Ep.10 後悔と罪悪感

 青木と燈瑚は千束家に駆け込んだ。

 娘がどたばたと慌ただしく帰宅したにも関わず、リビングから誰も出てこないのを見ると、母はまだ帰ってきていないようだ。この時間ならもう病院は出ているだろうから、何か別の用事でも済ませに行ったのかもしれない。


 玄関の靴箱の上に置かれたフレグランスは、顔を青くして帰還した家主にほんの少しでも早く安堵感を提供すべく強く香り立つも、お世辞にも穏やかとは形容しがたい二人への雰囲気作りも虚しく、妙にぴりついた空気が漂い始める。


 菅谷と相対した時とはまた違った不安が彼女を襲った。すぐ傍にいる青木の顔を見るのが怖かった。


 玄関の鍵を閉めた青木は、燈瑚を振り返って、

「大丈夫?」と首を傾げた。菅谷へ向かって放った鋭利な声はすっかりなりを潜めている。

「ええ。ありがとうございました」

 頷きながら彼女は、一筋の血が滴る拳を胸にそっと抱いた。

「その怪我は?」

「……さっき、咄嗟に菅谷を殴ってしまって、その時、歯に当たって切れたみたいです」

 燈瑚は俯いたまま言う。下を向いた目線がきょどきょどと不審げに動くのを、自分の意志でどうにもできないほど、今の燈瑚の心境は不安定だった。


 それでも、自分たちの間に落ちてくる重苦しい沈黙に耐えきれず、

「で、でも青木さん、どうして戻ってきた、んですか?」と、所々言葉をつまずかせながら訊ねた。


「いや、たいした理由じゃない。一応、君の連絡先も聞いておこうと思ったんだ」

「そうですか……」

 それきり、二人の間には静寂が訪れた。

 必死に考えを巡らせて、滞在しつつある沈黙の撃退方法を考えるも、悲しいかな、こういう時に限って気の利いた話題が思いつかないものである。その沈黙たるや、家の前を、原付バイクが走り去る音がやけに大きく聞こえるほどの分厚さだ。


 もうこの身に危険はない。それなのに、自分の家の匂いに安心する暇もないくらい、燈瑚の胸の内にはある感情が広がってゆく。恐怖でもない、安堵でもない。そんな感情を押しのけて燈瑚の心を苦しめたのは、青木に対する深い罪悪感だった。


 替え玉作戦の決行を目の前にしてその正体が見破られてしまった。まだ燈瑚のなかで、兄貴の代わりを務めるという心の準備ができていなかったタイミングである。目ざとい男だ。一体、どこで勘付いたのだろう。


 恐ろしい。今もまだ、あの暗黒のような双眸が、己を見つめているような気がして、燈瑚は背筋が寒くなるのを感じた。

 微かに身体を震わす彼女を見て、青木はそっと微笑み、「もう大丈夫だから」と、その肩に優しく手を置いた。

 温かいはずの彼の手が、何故か冷たく感じる。

 優しい言葉の裏で青木は、失敗をしでかした彼女を責めているのではないか……? 燈瑚の頭の中で懸念が増し、今すぐこの場で叫びだしたくなるような恐怖に囚われた。


 罪悪感が巨大なナイフとなって襲い掛かってくるようだ。この胸を貫き、引き裂き、噴き出した血潮が辺り一面を見にくく汚そうとも、それは燈瑚の胸だけをただひたすらに抉り続けた。

 この身に傷を受けるよりはるかに苦痛な精神の痛みは、己の浅はかな行動が招いた代償だ。


 この瞬間だった。彼女が、青木たちの前での異常な発言や行動の連発に違和感を抱いたのは。

 視野が狭くなったことで冷静さを欠いていたことに今になって気が付き、たちまち襲い来る後悔に身悶えせずにはおられず、過去の自分のところに行って、自分をひっぱたいてやりたい気分になった。

 ……そんなことは到底無理だとわかってても、《後悔する》ということは、まさしくこういうことなのだ。

 

「あの」と、燈瑚は上目遣いに青木を見やり、

「すみませんでした。ご迷惑をおかけして」と深く頭を下げた。


 青木は、無表情のまま彼女を見下ろしている。責めているわけではないのだろうが、その顔はなんだか少し彼女に対して、取り付く島もないといった感じが多少見て取れた。


「いや……俺が悪かった。君がちゃんと家に入るまで見届けるべきだった。僕の責任だ。本当にごめん」

 彼に落ち度は全くないのに、本当に申し訳ないと思っている口ぶりに、罪悪感のナイフは、またしても彼女の胸を深く抉った。

 彼女の足元には見えない血溜まりが出来、そこに映った己の貧相な顔がこちらを見返して、今にも嬌声を上げそうに見えた。


 油断していた自分に非があったにもかかわらず、こうも彼から一方的な謝罪を突き通されては、その誠意とは裏腹に御しがたい苦痛が彼女を戒めた。

 だが、青木が次のように続けたことによって、その苦痛は最大限に達することとなる。


「やっぱり君は、この件から手を引くべきだと思う」


 そう言われるだろうな、とは予想できていた。自分はただの足手まといだ。

 北山の言葉に現を抜かして、真剣な青木たちの戦いに水を差した。邪魔をしたのは他でもない、己自身だ。

 真剣な彼らに対して、自分がいかに無神経だったか、冷静になってようやく理解する。

 何より、青木に迷惑をかけてしまったという動かしがたい事実が、燈瑚に身を引き裂くような苦痛を与えた。


 ――きっと、私は青木さんのことが好きだったんだわ。不誠実この上ないけれど、私は彼の優しさや頼りがいのあるところに惹かれていたのに違いないわ……。


 北山少年と青木青年、二人の男性に抱いた恋慕の情に、燈瑚は己の軽薄さを見た気がした。

 最低だ、と心の中で自分を責める声がする。

 最低だ、最低だ、この最低女。

 紛れもない自分の声が急き立てるように怒鳴り散らす。

 やがてその声が燈瑚の聴覚をも支配すると、彼女は足ががくがくしてくるのをどうすることもできなかった。


 込み上げてくる涙を堪えるように強く唇を噛んで、燈瑚は、

「ええ、そうですね……」とだけ言った。


 それ以降、この二人の間を、先ほどを上回る程の厳しい静寂が支配した。

 青木はそれっきり何も言わなかったし、燈瑚もまたこれ以上、図々しく意見できる心境ではなかった。


「それじゃあ」

 と、青木が踵を返して、玄関扉を開ける。

「……すみませんでした」


 燈瑚は彼の視線を避けるようにして小さく頭を下げた。ありがとうとも、さようならとも言えなかった。青木は表情をなくして、家の外へと出て行った。

 扉が無情な音を響かせて閉じる。

 暫くの間その場から一歩も動けぬまま、彼女は穿き潰した自分のスニーカーの爪先を見つめていた。

 胸の内を謝罪の言葉が埋め尽くして、感じたことのない後悔に気が狂いそうになった。

 やがて、外の西日が家の廊下を赤く染め上げる頃、目の淵で揺れていた涙が零れ落ち、燈瑚はそのまましゃがみ込んで、声を殺して泣いた。

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