第17話


 音工房は場所を移し、目抜き通り、マダムの店のはす向かいになった。もっともトライベル師匠の持ってる土地だから、厳密には独立とは言えない。あの人が目抜き通りで持ってない土地なんてマダムの店ぐらいじゃないだろうか、言うと、そんなに!? と和純ちゃんには大層驚かれた。そうなんだよあの人不労所得すごいんだ。もっともほとんどタダみたいな額で貸してるんだけど。月に銀貨五枚とか。ぱっと来ないらしい和純ちゃんに君の世界だと五千円ぐらい、というと、あんぐり口を開けられる。だよねぇ、そう思うよねえ、普通。それでも自分の物として買い取り、サロンやホール、レコード工場を作ってるマダムは独立心が旺盛だ。僕もいつかそんな人になってみたいけれど、いつになるやら。フルートの調整をしていると小鳥が窓に止まって、ちょっと和んでしまう。可愛いなあ。

「あっさはポーチドエッグ、フライパン温めたらバター引いてコーンも炒めてー♪」

 すっかり歌で料理を作るのにも慣れた和純ちゃんの声が綺麗に流れる。午前は師匠の所でスピカリアのレッスンを受け、午後はこっちで楽器の調整だ。疲れない、平気? と聞いたら外を歩くのも楽しいよ、と返された。彼女はあれで結構たくましい。たくましくならざるを得ない暮らしをしていたからだろう。か弱かった事なんて、あの対バンの後ぐらいだ。あの所為で僕達は二人で暮らさざるを得なくなっているんだけど、まあ悪くない心地だと言える。好きな人と一つ屋根の下って言うのは、良い物だ。今までもそうだったけれど、それは居候同士、という形だったし。大体夜にはスピカリアと師匠が帰って来ていたから、そんな感覚も薄い。

 だから僕はこうして二人っきりで暮らせるのが、本当は楽しくて仕方ない。誰のそしりも受けずにキスしたりハグしたりできるのは最高だ。彼女は恥ずかしがって避けるけれど、それもまた一興、パンの上のバターのようにゆるゆる溶かして行ってしまえば良い。

 一度『女』面が通りかかったけれど、僕はそれに和純ちゃんと僕、トライベル師匠にスピカリアの写真を持って行ってもらった。勿論みんな笑顔だ。スピカリアとトライベル師匠はちょっとどうなんだろうと思ったけれど、まさか師匠に写真を撮らせる訳にはいかないし、威紀にしか頼めなかったんだから仕方ないだろう。スピカリアじゃ持ち上げているだけで精いっぱいだし、カメラ。落として壊されたら僕の半年分のお小遣いが。銀貨二十枚が。もっともちゃんと送られるべき所に送られたのかは解らない。ただ王様の補聴器には昼の仕事を始めたらしい和純ちゃんの母親の声が入るようになったという。夜のお仕事って長続き出来ないと言われているし、彼女も彼女の生き方を見付けたんだろう。和純ちゃんがそうしたように。

 僕はバイオリンの弦を温める。松脂を塗って天馬の尾を鳴らす。高級品だろうからしっかり調整しないとな、思いながら鼻歌を鳴らすと、ちょっと緩くなった絶唱帯がしゃらんと鍵の音を鳴らす。いつかは外してくれるらしいけれど、それまでは品行方正でいなさい、と師匠と王様に言われてしまったものだ。もしかしたらいつか僕も彼女の楽器になれるかもしれない、思うだけでワクワクする。どきどきする。だからちょっと浮かれているけれど、品行方正に、今は鼻歌までだ。何せ僕には前科があるのだから。脛に傷を持つ身なのだから。そんな僕についてきた和純ちゃんを、失望させるわけにはいかない。だから彼女の楽器になるためのトレーニングは欠かしていない。バイオリンを顎の下に挟んで、音階をなぞる。

「そう言うのは私の世界と同じだね」

「極まったものは極まった物同士、ってことなのかもね。朝食出来た?」

「パンが焼ければ完成」

「最初の頃は焦げ焦げの食パンで驚いたっけなあ」

「しょーがないじゃん、私の世界のオーブンはもっと小さいんだよ」

「それでよく料理が出来るね」

「大きいのもあるけど過熱に時間が掛かる」

「ガスオーブンを伝えたい」

「ある所にはあるよ。窯とかも」

「極端だねえ」

「まあね」

 丁度良い匂いが漂って来たところで、彼女はキッチンに飛んでいく。夕食は僕、朝食は彼女、昼は手の空いてるどっちか、って言うのが僕達の共同生活の決まり事だ。新婚生活じゃないの? とスピカリアに言われた時にはカフェオレを盛大に吹いたけれど、まあ、間違ってもいないのかな。

 何せ僕らは運命に導かれて出会ったのだから。

 他の運命を持っていない二人なのだから。

 お砂糖たっぷりのカフェオレに、彼女の鼻歌はラプソディ・イン・ブルー。もう懐かしいな、なんて思ってから僕はイスについて彼女を見た。ボブにした髪はもちろんマダムの店で。あの散切りの気配はもう、無い。

「どしたの告実。パンもうちょっと焼く?」

「これで良いよ。これで丁度良い」

 そう。

 これで丁度良いのが僕らなのだ。

「次のコンサートはいつにしようねえ。それにしてもあんなに震えながら歌ってたななんて今まで知らなかったよ。制服がぶ厚かった所為かな?」

「もう良いよ、一生食べられるだけ稼いだし、工房の仕事も合わせれば二人で百歳まで余裕だよ」

「僕が聞きたいんだよ、ホールを響かせるあの歌声。わらべ歌オンリーとかどう? マザーグースだっけ、あれを適当に星のインクで翻訳してくれたら僕が音付けて歌ってもらえるよ」

「誰が殺したクックロビンを読んでから言え。死ぬほど長いわよあの歌詞」

「和純ちゃんなら大丈夫だよ。僕の詩、毎回きっちり覚えてるからね」

「それは告実だからで――」

「え? 僕のだからで?」

「……何でもないっ」

「ぶー」

「豚じゃあるまいしブーイングしない」

「あ、そうそう、今日は午後から雨が降るそうだから、傘忘れないでね? 和純ちゃん」

「あ、うん。ありがと、告実」

 そうして出掛ける準備をする彼女を眺めながら、僕はまだカフェオレをゆっくり楽しんでいる。もっとも僕の場合はミルクも砂糖も多めだから、どちらかというとコーヒー牛乳って言うのに近いらしい。そのまんまの名前だ。でもそれが美味しいんだから構わない。彼女が作ってくれるものなら、ちょっと焦げたトーストだって、最高だ。でもマーマイトの匙加減を知らないのには参ったっけなあ。ジャムみたいに塗るから、流石の僕も死に掛かったよ。彼女の方が死にそうだったけれど。あれは薄く薄ーくで良いんだよ。バターの上から薄ーくで。それも今は覚え込んで、でも『悪魔の食材だ』と自分は積極的に食べようとしないけれど。まああの匂いと味の後なら仕方ないのかな。僕はトライベル師匠に初めて食べさせられた時椅子から逃げ出したもの。うん。匙加減は必要だよね、本当。

 ラジオからは昔の歌謡曲がニュースと交互に聞こえてくる。ん、とコーヒー牛乳を飲みながら、僕はその声に気付く。

「マダムの昔の歌だ」

「え、このアイドル歌謡が!?」

「あいどるって言うのは良く解らないけれど、あの人も五十年は一線で張ってる人だからねえ。色んな曲を歌ってるよ。ロックもあったんじゃなかったかな。ジャズも、合唱も。それこそソロ任されて地声だけでホールに響かせた伝説の人だよ」

「すごい……マダム強い……」

「当面の目標はマダムだね」

「うん。あの人とデュエット張った時も思ったけど、あの声量はすごいし、響かせる――他人の心に響かせる力はすごいものがあった。私も頑張らないと。あの境地にはたどり着けない」

「スピカリアにロック教えてもらって、威紀と対バン、って言うのも良いかもね」

「スピカ、ロック歌えるの?」

「なんでも歌えるのが歌職人だよ」

「スピカもすごい……」

「その凄い人の所に、行ってらっしゃい」

「行ってきます! と、傘傘」

 のーんびり彼女の背中を見送って、僕も洗い物に立ち上がる。それが終わったらさっき温めたバイオリンから調整だ。多分異世界の歌を覚えに来させられてるんだろうから、メインは和純ちゃんが帰って来てから。他は、珍しいなチェンバロだ。それにライエル。ライエルは僕の管轄じゃないと思うんだけど、手回し部分をぐるぐる回していくと中身が大分傷んでいるのが解る。長い事ほったらかしにされてたのが、和純ちゃんのお陰で日の目を見た、と言ったところだろうか。確かにこれなら異世界の音も覚えやすいだろう。チェンバロは線の錆がひどくて、一から張り直しだった。これも調整し直しだな、と僕は一つずつ音を確かめて行く。和純ちゃんは絶対音感、という言葉を使うけれど、この国ではほとんどの人が身に付けている物だ。むしろない方が珍しいぐらい、幼い頃から楽器と慣れ親しんでいる。僕は最初に与えられたのがフルートだから、今もフルートとは相性が良い。ハーモニカは音がはっきり出るから、調整の要だったりもして。もっとも異世界の音は出ないから、あんまり使えない。あの音を出すには相当な変顔になるだろう。他の楽器でも和音にしたりして代替していることも多いし。

 和純ちゃんが最初に歌った楽器って何だったんだろう。ピアノが弾けたから、やっぱりビアノなのかな? ふむふむ考えながら、回すのはレコードだ。和純ちゃんの最新版。わっと一気に楽器達が騒めきたてて、耳を澄ます――と言って良いのやら――。ピアノもサキソフォンもじっと聞いている。今回は完全にスタジオ録音で、楽器もマダム所有の物から助けてもらったから、大分音が良い。ホールの録音も悪くないけれど、やっぱり専用のスタジオで細かく調整しながらって言うのが良いだろう。ライブ音源はマダムがその内CD化して売りそうだし。しかしスタジオまで持ってるとは、流石マダム。本格的に威紀を紹介しても良かったかもしれない。もっとも彼女は楽器職人の道を選んだのだから、それはそれで口が出せないところだけれど。もしも弟妹から歌職人や楽器が出てきたら、協力は惜しまないようにしよう。

 A面が終わってレコードから針を外す。さあみんなで合唱だ。僕は第一バイオリンに天馬の物を置いて、一人オーケストラの準備をする。さっさと先走った音を出すのもいれば、しっとりとした佇まいで待っているのもいる。作詞僕、作曲異世界の誰か、歌唱和純ちゃん。じゃんっと一気にみんなでフォルテが鳴る。そう言えばフォルテで始まる曲が結構多いな。彼女の発声練習は案外ストレス解消だったのかもしれない。大きな声を出せば結構すっきりするのは僕も経験で知っている。それにしても『運命』とか歌いこなせる気がしないけれど。特に最初のフォルテッシモ。あれで練習していたなら、腹式呼吸も完璧になろうものだ。

 主旋律を行くバイオリン。支えるのはヴィオラ。ピアノが時々加わって。本来どんな曲なのかはわからないけれど、楽器達が出した最適解で動いている物だから、そんなに外れてもいないんだろうと思う。そこでハーモニー。そこでピアノ。そこでチューバ。指揮棒を細かく振りながら、僕は全体の詰めに持って行く。

 じゃんっとまたフォルテで音が終わる。一汗掻いて良い心地になったのを、僕はピアノの椅子に腰掛けてふーと息を吐く。次? 次? とわくわくしているピアノには悪いけれど、レコードのB面はアカペラなのだ。残念。


 お昼少し過ぎに帰って来た和純ちゃんをサラダとトーストで迎えて、夜の準備に野菜を切る。今日はキーマカレーだ。あまり野菜は多くなくて良いけれど、氷水でしっかり締めておく。サラダ用だ。カレーは好きだけと、喉にはちょっと悪いのかな。うーんと思いながら、ちょっとだけ隠し味に入れるのははちみつだ。カレーにしか使わないからあんまり減らない。スピカリアみたいにパンケーキにだばっと掛けるなら別だけど、解っているのはお互いメイプルバター派だという事だ。あのバターは美味しい。ちょっと値は張るけれど、食パンにもパンケーキにも使えて便利だし、甘いものは満福中枢を刺激すると言うし。

 それから合唱に和純ちゃんが加わって、楽器達は俄然張り切りを見せる。第一バイオリンが席を移ろうとしたのを、歌は立ってる方が楽なの、と彼女は言った。まずはピアノで発声練習。誰もが聞き惚れるようなソプラノ。楽器達もうっとりしている。

「じゃあ、始めようか」

「前回出した曲?」

「うん、午前中に大雑把な合わせは終わってるから、あとは君が響けば良いだけ。っと」

 窓を少しだけ空けておく。その下にはマダムに貰ったクッキー缶だ。誰が来ても誰が聞いても良いように。

 それでは本日のオーケストラの始まり。

「――――♪」

 僕もちょっとだけ鼻歌交じりになりながら、首の鍵をしゃらんっと鳴らす。

 そんな雑音に負けないほど、彼女の声は綺麗だった。

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詩職人見習いは歌う少女と出会う ぜろ @illness24

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