第16話


 威紀とも合流してのマダムのディナーは美味しかった、奥様はちょっとだけ味の匙加減がいい加減なのを除けば食べられる料理を作る人なので、今回は成功だったんだろう。ビーフシチューと自家製ドレッシングのサラダ。ちょっとワイン臭いお肉もそこそこにとろとろで美味しかった。するとなぜか、和純ちゃんがまた泣き出す。どうしたのかとおろおろしてしまうと、お父さんが死んで以来こんな手の込んだ家庭料理を食べるのは初めてだったそうだ。お父さん亡くなる前は一般家庭だったのか、と新しい情報が増える。グリーン・グリーン。だから現実味がないと突っ返されたのかな、なんて思う。

 マダムの歌であやされて、やっと彼女は涙を引っ込める。ごめんね、今日はこんな顔見せてばっかりだね、と僕に言うから、別に悪いことじゃないと告げる。思い出を懐かしむのは悪いことじゃない。それがどんな思い出であろうとも、今の自分を作る骨格の一部になっているのだから。だから彼女はもう泣いて良い。そう言う世界に来たんだと、やっと解ってくれたような気がして、僕はむしろ嬉しい。と、威紀にニマニマ解ってんじゃねーよサド、と言われる。心外だと言うと、泣いてる女の子見て笑ってるんじゃあねえ、と更に奥様に追い打ちを掛けられる。ひどい。僕が何をしたって言うんだ。

「告実はサドの人なの?」

「断じて違うと言わせてもらうよ、和純ちゃん……」

「なら良いや。明日から楽器職人のレッスン、お願いします。師匠」

「おや、君の師匠は私ではなかったのかな? 和純君」

「トライベル師匠って基本的に放置プレイで学びたい事は勝手に学べってスタイルじゃないですか。だから私、歌の基礎はスピカに習ってるし楽器は告実に教えてもらってるし」

「ぐさっ」

「師匠でも図星ってあるんだ」

「あはは、めっめーな師匠なの!」

「言われてるわよ、あなた」

「知っているけれど君は私を慰めてはくれないだろう……?」

「あらよく解っているじゃない。ついでに言うと私、明日にはまた違う星雲に旅立つわよ。お供にいいレコードも貰ったしね」

「良いレコード?」

「今日のレコード。出来立てほやほやよ? マダムの工場で早速貰ったの。それと和純ちゃんの既存二枚と、マダムとのデュオ――トリオかしら。それを貰ってね。楽しみだわ、異世界の音楽。宇宙の音とは全然違うんですもの」

「宇宙に音ってあるんですか!?」

「あら、あなたの世界にはないの、和純ちゃん。天上の音楽は良い物よ。人には聞こえないほど美しい、って言うのがネックだけれど」

「……古代ギリシャの思想で習った事がある気がする」

「だからその音の根源が知りたいの、私達は。ビッグバン音源説、って言うのよ」

「へー……」

「キュージュも籠ってばっかいねーでフィールドワークに出てみりゃいいのによー」

「残念ながら私の体力は大気圏を突っ切れないんだ」

「軟弱ッ。宇宙人なのに軟弱ッ!」

 和純ちゃんの言葉に皆か笑って――

「でもね、待ってくれてる人がいるって良い物なのよ」

 奥様がしっとりと、呟いた。


「それにしてもマダム。工場経営までしてるとは知らなかった」

 まだちょっと黒い目元をこすりながら、和純ちゃんが言う。帰り道は大分暗い。マダムとの団欒がちょっと長引いてしまった所為だけど、幸いコンサートの客は皆家路についた後のようで、僕達も堂々と表通りを歩けた。

「経営権だけ持ってる、って話だけど、音源はマダムが持って来るって言うからやっぱりマダムの工場だね。ちなみに今までのレコードも全部マダムの工場製だよ、知らなかったでしょ」

「知らなかった……威紀が適当に焼いてるのかと思ってた」

「お? 私か? 流石にそこまでの財力があったらもっと早く独立してたなー。工場だぜ工場。ミリオンセラー刷れるほどの工場。回収は大変だけど、私もいつかはマダムのレコードにゃなりたいね」

「はっは、今度はトリオならぬカルテットで出てみたら良いかもしれないね」

「楽器の道は諦めちまったから、楽器職人で告実とセッションになるな! 告実、お前ベース弾けたっけ?」

「そっち側は全然ダメ。ドラムさえ無理。だから勝手に踊ってくれる和純ちゃんの歌には、正直感謝してるよ……本当」

「そ、そう、なんだ」

「うん。そうなんだ」

 赤い月を見上げながら、僕はぽてぽて歩く。後ろには楽器の列、前には師匠と奥様と威紀。隣には和純ちゃん。

 顔を見も見られもしない距離って言うのは心地よかった。何を考えているのか悟られない距離は気持ち良かった。

 あんなに怯えながら、今まではそれを隠して歌っていたのか。僕の為に、威紀の為に。マダムの為に。師匠夫婦の為に。

 誰かのために歌える。多分今歌ってと言ったら僕の為に歌うことだって出来るんだろう。まあ、そんなことしたら楽器達か騒ぎ出して街の安眠妨害になっちゃうだろうけれど。

 でも歌える。

 彼女はもう、歌える。

 楽器達のためにも僕達の為にも、歌えるんだ。

 それはちょっとだけ妬ましい。無表情に歩いていると、しゃらん、と鍵が鳴った。久し振りにうるさいな、と思う。取ってしまいたい。こんなもの。でも師匠が持ってる鍵じゃないと、この錠は開かない。触れただけで爆発して僕を殺すようなものを付けられて、でも僕は師匠を嫌いになれない。そんな師匠の奥様も。楽器であり楽器職人でもある威紀も。楽器で歌職人の才能を秘めている、和純ちゃんも。

 僕は嫌いになれない。

 それは良いのか悪いのか、解らない。

 人を悪く思わなくて済むのは、少なくとも良い事なのだと思う。

 じゃあ人を好くのはどうなんだろう。

 親に捨てられいている僕には、解らない感情だ。


「絶唱の少年! 絶唱の少年はいるか!?」

 奥様が旅立って行った次の日。

 和純ちゃんと楽器の調整をしていた所で、王宮の早馬が僕を呼んだ。

 え、って言うか何で僕。和純ちゃんなら解るけど、何で僕? 工房のドアを少し開けて素早く閉じ、僕は表に出る。すると御者が丸められた手紙を僕に渡して来た。曰く、至急王宮に来られたし。王。

 和純ちゃんを呼んだ時と同じような字面ではあったけれど、そこにはその時と違う緊張が乗せられているようで、ちょっとおののいてしまう。すると僕と同じようにするりと工房から出てきた和純ちゃんが手紙を覗き込んで来るけれど、星のインクを使っていないから解らないらしかった。なに、と問われて、さあと答える。御者の人の馬に鞭打ちたくて仕方ないようだったので、ちょっと王宮に呼ばれたから行ってくるね、と和純ちゃんには言っておいた。いってらっしゃい、と言われて行ってきます、と返す。彼女はもうこちら側の服を着ていた。一応制服もクリーニングに出してあるけれど、着る事はあるのだろうか。だとしたらそれはいつ、どんな時になるのだろうか。

 あまり考えないようにしながら僕はそりでちょこんと小さくなる。空飛ぶ早馬に乗るのはもちろん初めてだったけれど、景色を堪能するつもりにはなれなかった。

 王の間に直接着くことを許されている唯一の馬から降りると、そこには困った顔の王様と、表情の読めない師匠が立っていた。どうしたんだろう首を傾げると、ちこう寄れ、と言われ、渡されたのはあのラッパみたいな補聴器だ。ちょいちょい、と耳を指されて、僕はいつかのようにそれを耳に当てる。雑音、騒音、聞きたい声を拾っていく。

 ――それは和純ちゃんのお母さんの声だった。

「っう、うう、和純ぃ……どうして帰って来ないのよ、和純ぃ……お母さん悪かったから、帰って来てよお……」

「斎遠の奴もう何か月もうちにすら帰ってないってやばくね?」

「あたし達の所為……になんの?」

「あたし達は髪切っただけじゃん! その後いきなり消えちゃって」

「あなた達! 今の話は本当なの!? 髪を切ったって!?」

「やべっ山田ババアだ! 逃げるよ!」

「これは――」

 耳を離して僕は王様を見る。うむ、と王様は白いお髭を揺らし、その先っぽをつん、と尖らせた。

「どうも事情が変わってきたようでのう……あの子をこのままここに置いておくのが本当に幸せなのか、心配になって来た」

「最初の頃は、寝時に泣いたりしてたみたいでしたけれど―――最近はそんな事もなく、むしろこっちに馴染もうと努力し始めたぐらいですよ。制服も脱いで、こっちの服を着るようになって。楽器を磨く手伝いも覚えてるし、歌職人としてもスピカリアにレッスンを受けて――」

「それでも、だよ、告実。彼女を心配する人がいるのなら、私達はそれを無視しちゃいけない。勿論和純君もだ」

「そんな、」

「そんなもどんなもないのさ。それが運命だ」

 いつか聞いたフォルテッシモが頭に響いてくらくらする。そんな、今更になって、そんな事って。今更。本当に、今更だ。図々しいとすら思えるぐらいの。ずっと彼女を放置してきた世界が、今更何を。シコートにいた方が彼女は幸せに決まっている。絶対そうだと断言できる。大体向こうに帰るには『女』面の力が必要なはずだ。あの気まぐれな生き物を捕まえるなんて出来やしない。あんな素敵な楽器で歌職人になった彼女を、世界が手放すわけがない。

 本当に?

 よく磨かれたからこそ、持って行ってしまわれるのではない?

 僕はそりに飛び乗って。店まで戻るよう頼む。御者は一瞬王様を見たけれど、こくり、頷いた顔を見て察してくれた。僕はまた町中に戻り、目抜き通りの端にある音工房に戻る。そして急いでその扉を開けると、音楽が聞こえた。異世界の音楽。ピアノのソロで歌っていたのは、和純ちゃんで。

 ほ、っとして工房のドアを閉じる。良かった、まだ彼女はここにいる。僕の帰宅に気付いた和純ちゃんは、笑ってお帰りを言ってくれる。僕も、ただいまを言う。そう、当たり前のように言えるようになったのはつい最近だ。一緒に楽器職人の仕事をするようになるまで。才能はなくたって努力でそれは補われるものだ。彼女に楽器職人の才能はない。あるのは楽器と、歌職人の才能だ。そして彼女には運命の相手がいる。聞きたくないのに聞かされた、師匠の言葉。

 僕は彼女に訊かなくてはならない。

「ねえ和純ちゃん、君は元の世界に戻りたい?」

 唐突な言葉にきょとんとしてから、すっと表情を消した彼女は、初めてこの工房の前に落ちて来た時と同じで。

「戻りたくない」

 ほっとする自分を、ほんの少し軽蔑する。

「誰が心配してるわけでもないだろうし、どーせ親無しっ子扱いされて苛められるだけだ。だったらここで楽器達と一緒にいる方が、ずっと良い。声だってもう少しで歌職人の試験を受けられるぐらいだってスピカに言われた。だったらこっちで好きに歌いまくってる方が、ずっとずっと良い。何でそんなこと聞く? 告実。王様に何か言われた?」

 眉根を寄せて不機嫌そうな彼女は、本当にここに落ちて来た時と同じで。

 それに安心している自分が最低だと思う。

 だけど僕は、彼女を手放したくない。

 ここに居て欲しい。

 ずっと、ずっと。

「……母親が君を心配している」

「え」

「クラスメートも君の行方を気にしてる」

「…………」

「それでも、君は帰りたくないんだよね? ここに居てくれるんだよね?」

「……わかんない」

 その言葉にカッとした僕は。

 彼女の腕を掴む。

 そして客間に閉じ込め。

 鍵を掛けた。

『彼女はね』

『君の運命の歌職人さ』

『君の方が楽器なんだよ、告実』

 音の出ない楽器だとしても、僕は彼女を手放したくない。シコートの楽器は意思を持つ。これもそういう事なんだろう。


 その日師匠は帰って来なかった。スピカリアもだ。よくあることなので気にしない。僕は夕飯を乗せたトレイを持って、彼女の部屋の鍵を開ける。流石に絶食は可哀想だと思ったからだ。ドアを開けると和純ちゃんは何もない部屋の中、ベッドに座って膝を抱えていた。僕がドアを閉じると、億劫気に顔を上げる。夕飯はハンバーグだった。彼女の一番好きな、家庭料理。

「この部屋はね、昔僕が悪戯をした時に閉じ込められてた反省部屋なんだ。だから鍵は外からしか掛けられない。ごめんね。でも君の気が変わるまで出すつもりはないから。君がシコートにずっといてくれると約束してくれるまで。向こうの事なんて忘れちゃうまで」

「……告実は」

「うん?」

「どうして私に、そこまでしてシコートにいて欲しがるの? 自分が磨いた楽器だから? 自分の詩を歌ってくれるから? でも、告実の詩を歌ってくれる人はもうシコートにたくさんいると思う。私に沿う歌でなくても、告実はやっていけると思う。もう『見習い』じゃ、ないと思う」

「それは僕が決める事だよ。僕はまだまだ見習いだ。君を手放したくないぐらいの、身勝手な見習いだ」

「どうして、私なの?」

「君の歌が好きだから」

 即答してから頭を振る。しゃらしゃら首の鍵が鳴る。

「……君の事が、好きだから」

 本当はこんな所でこんな言い方するべきじゃないんだろう。解ってる。でも止められなかった。永隙告実は斎遠和純が好きだった。いつからかは解らないけれど、閉じ込めてしまうぐらいに、僕は彼女が好きだった。最初は歌から始まって、笑顔を見て。厳しい事も言うけれど、それも込みで好きだった。守ることも出来ないくせに、閉じ込めてしまうぐらい。

「告実」

「多分君の世界に戻ったら、君はまた社会的弱者に逆戻りだと思う。母親の言動も激化するかもしれないし、クラスメート達にももっと苛められるかもしれない。だから君を手放したくないって言うのもある。だけどそれだけじゃないのも知って欲しい。僕は君が好きだ。君の歌が好きだ。激しさが好きだ。厳しさが好きだ。鮮烈さが好きだ。好きだ。好きだ。好き、なんだ……」

 嗚咽交じりの告白なんてみっともない。だけどそうとしか言えない。好きだ。本当は見ないようにしていた感情だった。でも彼女がいなくなってしまうかもしれないと思ったら、見ない訳にはいかない感情だった。彼女の楽器は永遠に手に入らない。僕の歌職人は永遠に手に入らない。そんな運命を捻じ曲げてでも、僕は彼女と結ばれたい。運命なのに、運命だから。フォルテッシモで伝えたい、もっと強くたって良い。フォルティッシッシモで歌いたい。運命の詩を、一緒に紡ぎたい。僕の詩で。彼女の歌で。お願いだ、お願いだ。どうかここに、いて欲しい。その為なら喋れなくなったって良い。どうか世界よ、この人を僕に下さい。

 この人を、僕に下さい。

 パンスネにぽたぽた落ちる涙の音。詩に没頭するようになってから悪くなった目。彼女に没頭するようになってからもっと悪くなった目。恋は盲目と言うらしい。ならば僕は、盲目でも良い。喋れなくても盲目でも、彼女の声があれば、体温があれば、それで良い。

「和純ちゃん。君を僕に、下さい」

 情けない告白でも、どうか受け入れて下さい。

「……私、またいつ『翁』に攫われていくか解らないよ」

「良い」

「良くないことはそう言って欲しい」

「ほんとはやだけど、それが仕方のない事なら諦める。そもそも君が僕の工房前に落ちて来たのが奇跡だったんだし」

「その後すぐに送り返されて来たのも奇跡?」

「かもしれない」

「告実に運命の楽器が出てきたら、嫉妬するかもしれないよ? 私。奥様ほど人が出来てないから」

「その心配はない」

「どうして?」

「僕の運命の歌職人が君だから」

「――――」

「歌えない楽器で悪いけれど、離すつもりもない。ごめんね」

「謝らなくていい。私はそれで良い」

「和純ちゃん」

「私以外の運命が告実にないなら、それで良い。それが良い……」

 ハンバーグの匂いが漂う中、僕達は顔を見合わせてキスをする。

 触れるだけだけど、ちょっとかさついたお互いの口唇がおかしくて笑った。

 初めての感触が彼女で、嬉しくて笑った。


「……あーキョージュ? 私、威紀だけど、何とかなったみたいだぜ? 今は部屋の中で馬鹿みたいにちゅっちゅしてる。二回窓から脱走されてんのに、何安心してたんだろーな、告実の奴も。小さい時なら鍵に手が届かないだろーけど、相手十七歳だぜ? スピカリアや王様ならまだしも、油断できないの解ってたろーに、鍵かけて安心して……あ、賃料銀貨二枚は良いわ。なんかあいつら見てたらどーでも良くなって来た。久し振りに歌って来る」

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