Ep.11 《サトル》という男
その翌日。ベージュのカーテン越しに朝の光がぼんやりと差し込む休日の早朝がやってきた。
本日は土曜日で補講等もなく、これといった予定もない。
妙にもの寂しい雰囲気の部屋、ベッドの中で起床した千束燈瑚の心境は、世間の人々が待ち望んだのんびりした休日のムードに便乗する元気もなかった。
胸の真ん中が急に抜け落ちたみたいに寒々しい。
他のことなど何も手につかないような心地で、何をするでもなく、目が覚めてからも薄手の毛布にくるまって、ただぼんやりと天井を見つめているばかりであった。
楽しいことを考えようにも、心安らぐ空想に耽る余裕すらなく、罪悪感と謎の虚無感だけが、いつまでたっても彼女の華奢な胸の中に
すべて夢であったなら、どれほど楽であったか。
もらったばかりの電話番号を眺めては、青木の顔を思い出してドキドキしていたかもしれない。そして――北山のことを思い出して恋心を悩ませていたのだろうか……。
燈瑚は、勉強机の上に置きっぱなしになった青い付箋に目を止めて、そんなことを思った。
やがて、階下で両親が起床した気配があった。
部屋の壁掛け時計はいつの間にか九時を指していて、早起きさんも遅起きさんも、世界のみんなが目を覚ましだす。
寝る直前から起床までの数時間をもってしても昨日の心の傷は癒えぬままであったが、貴重な休日を暗い気分で台無しにするのは本意でなかったため、気晴らしに書店で買い物でもしようと外出に踏み切った燈瑚は、リビングに降り立って朝食を摂った後、いつも使っているトートバックを肩に掛けて家を出た。
薄曇の空と、時折吹く風のおかげか外は快適で、適度な外出日和である。
あれだけ沈んでいた心も過ごしやすい初夏の陽気の下では、ああ、これはいい気分転換だな、と冷たい風が通り抜けてゆくばかりだった虚無感を忘れさせてくれるようだった。
近くの書店は家から徒歩二十分ほど。散歩もかねて程よい距離だ。
やはり外出してよかった。ほんの少しは胸が晴れる心地がする。燈瑚はほっと安堵するように薄い雲の向こうの青空を見上げた。
昨日のことは忘れよう。きれいさっぱり。大学のテストだってそう遠くはないのだから、しっかり勉強に集中して、自分は自分の為すべきことをしよう。
……そうやって余所見をしながら歩いているのがいけなかった。注意力が散っていた彼女は、眼前に迫った曲がり角の向こうからやってきた人と真正面からぶつかった。
お互いに少しよろけただけで済んだが、
「あっ、すみません」
と、あわてて下げた頭を持ち上げた刹那、燈瑚の表情が一気に凍りついた。
「あ、あなたは……!」
ぶつかった相手とは、菅谷一郎その人であった。今日は制服ではなく、七分袖の白いTシャツにデニムのパンツを合わせたシンプルなファッションで身を固めていたが、顔にべたべたと張り付けた絆創膏のせいか、さわやかな身なりに反して《不良少年》の印象は少しも拭えなかった。
「お前、千束の……」
昨日の今日である。流石の菅谷も驚いたように目を剥いたまま、その場に立ち尽くした。
二人は刹那、無言でお互いを見つめ合っていたが、一瞬先に我に返った燈瑚が顔を真っ青ににしながら踵を返すと、
「あ、ま、待てよ」
菅谷は咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
掴まれた場所から死のような冷たい暗黒が這い上がってくるようだった。燈瑚は一瞬にして全身を粟立たせ、水中から上がったみたいにヒーッと細く息をのんだ。
「は、は、離してください!」
「昨日はすまなかった」
嫌がる言葉をかき消すような謝罪に、燈瑚は思わず抵抗を緩める。
聞き間違いかと思った。
その瞬間、彼の手から流れ込んでくる冷たい感情も、あの深淵のさらに奥底を彷彿とさせた暗黒も、嘘のように菅谷の周囲から霧散した。
まるで意味がわからなかった。兄のふりをして騙そうとしていたのだから、責められこそすれ、謝られる心当たりは薄かったのだが……。
「お、女の子に、乱暴して……」
「まあ、それで……。わざわざどうも……」
謝罪の返事としてはあまり適切でない言葉で応じながら、つい会釈までしてしまう始末。
「今日は、青木はいないのか?」
菅谷は燈瑚の腕をそっと離して、辺りを見回した。
「ええ」
燈瑚は一瞬、今更ながら兄の振りをすべきかと逡巡したが、今しがた女の子と言われたばかりなので、とっくに正体はバレているのだと悟る。
「そうか」と少し残念そうに呟いた菅谷は、少し迷ったような素振りを見せたが、
「今、時間、少し大丈夫か?」
と、窺うように言った。
▼
燈瑚と菅谷は、近くにあったコーヒーショップへ足を運んだ。
周りには、読書をしながらコーヒーを飲む客や、タブレットに小型のキーボードを接続させて仕事をする社会人の姿などが目についた。休日だというのに朝から仕事に向き合わなくてはならない彼らに同情が禁じ得ない心地で、オーダーした飲み物を手にした燈瑚たちは、窓際の席に腰を落ち着けた。
店内にはサックスの奏でるジャズがBGMとして流れ、香り立つビターな豆の匂いとマッチした雰囲気を演出する。
正面に座った菅谷を見て、燈瑚は不思議な気持ちになった。
昨日初めて会い、かつその出会いは決して友好的なものでなかったというのに、翌日には同じテーブルで冷たい飲み物をお供に向かい合っているというのは、些か奇妙な心境であった。
「いきなりで申し訳ないんだが」と、カフェオレを一口飲んだ菅谷が切り出す。
「《サトル》って名前に心当たりはあるか?」
「《サトル》?」
「ああ」
「どうしてですか?」
「まずはあるかないか答えてくれ」
まさしく、藪から棒にといった感じだった。燈瑚はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、「いいえ、ないです。私は元々友人も少ないし、ましてや男友達なんて」と、首を横に振る。
菅谷は、期待が外れたとばかりに「そうか」と脱力した。
「千束香の口からその名前が出たこともないか?」
「ええ。記憶の限りでは」
「……うーん」
菅谷は「参ったな」と呟きながら、前髪をかきあげた。
何やら事態に窮しているような雰囲気である。
昨日の初対面時とは打って変わった菅谷の印象に、燈瑚は多少戸惑いつつも訊ねる。
「その《サトル》さんがどうかしたのですか?」
ストローに口をつけようとしていた彼は、水滴のびっしりついたグラスを再びテーブルにおいて、暫く考え込むように視線を彷徨わせたかと思うと、「実はな」と重く口を開いた。
「千束一派にやられたとばかり思っていた舎弟と昨日会ってきた。奴は酷い怪我だったもんで、数日間たまり場にも来なかったんだが、相手から「今から会えませんか」という連絡を受けて、その時の詳しい話を聞くためにそいつの家に行った。話を聞いてみると、そいつは《サトル》という名前を知りませんか、と――」
「ちょっと待ってください!」
燈瑚は、彼の言葉の冒頭からの違和感に気が付いて、思わず声を荒げた。店内の客たちが数名、ちらりとこちらに視線を向けたが、燈瑚は気にせず続ける。
「千束一派にやられたとばかり思っていた俺の舎弟、と言いましたか?」
「ああ……」
菅谷は、それがどうかしたか、と言わんばかりの顔だ。
千束一派にやられた……? おかしい。そんな話、青木からは一言も聞いていない。今回の件は、菅谷一派が香の舎弟を一方的に襲ったのが原因ではなかったのか?
菅谷の口ぶりでは、まるで
「あなたのチームも、舎弟さんが襲われたのですか?」
「あなたのチームも……って、どういうことだ」
菅谷は眉をひそめて訊ねた。
「……実は」
燈瑚は、青木たちから聞いた話を、そっくりそのまま菅谷に語って聞かせた。
「互いのチームの一人が、同時期に謎の集団に襲われていたということか」
菅谷が独り言のように呟きながら頷く。
「俺は千束一派に奇襲をかけろだなんて、舎弟に命じたことはない。今回だってそうだ」
「では、兄貴の舎弟を襲った犯人は別にいると……?」
燈瑚は新たなチームの存在の介入に、頭がこんがらがりそうだった。
何故その謎のチームは、両チームの一人をリンチのような形で襲撃したのだろう。その目的は一体何なのだろう。燈瑚はその疑問を全て口に出してみたけれど、テーブルの一点を見つめたまま何事かを考えている菅谷の耳には届かなかったようだ。
「《サトル》……」
菅谷がぽつりと呟く。
「やはり、サトルという名前にヒントがあるのかもな」
「ああ、その《サトル》さんについて何かわかることが?」
「いや、大したことはわからん。襲撃を受けた舎弟が、多勢に無勢で敗北を喫した。そして気を失う直前に、奴らの中の一人が、誰かに向かって《サトルさん》と呼びかけたらしい。お前のところの舎弟を襲ったのもそいつらかもしれないぜ」
彼の言葉が本当ならば、両チームは互いに敵を同じくした被害者ということになる。
「……青木さんの話を聞く限り、私の兄貴が
燈瑚が兄貴を擁護するように言うと、菅谷は「わかっている」というように強く頷いた。
「お前の発言は信じよう。一朝一夕でチームのボスになろうなんて考える甘っちょろいお前に、嘘がつけるとも思えないからな。見るからに正直者だし、嘘がつければ、昨日だって俺に正体がバレるなんてこと、なかっただろう。それに、お前の兄貴がそういうとこ真面目なの、俺も知ってる」
菅谷が意地の悪い笑みを浮かべていった。
替え玉の件についてはもうあまり触れてほしくなかったので、余計なことは言わず「はい」とだけ頷いておく。
「サトルという男について、千束香からの意見を聞きたいんだが、奴は今どうしてる? すぐに呼び出せるか?」
「――それが、ですねぇ……」
勝手に、入院していることを打ち明けていいものか大いに迷ったが、どちらにせよ、《サトル》という男の存在について遅かれ早かれ菅谷は直接香に聞きに行くつもりだったのだろうから、いずれ明るみになる真実は早めに告げておいても問題ないということで、燈瑚は兄の近況を打ち明けた。
「入院?」
と、やや声を高くして身を乗り出す菅谷。
「……通りで、見かけないわけだ」
「あ、あの……このこと、一応周りには黙っていてもらえますか? 私が発信源だと知られると……少し、バツが悪いものですから」
菅谷は、あっさりと「ああ、勿論だ」と頷いた。
燈瑚としては、自分が香入院という事実の密告者であることを他言しないでいてくれるだけで大助かりだった。けれど菅谷の律義さはそれだけに留まらず、次の瞬間彼の口から放たれた言葉に、燈瑚は一刹那、言葉を失わないではいられなかった。
「悪かったな、大事な兄貴にひでぇことして」
「え……」
――この少年のどこが冷血なものか。燈瑚の目から見る菅谷一郎という少年は、青木らから聞いていた菅谷一郎像と大きく異なっている。相手が
昨日見えていたあの暗黒の正体など、もうどうでもよくなるほどに、彼女の菅谷を見る目ががらりと変わったのはこの時である。
「いえ、いいんです。痛い目見ないと、
燈瑚はやや素っ気無く言った。
菅谷は何か言いたそうに口を噤んだが、胸の内に思い浮かんだ言葉を飲み込んで、事件の話題に軌道を修正した。
「俺らは長らく、千束一派としか拳を交えて来なかった。先の一件に第三のチームが絡んでいるとなると、そいつらには俺らのフィールドを荒らしてくれた落とし前をつけてもらわないとな」
「では、兄貴のチームと菅谷さんたちが争う理由はなくなったわけですね」
「今回の件に限っては、だ。いずれは俺らも決着をつけねばならん」
「そうですか」
燈瑚は、ホッとしたように言った。火花を散らす両者のに割り込んだ自分の罪が、ほんの少し軽くなったような気がしたからだ。
そんなことですべての罪が清算されることはないとわかっていても、胸の内の蟠りは湯をかけられた氷のように気持ちよく溶けてゆく。
「お前ンところはどうなんだ? それによっちゃ、この一件の前進は滞ることになるな」
「と、言いますのは?」
「お前の兄貴も舎弟がやられてんだろ? そもそもの発端は、互いのチームの一員が襲われたのが始まりだ。そのタイミングが同時期だったから、俺も千束も、相手チームの仕業に違いない、と思い込んじまったのさ。お前ンとこの襲われた奴はどうしてる?」
「わかりません。青木さんからはまだ何も聞いていなかったものですから」
燈瑚はストローをくるくる回しながら言った。グラスの中のロイヤルミルクティーが大きく波打った。
菅谷は背もたれに深く背中を預けてしばしの間黙り込んだが、突然、思い出したように気楽な口調で、
「で、お前、なんで兄貴になりきって俺を騙そうだなんて考えたんだ? そんなに兄貴の仇が討ちたかったのか?」と言った。
ストローをかき混ぜていた燈瑚の手がピタリと止まる。
再び頭を擡げた罪悪感に、冷や汗が噴き出すのを堪えられるほど、人間の身体というものは都合よくできてはいない。
「いえ、まあ、いろいろありまして」
まさか好きな男の子の言葉に感化されて、とは言えない。己がしでかした悔やむほどの浅はかな行動のきっかけは、永遠にこの胸の内にしまいこんでおこう、と今この場で決意する。
しかし、ここへきて両チームの間にあった疑惑が解消した。
そんな二人の頭に浮上した一つの考えは、こうである。
第三のチームの存在。
二人はその考えを議題とし、話を展開させる。
「両チームの一員を襲った人たちの目的は何でしょう?」
「皆目見当もつかないな」
「第三のチームについて、何か心当たりは?」
「この辺には俺らの他にもいくつかチームがあるが、俺らに楯突こうなんて集団はいないと思うぜ」
「何故です?」
「俺らの他のチームは、みんなそれぞれがどちらかのチームの下についているからだ。奴ら、揃いも揃って素行の悪い奴らばっかりだがな、上には忠実な奴らばかりだ。俺と千束の争いに横槍を入れるなんて真似はしないさ」
「そうですか……」
議論が滞るなり、二人の口から同時にため息が洩れた。
「……ところでお前、名前なんつったっけ?」
唐突な自己紹介を要求され、燈瑚はまだ自分がろくに名乗っていないことに気がつく。
「千束燈瑚です。旧漢字体の《灯》に、珊瑚礁の瑚。千速香の双子の妹です」
「燈瑚、ね。俺は菅谷一郎。オーソドックスな一郎だ。よろしく」
その後、菅谷が導き出したのは両チームで冷静な話し合いが必要だという結論だ。しばらくは新しい展開を望めそうにないな、と互いにため息をついたところで彼女らのグラスは、溶けかけた氷越しに透明の底を見せた。
「……じゃあ、俺ァそろそろ行くわ。悪いな、付き合わせちまって。お前、どこか行くの?」
「本屋さんに……。あ、待ってください」
席を立って店を出て行こうとする菅谷を、燈瑚は引き止めた。
「あの、これからどうするおつもりですか?」
「どうする……って?」
「この事件を、どうやって片付けますか?」
「……」
菅谷は考え込むように瞬きを繰り返した後、にやりと口角を吊り上げて、
「もう少し、俺に付き合うか?」と言った。
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