Ep.5 兄への心遣い
翌日。燈瑚が朝起きてリビングのある階下に降りると、休日の母は、朝一で兄の見舞いに向かう支度をしていた。その際に、今日くらい休めないのかと迫られたが、「提出したい課題がある」と突っぱねて家を出てきた。
今日は一限から心理学入門の講義が入っている。単位稼ぎのために選択した講義であったが、これがなかなかに興味深く、もう少し寝ていたい時間を犠牲にしてもいいと思えるくらいには充実した九十分を送ることができるのだ。
ほどほどに混雑した電車に乗り込み、駅から学校までの道のりを欠伸をしながら歩く。
まだ布団の心地よさに縋っていたい気持ちが強いが、抜けるように晴れ渡った空と、朝の冷えた風は、初夏の情緒を懐かしむに十分なシチュエーションであった。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む度、体内の眠っていた器官が続々と起床し始めるようで、大学に着く頃には眠気などすっかり吹き飛び、本日の晴天のような晴れやかな気分になっていた。
校門の守衛に「おはようございます」と会釈をすると、目的の教室のある二号館へ向かう。朝早いせいか、辺りには学生の姿は稀で、緑色の葉が茂った並木の間を歩く燈瑚の姿が妙に浮いて見えた。
二号館に入ると、右手側の階段を上がり、二階廊下の一番奥の教室を目指す。
学生たちを誘い込むように開いた扉を
教室内に人はまばらで、ふと黒板の上の時計を見ると、講義開始まであと二十分もあった。
早く着きすぎたな、と思いながら窓際の席に腰を下すと、講義用のノートと資料が入ったクリアファイルを机上に広げる。
終わっていない課題もないし、講義が始まるまで残り三十頁ほどで読み終える文庫本を読んでしまおう。
この小説の続きが出るのは再来月だから、しばらくは彼らの旅ともお別れをしなくてはならない。
何やら一行の旅路に不穏な気配が漂い始め、一ページ一ページと読み進めるごとに、胸に迫りくるときめきと緊張感に鼓動が高鳴る。
これだから本を読むのはやめられない。こんなにも燈瑚を楽しませてくれる。縛られがちな劣等感から解放させてくれるのは、この手に納まるほどの小さな彼らだけだ。――否、それと、もう一人。
「あ、千束さん。おはよう」
燈瑚は文面に落したばかりの視線を、声の方へ向けた。教壇の前を通って彼女の傍までやってきた少年が、ステージ上のアイドルのようなきらきらした笑顔で手を振っている。
たちまち燈瑚の心臓が、こくん、と熱く高鳴った。
「き、北山君……お、おはよう」
予想もしていなかった出会いに、思わず
例の想い人、北山君である。
彼はニコニコしながら、
「隣、座ってもいいかい?」
と、痩躯を屈めるようにして、燈瑚の顔を覗き込んだ。
燈瑚は照れくささに負けて顔を伏せ気味にし、
「ええ、もちろんよ」
と、隣の椅子に置いた鞄をどかして彼に席を譲る。
「ありがとう」
北山は椅子を引いて座すと、大きなリュックの中から沢山のプリントが入ったファイルを取り出す。
彼は少年のように幼い顔立ちをしていて、パッチリした大きな目と陶器のように滑らかな肌、笑った顔の愛らしさから、女生徒の人気の的であった。
加えて社交的な人となりで、友人も多く、男性からも女性からも好かれる。
さらに言うならば、類まれな優れた頭脳を有し、出身高校は県内トップの偏差値を誇るS高校。
ちなみに燈瑚は、特に頭がいいわけでもないが、笑っちゃうような馬鹿でもない一般的な高校を出ている。
そんな利口な
燈瑚が彼の人となりに心を奪われた理由など、周囲の女子学生たちと何ら変わらない。
彼は外見中身共に多くの魅力を有し、あまつさえ、それをひけらかしたりしない慎ましやかな性格だ。
初めのうちは、彼のこの恵まれた容姿に近づくことさえ恐れ多く思っていた燈瑚も、北山の大らかで隔たりのない態度にころっと
春が終わり、やがては夏が来る。そう遠くない未来に差し迫った今年の長期休暇を、一日でもいいから彼と過ごせはしないかと夢見る日々。少し気が早いようにも思えるが、感じえたことのない熱い恋心をどうにかするには、想い人との幸福な未来を夢想するほかないのだ。
「そういえば、先週出された心理学の課題難しくなかった? 僕、なかなか終わらなくて、昨日の夜までかかっちゃったよ」
「そ、そうね、難しかったわね」
緊張で肌に汗を浮かべた燈瑚は、ファイルの中からその課題のプリントを取り出した。
「僕ら、心理学科の生徒じゃないし、さぐりさぐりの内容しか書けなかったけど、《優》もらえるかなぁ」
「さぁ、どうかしら。でも、あの先生は努力を認めてくれる方だから大丈夫よ、きっと」
まだ少し早鐘を打っている心臓を胸の上から押さえて、面映ゆい感情が顔に出ないように必死に表情を引き締める。
いつだって彼に、自分の胸の内を打ち明けたいと思う。けれど、まだそのような勇気はない。
彼は優しいから、冷たい言葉で拒絶したり、燈瑚を避けるようなことはしないだろう。けれど彼女は違う。この苦しい程の恋心を吐露して、もし北山が受け入れてくれないとなれば、もう二度と彼の前に姿を現すことはできないだろう。
北山の優しい微笑みを見るたびに、彼に思いを受け止めてもらえなかった惨めな自分が浮き彫りになって、後悔と悲しみのあまり、この身が捻じくれそうな苦しみに耐えられる自信がない。
そんな臆病な自分が、燈瑚は時折憎らしく思うのだ。
と、その時、机の上に置いていた北山のスマートフォンが振動した。電話だ。
彼は、「ちょっとごめんね」とことわってから、通話ボタンを押した。
「もしもし、どうしたの?」
フランクな口調から、相手は家族かなと想像する。
盗み聞きをする趣味も無いので、燈瑚は何気なくプリント上の自分の文字を目で追っていた。
自分の書いた文章って、なんでこんなに憎たらしい口調なのかしら、と目を細めて、誤字・脱字の最終チェックをこなしていると、隣の通話はすぐに終わった。
「弟からだった。自転車貸してって」
北山はスマートフォンを鞄の中にしまいこむ。
「弟、いるんだ」
「うん。今、高校二年生。あいつ今日、寝坊したみたい」
北山は苦笑した。
もう九時近いというのに、今から家を出て授業に間に合うのだろうか。
「そう。学校、間に合うといいわね」
こういうとき、もっと盛り上げられるような返事が出来たらな、と思う。月並みの言葉ではすぐに会話は途絶えてしまうし、相手を退屈にしてしまう。
けれど北山は、そんなことを気にした風でもなく、いつも通りの気さくさで今の話題を延長させた。
「千束さんはきょうだい、いるの?」
「……えーと」
燈瑚は一瞬、兄の存在を明らかにするべきか
別に今ここで会わせるわけではないし、有無を言ったところで、そこまで食い気味に興味を持たれることも無いのだから深く考える道理もない。それに加え、イエスかノーか答えるのに刹那の間を挟んでしまったことにより、「いない」と言い切るタイミングを逃したと悟り、控えめに、
「兄が一人」と答える。
「へえ、そうなんだ。いいなあ、僕、年上のきょうだいに憧れてたんだ」
北山は、しみじみと言った。
「……いいもんじゃないわよ、兄なんて」
「そうお? 僕は羨ましいと思うけどな」
北山は燈瑚の方を向いて、頬杖をついた。
「北山君は、弟と仲いいの?」
「うん、まあね。一緒に買い物行ったりするくらいには」
彼は得意気な顔で頷いた。
「へえ、すごいね」
何がすごいんだ、と心の中でつっこみを入れつつ、薄っぺらな感想しか述べられない自分に腹が立つ。
すると北山は、窺うような声音で、
「千束さんちは違うの?」と問う。
「……ま、ね。あんまり良かないわよ」
「そう……。でも僕も、最初から弟と仲が良かったわけじゃないんだ」
「そうなの?」
「うん。お互いに年頃だったせいもあるだろうけど、前までは、顔を合わせるたびに喧嘩ばかりしてたよ。けど二年前にね、弟が病気して。一時は命まで危なかったんだ。――死んじゃうかと思った。その時になって、はじめて弟にもっと優しくしてやろうと思ったよ」
思いもよらぬ深刻な話に、燈瑚は少し寂しげな表情になって、
「そうだったんだ」と頷く。
「たった一人の弟だから、命が助かるなら何でもしてあげたいと思うよね。僕、毎日、神社に通って弟が元気になるようにお願いしてた」
「……そう。とても素敵な兄弟愛ね」
燈瑚は彼の、弟への深い愛情に心から感動していた。
なんて立派なお兄さんなのかしら。私の兄貴と交換したいくらいだわ。と本気で考えてしまう。
だがそれと同時に、自分も彼のように少し――ほんの少しでも、あのどうしようもない兄貴のために力を尽くしてやりたいと思わないではなかった。決して、心の底から憎いわけではないのだ。同じ時期に、同じ胎内で育った仲なのだから。
はじめは彼女も、人の変わったような兄を気にかけていたけれど、そんな妹を一切顧みない態度を貫いた彼に、燈瑚は不貞腐れて匙を投げたのである。結果として、現在の冷え込んだ兄妹関係が築かれてしまった。
本当に兄貴を憎んでいれば、このように気にかけたり、頭の片隅に兄の顔を思い浮かぶこともないのだろう。しかし、兄に対する嫌悪の感情とは裏腹に、香はいつだって燈瑚の頭の中にいた。取るに足らぬ外道に成り下がった兄、という認識にまで至ることはなかったのだ。
これが血の繋がっていない他人なら、そうは思わなかったのだろう。悲しいことに、あのどうしようもない不良少年は兄貴なのだ。血が繋がっているからこそ、燈瑚は香に対して、冷徹になりきることができなかった。
そして、その考えがより一層、強固なものとなる一言を、北山は今この瞬間に放ったのだった。
「だからさ、千束さんもほんの少しでいいから、お兄さんに優しくしてあげてよ。自分の妹ってだけで、お兄ちゃんは可愛いんだからさ」
にこっと微笑みながらそんな風に言うものだから、彼に心を奪われている燈瑚は、まさに浮足立つ心地でほんのりと頬を染め上げながら、
「ええ、そうね……」と頷くしかないのであった。
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