Ep.4 燈瑚の心

「何言ってンだ。駄目に決まってるだろ。妹さんは巻き込むな」


 即座に舎弟の言葉を咎めた青木は、縋るような長身の視線を一蹴した。

 ほんの少し厳しめに叱責された彼は、軽く首を引っ込めるように肩を飛び上がらせると、遠慮がちに続ける。


「けどこのままじゃ、いずれあいつらにバレちまいますよ」

「だからって、わざわざ彼女を危険にさらすことはないだろう」

「そう、ですけど……」

 燈瑚は話の流れる方向に身の危険を感じ、思わず食ってかかる。


「わ、私はただの一般市民ですよ。替え玉ってことは、私が兄貴の代わりにあなたたちの上に立つということでしょう? 出来ません、そんなこと! そもそも私は争いごとは苦手です。喧嘩なんてしたこともないし、替え玉を務められるような器じゃありません。かえって足手まといになるに決まっています」


 必死に、己に訪れうる不穏な未来を回避すべく言葉を並べ立てた燈瑚を、冷静な青木が宥める。

「大丈夫だ。君を巻き込む気はないから」

 彼は舎弟たちを振り返り、「もう二度と言うなよ」としっかり釘を刺す。

 どうやら彼はチームの中ではかなり上の地位にいるのだろう。二人に対する威厳ある姿はなかなか様になっている。そんな青木が、あんな兄の舎弟だというのだから、驚きだ。

 我が愚兄は彼よりも良い先導者として君臨できているのか、些か不安を抱かずにはいられなかった。

 どうもあの兄が、他人に尊敬されているビジョンが一向に浮かんでこないのだ。

 燈瑚の知っている兄は、誰かを引っ張りはすれど、暴力の末に大勢の頂点に立つというイメージではないのだ。


 小学生の頃、学級委員に推薦された兄が、クラスの大多数の票を集めて男子代表となった年があった。もちろん燈瑚はそういった役向きではなかったので、人気のない清掃係を押し付けられる羽目になったが。

 その年、兄の香は、クラスのリーダーの一人として立派に務めを果たし、夏休み明けに不登校になってしまったクラスメイトをつきっきりでサポートし、見事その児童を学級に復帰させたこともあった。


 他にも、周りからの陰口の標的になってしまった女の子を庇ったり、学級委員たるもの苦手を克服できなくてどうする、と意気込んで、苦手な漢字を頑張って勉強したり、担任教師からの信頼を一身に受けた香少年は、瞬く間にその地位を確立し、朝礼で校長先生にありがたいお言葉を賜るほどの努力を成し遂げたのだ。


 それだけに留まらず、彼の頑張りはクラスメイトのみならず、他クラスの児童の心までをも動かしたくらいだ。

 結果として、兄は学年中――否、最終的には下級生からも人望を集め、休み時間の彼の隣では大勢の子供たちが群れを成して校庭を駆け回っていた。

 その姿は、ただの学級委員という枠を超えた、一種のカリスマ性のなせる業なのだと、窓際の席で絵を描いて過ごしていた燈瑚は思った。


 兄は、力で人の上に立つのではなく、心で人に寄り添う少年だったのだ。そんな兄を、燈瑚は誇りに思っていた。――同時に、羨ましくもあり、時として大勢に囲まれた生き生きとした姿を見るたびに、劣等感に苦しむことも少なくはなかった。


 顔はそっくりでも、心までは同じではない。

 社交的で、人に好かれた香。

 内向的で、人と関わるのが苦手な燈瑚。

 彼女は、いつだって兄の様になりたいと思っていた。

 この世のすべての人にだって優しくなれる兄の優しさを、どうして私は独り占めできないのだろうと悲しくなったこともある。

 兄を人に取られてしまうのが怖かったのだ。

 引っ込み思案な妹に対して、香は誰よりも優しく接していたけれど、やがてその優しさに見限られて孤独になってしまうのではないかと考えると、燈瑚は不安で胸がつぶれそうな苦しみに襲われるのだ。


 ……だが、それはもう過去の話。

 今の香に、昔のような優しさは備わっていない。

 いつも彼の傍にあった無償の優しさは、何の前触れもなく、ある時を境にこの世から失われてしまったのだ。

 香は暴力に囚われた。燈瑚の誇りを放棄した。――彼女がここまで兄を嫌う理由は、まさにこれである。

 

 舎弟たちは残念そうにしながらも「はい」と素直に頷いた。


 かつての心情に意識を乗っ取られていた燈瑚は、ふと我に返って、青木青年の顔を見た。

 今思い出したが、度々兄貴の話に「青木」という名前が出てきたことがあったが、おそらくそれは彼のことだったようだ。

 この青年は、かつての兄を知っているのだろうか。力ではなく、心で人に好かれていた時代の、輝いた兄の姿を……。


「さ、おれが家まで送って行こう。また攫われでもしたら大変だからさ」

 彼女の視線に気が付いた青木は、燈瑚の背を軽く押して帰路の道へと促した。

「お疲れさまでした!」

 長身と赤毛は、去ってゆく二人の後姿に軽く頭を下げて見送った。


               ▼▽▼


 沈みゆく夕陽が照らす道の上を、二人は前方に伸びた影の先を追うように、のんびりと歩いていた。

 時折、頭上を横切るカラスが、夕暮れの雰囲気を演出するかのようにカアカアと鳴きながら飛び去ってゆく。

 

 空に浮かぶ雲は分厚くて重たそうに漂っている。夕陽に照った部分が色濃いオレンジ色を帯びて、まるで芸術作品の一角を切り取ったような幻想的な雰囲気を醸し出していた。


「あいつらの言っていたこと、気にしなくていいから。これは俺らの問題だしね」


 そう言った青木の表情は、本当にあのどうしようもない不良兄貴の下についた舎弟なのだろうかと首を傾げたくなるような優しいものだった。

 物腰も柔らかく、下の兄弟たちに慕われる兄貴然とした人柄。

 舎弟たちにものを言いつける口調も、決して優しいものではないけれど、理知的で道理に合っている雰囲気だ。


 この優男風の青年が不良だと? しかも聞くところによると、この青木瞳あおきひとみ青年は燈瑚より二つ年上の美大生だという。


 繊細そうな細面の中に納まった、人懐っこい印象を与える穏やかな垂れ目と、形のいい眉。決して高いわけではないが、気持ちのよくすっと通った鼻梁、薄い唇が浮かべる微かな笑み。十代を卒業したばかりでありながら、成人男性の余裕ある雰囲気に、燈瑚は少しくらっとした。


 普段キャンバスに向かって絵筆を向けている手は男らしく骨ばっていて、グレーのカッターシャツに包まれた肩は、微かに香ってくるテレピン油の匂いに不釣り合いなほどにはがっしりしている。

 このスラリとしたモデル体型と均衡のとれた肉体に、男性的な魅力を見出さないでいられる女性は限りなく少ないだろう。

 現に、恋愛経験の少ない燈瑚自身が、彼の隣を歩いていて密かに胸をときめかせているのだから。


 燈瑚は、安心感を覚える彼の声音に、

「……ええ」と頷いた。


 ――なんて優しい人なのだろう。喋りかけてくれる言葉の一つひとつがまるで砂糖菓子のように甘い。不思議と心が安らいでゆくわ。


 燈瑚は夕焼けに頬を染めながら、車道側を歩く青年をちらりと見上げた。こんなに近くで異性の顔を眺める機会は滅多にないからと、不躾なくらい彼の横顔を見つめていると、不意に青木のそれと視線が絡み合う。


 初恋に胸をときめかせる乙女のように顔を綻ばせたとき、ふと、頭の中に一人の少年の顔が浮かんだ。その人は、現在彼女が思いを寄せている相手で、同じ大学に通っている、彼女の数少ないである。名を北山といい、大学生活に慣れぬ頃に、同じ講義室で机を並べたのが交流のきっかけとなった。

 まるで少女漫画に出てくる男の子のように、誰にでも気さくな性格、頭もよくて運動神経も抜群。おまけに顔も申し分なく整いすぎていて、いくら重箱の隅をつつこうとも弱点など一切見つからないと思えるような人となり。外見だけ見ると些か近寄りがたいかもしれないが、その内面の親しみやすさが功を成して、彼の周りには人が多く集まっている。

 

 ――いけないわ。私には北山君がいるのだから。


 燈瑚はかぶりを振って、己の心にちらつく不埒な感情を追い払う。


「どうしたの?」

 青木が彼女の百面相を見て、微笑を浮かべる。

「いいえ、なんでもないんです……」

 燈瑚は照れたように視線を他所へ飛ばした。


 それからしばらく、二人は肩を並べて歩きながら、他愛もない会話に花を咲かせて残りの時間を楽しんだ。

 きっと、怖い思いをした燈瑚を気遣ってくれたのだろう。青木は時々、ひどくおちゃらけたように会話を盛り立てて、隣の少女の表情をほぐそうと努めてくれていた。

 そんな楽しい時間も、まもなく終わり告げる……。



 青木は何度か千束家に足を運んだことがあるようで、燈瑚が道順を説明しなくても、きっちり玄関の前まで送り届けてくれた。


「じゃあ、またね」

「ありがとうございました。じゃあ」


 燈瑚は少し照れたように手を振りながら、鞄の中から家の鍵を取り出し、玄関扉を開錠した。

 最後に振り返って、扉が閉まるその瞬間まで、燈瑚は門の外で手を振っている青木の微笑を、ずっと見つめていた。

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