Ep.9 菅谷一郎

「菅谷、一郎……!」

 まるで幽霊のようにひやりと近付いてきたその男に、燈瑚は慄然りつぜんとした。全身の産毛だけじゃない、髪の毛までもが逆立つのが自分でもわかるほど、体を駆け抜けた寒気は尋常ではなかった。


 いつから奴はここにいた? 後を付けられていた? 逃げ切ったと思って油断したのがいけなかったか……。

 他に仲間はいるのだろうか、と思い、即座に周囲を見回してみるも、それらしい気配は感じられない。

 どうやら彼は一人でここへ来たようだが、だからと言って安心はできない。

 相手に隙を見せた挙句、あっさりと背後バックをとられてしまった愚かさに、心臓はより一層の負担を受けてどくどくと脈打つ。

 この男の放つ得体のしれない不気味な雰囲気に呑まれてしまいそうな恐怖から、己を律し続けるのは困難を喫した。


 燈瑚は首を後ろにひねったまま、しかし恐怖に慄いた視線は菅谷一郎を捕捉することを拒み、虚空を睨みつける。

 無言を強いられたまま、永遠とも思われる刹那の中、燈瑚の服の中は冷たい汗に濡れ、着ているTシャツを重く濡らした。


「お前、随分元気そうだな? あんときの怪我が一つも見当たらないぜ。もう治っちまったのか? どこの病院行ったんだよ? 教えろよ」


 囁くような声すらも氷めいた響きを有して、菅谷の言葉は燈瑚の背筋を冷やす。まるで細いナイフの先で腰を撫でられるような薄ら寒い感覚に、彼女の姿勢は自然と真っ直ぐに伸びた。


「菅谷、どうしてお前がここに……?」

 咄嗟に兄の言葉を真似て問うと、彼は小さく笑声えごえを漏らしながら、

「質問をしているのは俺だ。お前は俺の質問をいくつ保留にすれば気が済むんだ」

 燈瑚は渇いた喉を上下させ、「何のことだ?」と白を切る。


……仮でそう呼ばせてもらうとする。――お前、誰だ?」


 いきなり核心を突く問いかけに、燈瑚の頭の中は焦燥の炎に焼かれた。こうもはっきりと質問の方向性を絞られては、うまく誤魔化す手段は限られてしまう。――否、彼女にこの問いを華麗にかわす術などないに等しい。

 それでも、冷静とは程遠い頭で考えた挙句、せいぜい時間稼ぎにしかならないような言葉で凌ぐ。


「質問の意味がわからないな。もっと、具体的に言ってもらおうか」


 今の兄がこのような喋り方をするかどうかわからないながらも、替え玉作戦遂行に際して、この兄と同じ顔を役立てなくてはならない。


「お前が千束香でないことはもうわかってるんだぜ。油断したな。あいつの代わりを務めるなら、いつ如何なるときも千束香でいないと駄目だろ? 隣に青木瞳がいたから安心してたのか? 俺の尾行にも気が付かないで」

「……」


 返す言葉も無かった。これは隙を見せた自分の責任である。

 燈瑚は焦燥で震える全身を律するように両手を握り締めると、「お前が何を言っているかわからない。俺が、なんだって?」と、悪あがきよろしく惚け続ける。……悲しいかな、燈瑚は直面した危機に対して、哀れなほどに不利な状況にあった。


 菅谷は余裕綽々といった風情で息を吐くように笑うと、もったいぶるような足取りで正面に回りこみ、

「しらばくれるのはやめろよ。さっきから一ミリも話が進まないだろ。バレてないとでも思ってるのか? お前は、千束香じゃない。さっきから言ってるだろ」


 真正面から見る黒い瞳は、灼熱の陽光さえ飲み込む深い沼の底を思わせた。

 子どものころ、布団の中の暗黒を恐れたことがあった。まるで、気味の悪い異世界への入り口めいた暗闇に包まれているような気分だったのだ。

 成長した今、燈瑚はあの頃の恐れを、この少年の双眸に見出していた。


 燈瑚は無意識のうちに喉を上下させ、

「お前、頭でも打ったのか? 自分が可笑しなことを言っているのが理解できていないようだな」と言った。

 このまま兄・香のふりを続けなくてはならないという重圧に、全身が哀れなほどに強張ってゆく。


 そんな彼女を追い詰めるかのように菅谷一郎は、百八十はあろうかという長身で威圧的に燈瑚を見下ろす。鋭い眼光がレーザービームのように彼女を射抜き、風に靡く鳶色のざんばら髪が、まるで怒気に揺らめいているような錯覚すら与えた。


「その顔、千束香と瓜二つだ。一卵性か? 兄貴か弟か、どっちだ」

「……え?」


 ――兄貴か、弟……?

 燈瑚は頭の中で、彼の言葉を反芻した。

 菅谷の言葉の意味を噛み締めて考えると、さして時間を食う前に一つの答えに辿りつく。

 まさか、私、男だと思われてる? そんなことはたいして頭を使わずともわかる。まさしく、目の前にいる地獄の住人を彷彿とさせる暗黒少年は、己を欺かんと画策する彼女を、男性と勘違いしているらしかった。

 燈瑚の頬に一筋の汗が伝った。なんだか話がややこしくなりそうだぞ、とキャパシティーオーバー目前の脳が警戒心を露にする。


なんだろ? 双子の」

「……」


 彼女は逡巡した。

 本当のことは言えない。言ってしまえば、青木たちを裏切ることになる。けれど、この千束燈瑚、堂々と嘘をつける人間ではない。嘘をつこうと思えば思うほど、言葉に薄っぺらさが塗り重ねられ、なんとも見苦しい結果を生み出すばかりなのである。


 悩んだ末、燈瑚は黙り込むという選択をした。それが正しい判断でないと理解していながらも、己の発言に絶対の自信を持っている菅谷を前にして、それを打ち負かすことが出来る言葉が存在するとは思えなかった。


 歯切れの悪い態度に苛立った菅谷は、優美ともいえる華奢な指先を伸ばして、彼女のポロシャツの胸倉を掴み上げた。

 あまりにも荒々しい行動に、燈瑚は目を白黒させるしかなかった。


「お前、青木らと一緒に何をたくらんでる? 言え」


 菅谷は強い言葉と共に、彼女を己の鼻先に引き寄せた。

 ああ、この人、コンタクトをしているんだな、と彼の瞳に張り付く透明の円を見つめながら、いやにどうでもいいことを考えていた。逃げ出せない身体より先に、思考の方が他所へと逃げ出す準備をしている。

 このまま意識だけでも遠くへ逃げおおせることができたなら、どれほど幸せだろうか……そこまで考えたところで、すぐ近くで鳴った隠す気もないような大きな舌打ちが彼女を我に返らせた。

 その一瞬の沈黙すら、菅谷は忌々しげに追い払う。


「言え、と言ってんだぜ、俺は」

 まるで胸を抉られるような威圧感に、後がない燈瑚は果敢にも立ち向かった。

「俺は……俺だ。千束香だ」

 それは小さな声だった。周囲を取り巻く重々しい沈黙は、彼女のその言葉をしっかりと受け止めて、次のような言葉を吐かせた。


「お互い本調子でないんだから、今ここで焦って決着をつけなくてもいいだろ? 舎弟あいつらだって、お前らに吠え面かかせてやりたくてうずうずしてんだ。ここで勝手に決着をつける気は、俺にはない」


 その瞳は恐怖に震えていた。けれど、心はまた別の意味で震えあがっていた。熱く鼓動した千束燈瑚の心は、己に訪れた危機を打開すべく、立ち上がったのである。

 大きく動く彼女の心とは裏腹に、菅谷は表情一つ変えず、低く喉で笑うと、

「あくまで俺の命令には従わないつもりか」

 と吐息に声を乗せるように言う。耳朶に滑り込む声音は、滴るような毒薬じみていて、今すぐにでも耳を塞ぎたい気分にさせた。


 俺の命令、など、言葉のセンスはやけに傲慢な印象を受ける。己の舎弟たちに対しても、このように情の欠片すらない冷酷な言葉を突き付けるのだろうか。

 恐ろしいことだ。己の上に立つ人間がこんなにも危険な香りのする人間であっても、その下に着く人間は何とも思わないのか。


 菅谷の発言や物腰を見ていると、それはどう考えても他人を遠ざけるような態度にしか思えない。一人になりたいのなら舎弟など率いずに独りでいればいい。

 まるで、目に見えない鎖で舎弟たちを拘束しているみたいだ。――その目的までは察しがたいが、燈瑚はそう思わずにはいられなかった。


「いいよ。確かにお前の言う通りだ。住宅街こんなところでは暴れることも出来ないし」

「……ああ、そうだろ。だから今日はもう帰ったらどうだ」


 燈瑚は大きく頷いた。なんとか危機は脱した、と安堵したのも束の間、ちら、と見えた菅谷の目には、水面みなもの底で揺らめく炎のような闘争心が、彼女を前にして轟々と燃え滾っているではないか。


 まずい! と解けかけた警戒心が燈瑚の身を守るより一瞬早く、菅谷はすぐ傍の路地に彼女を引きずり込む。

 隣人の三階建ての家の影で陽光が遮断されたそこでは、彼の顔は薄めた墨汁のような薄気味の悪い影に塗りつぶされて見えた。


「俺の手を煩わせるな。お前は誰だ。千束香はどこにいる」

 乱暴に塀に押し付けられ、肺の空気が一気に喉から込み上げる。それと同時に、燈瑚の頭の中から言語という言語が零れ落ちでもしたかのように、効果的な反論の言葉など一切といって思いつきはしなかなかった。


「無関係なお前を痛めつけるつもりはない。ただ、このまま白を切り通すつもりなら、話は別だぜ」

「……だから、俺は――」

 ようやっと反応できた言葉さえ、己の意思を伝えるには些か脆弱すぎた。

 無意味な言い訳は聞きたくないとばかりに、菅谷は噛みつくような勢いで続ける。


「千束香は俺のことを《お前》とは呼ばない。いつもあいつは、馬鹿にしたように《てめえ》呼ばわりだぜ」

「……!」

 迂闊だったと言う他ない。兄貴があんたのことをなんて呼んでるかなんて知るかよ、と八つ当たりじみたことを考える。

 これ以上、奴を煙に巻くことは不可能のようだ。

 どうする……どうする! 燈瑚は切迫した思考に突き動かされ、「離せ!」と叫ぶと同時に、目の前にある傷だらけの顔を思い切り殴りつけた。その際、拳が菅谷の歯にぶつかり、皮膚が裂けて血が滲み出るが、その痛みには全く気が付かなかった。


 彼の唇に新たな傷が出来、そこからじわりと鮮血が開花する。薄闇に塗りつぶされた顔の中で、それは毒々しい禍花まがばなのようだ。

 菅谷は、いやに真っ赤な舌で傷口を舐めると、喉を鳴らすように笑って、ミントの香りがする息を燈瑚に吹きかけた。


「やはりお前は千束香じゃねえ。あいつはこんなに非力じゃないぜ」


 見た者を凍てつかせるような瞳で睥睨へいげいする菅谷は、今にも噛み付かん勢いで彼女の服の胸元を一層強く握った。


「お前、よっぽど怖い思いをしたいようだな。強情もほどほどにしておけよ。一生立ち直れなくなっても知らないからな」


 その時である。ブツ。何かが千切れる音が、二人の間に響いた。続いて、小さな何かがコンクリートの地面に落ちる音。

 二人はその音の正体を見下ろした。白いボタンだった。燈瑚のポロシャツについていたものが取れてしまったようだ。

 ボタンは凹凸の激しい地面の上を転がり、しばらく行ったところで不意に体勢を崩して大人しくなった。


「――お前」

 菅谷が息を呑むように言った。同時に、胸倉を掴む力が徐々に弱まってゆく。

 燈瑚は彼の態度の急変が示す意味を理解しかね、上目遣いに彼の表情を窺い見る。……その大きく見開かれた目は、一心に燈瑚の胸元へと下りていて――。

 燈瑚は彼の視線の先を追い、カッと顔を真っ赤にした。

 ボタンが取れてはだけた胸元から、白いフリルのあしらわれた色味の少ない下着がちらりと覗いていたのだ。

 押し寄せた羞恥の熱が全身を駆け巡る。

 一生懸命に張った虚勢もたちどころに吹っ飛び、束の間、燈瑚は己の為すべきことを忘れ、千束香の仮面を顔から滑り落とす。


「あ、あ……」

 予想だにしなかった屈辱に声すら失っていたその時。

「燈瑚ちゃん!」

 路地の外から誰かが飛び込んできた。大きく息を乱した青木だった。思わずといった様子で燈瑚の名前を叫ぶと、すぐに見つけ出したその姿に目を剥く。

 ライバルチームのボスに追い詰められた危機的状況を察し、青木の警戒心はより一層鋭くなった。


「青木さん……」

 燈瑚は安堵して、青木の名前を呟いた。


「菅谷、お前、何やってンだ」

 静かな、地を這うような声が、青木の喉から毒蛇のように這い出てくる。今まで一度も聞いたためしのない喧嘩腰の声音に、燈瑚はごくりと唾を飲み込んだ。


 菅谷は怯んだ風でもなく、そっと燈瑚から離れた。何が楽しいのか、ニヤと笑った心の読めぬ顔で青木を見つめている。

 青木は鬼のような恐ろしい表情でそのにやけ顔を睨みつけた。

 妙な笑顔を浮かべる男と、それとは対照的に底の深い怒りの感情を露にした男。この奇異な光景の中心で、燈瑚はぞくりと寒気に襲われる。


 二人の男が視線で剣戟けんげきを繰り広げるように、その場は《無》のような沈黙が支配した。


「……ボス」

 青木は目の前の男をにらみつけたまま、燈瑚に傍に来るよう促す。

 彼女は腰が引けたまま青木の傍へ行き、その背後へ身を隠した。

 なんだ、この二人の間で交わされる無言のやり取りは。一触即発。いつ爆発するかわからない爆弾を抱え込んでいる気分だ。

 菅谷は歯並びのいいのを見せびらかすように笑みを深めると、

「あんたンとこのボスは、っていうのな」と言った。

「……!」

 青木はぐっと唇を噛み締めると、

「行こう」

 燈瑚の手を引いて、敵対する相手にいとも容易く背中を向けたかと思うと、有無を言わさぬ風情で、すたすたとその場を後にした。


 菅谷一郎は、遠退いてゆく二人の足音にいつまでも耳を澄ませ、辺りがすっかり静寂に包まれた頃、青い空を見上げながらぽつりと呟いた。


「千束トウコ――あいつ、女の子だったのか」

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