたちの恰好の遊び場で、ランドセルを置いた少年少女たちが集まって秘密基地を作ったり、流行りのおもちゃを持ち寄って大勢で遊んでいる姿が多く見受けられた。

 今やその面影はほとんどなく、遠くまで見渡せるさら地が四方に続き、子どもたちの姿どころか、はしゃぎ声の一つも聞こえないもの寂しい場所に様変わりしていた。


 まだ歩くのかと、正面の背中に文句を言おうとしたところで、その先に寂れた建物が見えてきた。

 どうやら北山はその建物を目指しているようで、彼のつま先はそちらに向かって進んでいる。


「あそこが僕のチームの拠点だよ」

「随分古い建物なのね。どうして不良少年たちは廃倉庫や廃墟が好きなのかしら」


 これは精一杯の虚勢を張っての発言である。

 太陽はまたしても雲に覆われた。まだ十四時を回っていないにもかかわらず、辺りは鬱々しい青鈍色に包まれていた。


 重苦しい沈黙に包まれた二人は、間もなく前方に現れた大きなプレハブ小屋の中に入っていった。

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