Ep.6 女ボスへの立候補

 一限目が終わって北山と別れた燈瑚は、彼に言われた一言を何度も何度も反芻しながら、二限目の行われる小教室に向かっていた。


 ――兄貴のため、か……。

 ろくでなしの兄のために自分ができることなどあろうか? はじめはそんな風に考えていたが、彼女は思い出す。昨日、河原でした彼らとの会話を。


「替え玉……」

 それくらいしか思いつかない。同じ顔をした兄貴の代わりにチームのボスになって、相手チームをあざむく。

 それがチームの、ひいては兄貴の助けになる。

 ……いや、さすがにそれは、自分の力の及ぶ範疇を超えている。いくら外見がそっくりでも、彼らのしようとしていることは、見掛け倒しでどうにかなることではないのだ。

 

「……」

 講義の内容など、少しも頭に入ってこなかった。

 ひどい妹だと思われても仕方ないだろう。彼女がこうして頭を悩ませているのは、兄のためというよりも、きょうだいの話題を通じて北山との友好関係がもっと深いものになればいいな、という下心があったからだ。


 隣の席で一緒に授業を受けられただけでも幸せなのに、今日はお互いの家族の話もできた。

 彼の、弟との一件を知っている人はどれくらいいるのだろう。彼はしゃべるのも聞くのも上手だが、先ほどのような話を、誰彼構わずいろんな人にするほど開放的な人柄ではない。

 もしかしたら、かの至高な兄弟愛の物語を知っているのは、この大学では私だけかもしれない。

 そう思うと、彼女の心は深い幸福感に満ちたのだった。


 午前中で本日の講義が終わり、燈瑚は空腹を抱えながら校門を出た。

 彼女と入れ違いに構内へ入ってゆく学生たちはどことなく気だるげな様子。もうお昼を回っているというのに、揃いも揃って眠たそうである。


 とっくに眠気から解放されていた燈瑚は、途中、喫茶店でランチでもしてから帰宅しようと考えていた。駅からほど近い住宅街の一角にある隠れ家的な雰囲気の個人経営のカフェは、彼女のお気に入りの一軒で、こうして講義が終わった後に立ち寄ることが多い。

 それにここの大学生たちは、駅前のを提供する店の方に流れていきがちなので、苦手な友人たちと鉢合わせをする確率は極めて低いのも贔屓にしている理由だった。


 店主の若い女性とはもはや顔馴染みで、この間、旦那と海外旅行に行った、と言って、かわいい缶詰に入ったチョコレート菓子をもらった。


 ランチでいつも注文するのは、卵を二つ使った贅沢なふわとろオムライス。ソースはデミグラスでオーダーし、選べる付属のデザートは、濃厚なチョコレートを閉じ込めたフォンダンショコラ。

 ああ、考えただけで腹の虫が騒ぎ出す。彼女の足は自然と速度を上げた。

 だが、そんな燈瑚の歩みがぴたりと止まった。大学を出たところで、見覚えのある立ち姿を見つけたのだ。


「……青木さん?」

 恐る恐る、当てはまるであろう名前で呼びかけると、向こうも気がついたようで、塀に寄りかかるようにして立っていた青木は、気さくに手を振ってきた。

「やあ、燈瑚ちゃん、会えてよかったよ」

 燈瑚は急いで駆け寄って、

「どうしてここに。何かあったのですか?」

「や、そんな深刻なことは何も。君を迎えに来ただけだよ」

「迎えに?」

「用心しておかないと、また昨日の奴らに攫われるかもしれないだろ?」

「それでわざわざ待っていてくれたのですか?」

「わざわざ……ってことでもないけど」

 青木は照れたように首の後ろを撫でた。

「今日は午後から学校だったから、たまたま手が空いていたんだよ」

「そんな……。私のために時間を割いていただかなくても」

「ボスの妹に万が一があったら、舎弟たちに顔向けできないからな。……迷惑だったかな?」

 青木は彼女の態度が煮え切らないものだから、たちまち不安になって、遠慮がちに窺う。

「いえ、そんなことは決して」

 燈瑚は慌てて首を横に振った。

 随分律儀な人だなあ、と感服してしまう。人に親切にされて何が迷惑なものか。

 自分は今現在、人に親切にの人種だ。――否、そんな高尚なものではない。他人にとって人間なだけだ。親切心でノート・資料貸し出し屋さんをやっているほど、性根のできた人間ではない。


 燈瑚はちょこんと頭を下げて、

「是非、お願いします」

 それを聞いた青木は、安心したように破顔した。

「うん。じゃあ、行こうか」

 二人は寄り添って、駅の方へ歩き出した。

 きっと彼はこの後学校に行かなくてはならないのだろうから、カフェはまたの機会にしよう。


                 ▼


 千束家の最寄り駅で下車した二人は、彼女の家へ向かってのんびり歩いていた。

 周囲に人はまばらで、昨日の不良少年たちが襲撃してくる様子も無い。

 緊張を解いた燈瑚は、平和な日常の一時に安堵しながら、何かと話題を振ってくれる青木の言葉に耳を傾けていた。

 まるで不良集団の一員とは思えない品性にあふれる物腰は、彼のこの上ない長所なのかもしれない。香も、青木青年のこの人となりを気に入って傍に置いていたのだろうか。


 青木は燈瑚を退屈させないように様々な話を聞かせた。その殆どが、学校での話や、日々の些細な出来事など、努めて兄やチームの話にはもっていこうとはせず、周囲の人間の耳に入っても不穏ではない話を展開してくれた。


 けれど燈瑚の頭の中では、いつこのを持ち出そうかというそわそわとした緊張感に支配されていた。


 ――だからさ、千束さんもほんの少しでいいから、お兄さんに優しくしてあげてよ。


 北山の優しい声音が脳裏に蘇る。

 胸の内には、一つの決意が熱い情となって、彼女の全身にやる気を漲らせていた。彼女は早く、このやる気に満ちた心の声を、青木に聞いて欲しくてたまらなかった。


 ……後に彼女は、この時の自分の精神状態を分析した際、「異様な焦りに囚われていた」と口にした。

 どうしてこんなにも心が急いていたのか、いざこざを嫌う自分が自ら危険に飛び込む気になったのか、まるで不思議だった。

 盲目的な恋心ゆえの行動であったと、誰もが口を揃えて納得させるのだが、後の彼女は、本当にそれだけのために事件の当事者になったとは到底思えず、長らくの間頭を悩ませることとなった――。


 ちょうど彼の話が途絶えたところで、燈瑚は意を決して口を開いた。

「あの、青木さん!」

 やけに気合の入った声が出てしまい、途端に恥ずかしくなって軽く俯く。

 青木はほんの少し笑声を漏らして、「何?」と首を傾げた。

 刹那、彼女は迷った。こんな突拍子もない話を、どうやって切り出せばいいのかわからなかったのだ。


 ――私に、兄貴の替え玉をやらせてください。……などという、燈瑚の常識からは逸脱した決意を、どのような言葉にすればこの青木青年は納得してくれるのであろう。


 散々迷った挙句、燈瑚は控えめに、

「昨日の、替え玉の件なんですけど……」

 と、言い辛そうに視線を落としながら続けた。

「わ、わ、私に、兄貴の替え玉をさせてください」

「ええっ?」

 青木はギョッと目を剥いて立ち止まった。つられて、彼女も足を止める。

 彼の反応は想像の通りだった。昨日の意見を完全に翻したのだから、「いったい何を言い出すのだろう?」という青木の心情は尤もである。


 燈瑚は訪れた沈黙の重さに耐えかねて、ちらと青年の表情を窺うも、エイリアンにでも遭遇したような顔をする青木の口からは、一切の返事が返ってくる気配もない。

 この居心地の悪い静寂に臆しながらも、燈瑚は頭を働かせて次に言うべき言葉を探しあぐねた。

 その隙に、

「……何を言ってんだ、燈瑚ちゃん?」と、青木が苦笑交じりに言う。


 もはや引っ込みなどつかなくなった燈瑚は、意を決して己の心中しんちゅうを打ち明けるほかなかった。


「言葉通りの意味です。私は、兄貴のためになることをしたいのです」

「け、けど、それはいくらなんでも……」

「私を、あなたたちの拠点に連れて行ってください」

「どうして急にそんな事を……」

「……それは――」


 燈瑚は、言葉を選ぶように、ゆっくり喋りだした。

「私たち兄妹は長いことまともに会話もしていないし、外で喧嘩ばかりして、いつもどこかしら怪我をしている兄貴を避けていました。けれど、こうして兄貴が弱っていると、……何か、力になってあげたいと思ったんです。そんな私に出来ることといったら、昨日のお話しにもあった、替え玉作戦かなと思いまして」


 その言葉の裏には、誰も知る由のない不純な動機が含まれていたが、青木にはそれを悟る能力など備わっていない。ゆえにそれを、彼女の心からの決意によって生まれた言葉だと彼は受け取ったが、それよりも他に注視しなければならぬ箇所がある。

 彼女は不良でもなければ、素手の喧嘩に明け暮れたことの無い善良市民である。替え玉を引き受けたからと言って、心強い助っ人として兄貴の地位に君臨できるとは思えなかった。


 想い人から賜った言葉に報いたい。たったそれだけのために彼女は、危険な荊道へと自ずから立ち向かおうとしている。

 単純、怖いもの知らず! そう罵られたとて文句は言えぬ。それがまさしく真実なのである。彼女をおかしな決意へと後押ししたのは、想い人である北山少年の言葉なのだから。

 世の女性たちが、好きな人の好みの女性になりたいと思うように、燈瑚にとっては、まさしくそれと同じ心理なのである。


 ……そんな事情など知らぬ青木は、食ってかかるような彼女の力強い眼差しに、押しに押された。


 燈瑚は、軍の先頭に立つ指揮官のように、押せ押せとばかりに更に詰め寄った。

 ――後の燈瑚はこうも語る。他人に精神を乗っ取られでもしたかのようだ、と。まるで自分の体に第三者が乗り移って、このようなことを口走っているとしか思えなかった。

 この時の心情を思い返して、彼女は今でも頭の芯が冷えるような怖気を感じるのだという……。


「私を、千束一派の拠点へ!」

「……」

 青木は、その圧がかかればかかるほど、身を仰け反らせるほかなかった。


                ▼


 すぐ傍で川が流れる橋の下で、胡坐をかきながら数学の教科書片手にあーだこーだ言い合う三人の男子高校生たちは、自分たちの方に人の気配が近付いてくるのに気がついて、一斉に顔を上げた。

「あっ、こんにちは、青木さ――あれッ、ボス!?」

 一人が燈瑚の姿を認めて立ち上がると、他の二人も似たような反応と共に立ち上がった。

「どうしてボスがここに!」

「あんな大怪我だったのに」

「もう退院できたんですか?」

 三人は矢継ぎ早に言った。


「待てお前ら。この人はボスじゃない」

「え……?」

 青木の言葉に、三人の視線がじろじろと少女の顔面に集中した。

 燈瑚は三人の視線をしっかり受け止めて、

「はじめまして、千束燈瑚です」と名乗った。

 少し緊張した面持ちで頭を下げたの口調が、いつもより穏やかなのを耳にするや否や、彼らの目は漫画のように点になった。


「え、千束?」

「……もしかしてあんた、ボスのきょうだいか? ものすごくそっくりだな。瓜二つだ」

 物珍しげに眺められ、燈瑚はわざとらしく咳払いをする。

「双子の妹です」

「へえ、双子! 通りで」

「ボス、そんなこと一言も言ってなかったよなぁ?」

「おれも今知った」

 少年らは、口々に彼女に対する感想を述べた。

 青木はそわそわと落ち着かない様子で黙り込んでいる。

「で、ボスの妹さんがどうしてここに?」

 舎弟の一人が青木に訊ねる。

「ええと……」

 青木が、この事態をどう説明しようか頭を悩ませているうちに、燈瑚が会話に割り込む。

「今、あなたたちのチームが陥っている状況を教えてくださいませんか?」

「状況……ですか」

 三人のうちの一人、素肌に学ランを着た奇抜なファッションの少年が、ちらりと青木の方を見る。

「……彼女がそう望んでいる。お前たちの口から語ってやってくれるか」

 青木は仕方がない、というように、舎弟に命じた。

「は、はいっス!」

 少年が大きく頷くと、学ランの三人は一つひとつ丁寧に話し始めた。昨日、青木から聞いた話も交えて、その内容を要約すると、こうだ。


 三日前、兄・香の舎弟の一人が、菅谷一派と思われる数人に襲われた。

 香はそれを、菅谷からの宣戦布告だと受け取った。

 早速、菅谷一派の溜まり場である廃倉庫に乗り込んだのが、その翌日。

 すると何故だ、あちらもだいぶ腹を立てていたようで、「今更謝りに来ても遅いぜ!」と突っかかってきたという。ここで、香を始めとする青木や数人の舎弟たちはその言葉の意味を図りかね、違和感を覚えたという。こちらは謝るようなことはしていないし、むしろ謝罪を要求しに来た側であったからだ。

 だが、どちらも頭に血が上っていたため、ほどなくして喧嘩が始まる。結果は相打ち。特に香は酷い怪我で、舎弟たちに支えられながら病院に担ぎ込まれたのが昨日のことである。


「菅谷一派……昨日、私をさらった人たちですね?」

 青木は「ああ」と頷く。

 三人の舎弟はその話は初耳だったらしく、お互いに顔を見合わせるように動揺していたが、口を挟むようなことはしなかった。


「相打ちということは、その喧嘩の勝敗はお預け状態にあるということですね」

「ええ。ですが、いつ、決着をつけるべく果たし状を送りつけられてもおかしくない状況です」

「しかし、ボスが動けない今、それが相手方に知られると、戦力的、チーム全体の士気的に、圧倒的にこちらが不利。最悪、千束一派の敗北を認めざるを得なくなります」

「相手のボスは、今どうしてますか?」

「奴もだいぶ痛手を負っていましたが、ボスのように入院を余儀なくされるほどではありませんので、今もチームをまとめています」

「今回、兄貴が入院が露見したことで、こちらが敗北とみなされることはありますか?」

「この間の喧嘩いくさはあくまで相打ちでしたので、それはないかと」


 話を聞いたうえで今ある状況を整理すると、現段階で菅谷一派には兄の入院は知られていない。

 舎弟たちは、兄のいないところで決着をつけるのを望んではいないらしく、しばらくの間は菅谷一派と鉢合わせするのすら避けたいということだった。

 確かに、ボスのいないところで勝手に喧嘩の決着をつけるのは、己らのボスを見限るに等しい行為だ。


 よって、香の舎弟たちの考えるところはこうか。

 兄がチームのボスとして復帰する前に、菅谷一派との決着をつけるのは避けたい。

 けれど、相手から挑戦状を叩きつけられてしまえば、香がいようがいまいが、それを受けなければならない。それを突っぱねる行為は、チームの敗北を認めることになるのだというのだから、このチームはもう後がない状況だ。

 リーダーもいない。いずれは決着もつけなくてはいけない。舎弟たちに突き付けられた厳しい現実は、彼らをこれ以上ない程に追い詰めている。


 兄の不在を悟られず、かつ、相手からの挑戦状をけむに巻く術があるとするなら、それは――……。


「……わかりました」

 燈瑚は一度大きく頷き、しばらく何事か考え込むように口を噤んでいたが、やがて、きり、と眉を吊り上げてこう言った。

「私にお任せください。今日から私が千束香せんぞくかおりです」

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