第13話


「――――♪」


 和純ちゃんのピアニッシモと僕のフルートで終わった曲を、王様は大変に気に入ってくれたらしい。献上した楽譜はもちろん星のインク、これで合唱団も歌えるだろう。ちこう寄れ、と手招きされ、その手ずから片方の鍵を喉から外される。久し振りに声を出そうとして、盛大に噎せた。やっぱり僕も楽器か、調整していないとこうなる。もっとも鳴らない楽器だけれど。まあ師匠のお陰で鳴らせる楽器は多いから良いかな。思いながら僕はけふけふ言う喉で和純ちゃんの方に戻る。

「喋れるように、なった……?」

「うん、一応ね」

「良かった」

 心底ほっとした様子で言ってくれる和純ちゃんは、本当、シコートに落ちて来た時と全然違う表情を見せてくれるようになった。ベリーショートの髪も少し伸びて来て、あの痛ましさも嘘のようだ。でもあの世界は彼女にとって危険すぎる。ハサミで女の子の髪を引っ張って無残に切る、なんて所に、僕はもう彼女を戻したくはなかった。ここで生きて行く術を彼女は十分すぎるぐらいに持っている。だったらここに居れば良い。家なんかはもう少しお金が溜まったら城下町の空き部屋を探せば良いだろう。いつまでも僕の所に縛り付けるには、惜しい才能だ。その時にはアップライトのピアノでも買ってお祝いしようかな。目抜き通りに歌工房を構えたって良いだろう。そして色んな人の音を歌う――のは、ちょっと、羨ましいと言うか妬ましいな。その人達が。僕が育てた楽器だ。僕達が育てた楽器だ、彼女は。手放したくは、無いぐらい。

 これって良くない独占願望だよなーと思いながら、僕は目抜き通りを歩いていく。ちょうど真ん中あたりにあるのはマダムの店だ。目立たないようにそっと入るけれど、ドアベルが鳴ってしまう。そして振り向いたマダムは、僕の絶唱帯が元に戻っているのに気付き、嬉し気に駆け寄って来る。そしてぎゅと抱き締めてくれた。僕が絶唱者でもこうしてくれる人は稀有なので、心地良い。

「苦しいですよ、マダム」

「こっちだって苦しかったわ。良かった、あなたが無事で、本当に良かった。裏レコード持ちの奴なんかの為に、あなたが失われるなんて絶対に許されないことなんだからね」

 舞台裏で僕をひっぱたいた人とは思えないセリフに苦笑して、僕はマダムの背中を抱き返す。小柄な人だからハイヒールも浮いちゃってたけど、それでも僕の髪を撫でることを止めなかった。髪。そうだ。

「和純ちゃん。先に帰ってていいよ」

「? なんで」

「ちょっと髪の調律したくてね。少し長くなってきたから」

「良い。外で待ってる」

「結構掛かるよ?」

「良い。告実と帰る」

 ドアベルを鳴らして出て行った彼女に、僕はきょとんとする。すると、マダムがくすくすと笑い出した。何だって言うんだろう。

「詩職人としては腕が上がって来たけれど、年頃の男の子としてはまだまだね、あなたも」

「はあ……?」

 僕の三つ編みを解きながら、マダムはくすくすと笑っていた。


 少しすっきりした三つ編みに、和純ちゃんはどこが変わったのか解らない、と言って笑った。これでも三つ編み一つ分減ったんだけど、はた目には気付き難いらしい。いっそもっと伸ばしてしまおうかとも思ったけれど、なんとなくそれは躊躇われた。こっちに来た時、散切りにされた彼女の三つ編みの片方を思い出すからだろう。だったら僕はこれで良い。このままで、良い。パンスネを上げて笑い顔を隠しながら、僕は和純ちゃんと歩く。しばらくはよそよそしかった街の人達も、僕の喉が戻ったのを見て安心したようだった。よう、とか、絶唱の、とか、声を掛けて入れる。でも絶唱の、は無いんじゃないかな……これでも結構気にしているのに。僕はぺこりと頭を下げて、声は出さない。まだしばらくはその方が安心だろうから。

「ただいまー……」

 どうせ誰もいないだろうと思って母屋に入ると、バンッとクラッカーがあちこちから鳴らされた。

 一番最初に眼に入ったのは威紀、そしてスピカリアに師匠。下から響いた小さいのは、威紀の弟妹達だ。きょとんっとしているのは、耳がキーンとなって馬鹿になっちゃってるから。煽りを食った和純ちゃんも、耳を叩いていた。やっと戻ってきた聴力に、威紀がやったな、と声を掛けて来るのが一番に入って来る。それからちびっ子たちのおめでとうの嵐。

「楽器の指定はなかったのに和純君を連れて行くとはねえ。てっきりフルート一本かと思ったのに」

「スピカリアがレッスン付けてあげたのよ、和純ちゃんに決まってるじゃない! 告実ちゃんにとって運命の楽器は和純ちゃんなんだから!」

「はは、同じ楽器として私も証言してやるよ。お前らは二人で力を伸ばし合えるってな」

「スピカ……運命の楽器、って?」

「運命の楽器は運命の楽器よ?」

 きょとん、とそれだけで終わってしまうスピカリアに、僕は師匠の方を見る。わざとらしくクラッカーの片付けを始めた。僕が言わなきゃ、って事なんだろう。恥ずかしいけど。こっぱずかしいけど。

「楽器と繋がってる運命が、歌職人にはあるんだよ。僕は詩職人見習いだけど、元々は歌職人候補だったからね、そう言うのもあるんだろうと思う……でもスピカリア、それは和純ちゃんに失礼。彼女にはもっともっと色んな歌職人が付いてくれるはずだから」

「失礼じゃない」

 ぽつり、和純ちゃんは言って。

 また客間に逃げ込んだ。

「言葉は選ぶものだよ、告実」

 トライベル師匠が浮かんで威紀の弟妹達と遊びながら言う。

「君にだって運命はあるんだろうからね、この私でも介入できない運命が。歌と楽器、合唱は気持ち良かっただろう?」

「それは、」

「いつか君の絶唱帯を解いてあげられることが出来たら、是非二人のハーモニーをもっともっと近くで聞きたいね」

 夕飯の時間に出て来た和純ちゃんは、ちょっと目を腫らしているようだった。

 泣いたのかな。だとしたら何に?

 僕の楽器になりたかったのかなんて自惚れが湧いて来て、思わず水をがぶのみにしてしまった。

 楽器達のブーイングは夜中まで続いた。


 運命の楽器。運命の歌職人。

 残念ながら僕は詩職人見習いだから、そこに当てはまる事は出来ない。と思う。表向きには。

 でももしも和純ちゃんが僕の運命の楽器だったら、こんなに光栄なこともないだろうな、と思う。四オクターブの声域、五千人を前にして歌いきる度胸、そして何より歌唱力。あのホールを響かせた事は、観客達をも驚かせただろう。マイクを使ってても、あれだけ完全に腹式呼吸を使って最大限に自分の能力を生かせる人間は、そういない。精々マダムぐらいだろう、人ひとりでは。そのうち独唱を書いてみるのも良いかもしれない。完全にアカペラで、どんな楽器の手伝いも許さないようなのを。

 と、これじゃあ僕は彼女を『物』として見ているのと変わりないのかもな。『人間』としての彼女はどうだろう。都合が悪いと客間に逃げ込む。音は好きみたい。スピカリアのレッスンに耐えられる根性もある。女の子に根性って。でもあれは根性要るよ。僕の絶唱帯を良く思ってはいない。トライベル師匠にとっては兄妹弟子。異世界から来た女の子。愛されなかった女の子。まだ彼女の母親は娘が永遠に失われたことに気付いていないのだろうか。『翁』は本当、気まぐれな生物だから、滅多に『女』にはならない。つまりほぼ寿命が尽きるまで、彼女はシコートにいる事になる。彼女はそれを気にしてはいない。こちらの方が居心地が良いからだろう。僕も料理を手伝ってくれる子が出来て助かってる。彼女はもう髪を散切りにすような連中と一緒にいなくていいから、世界とのバランスは互恵的だと思う。

 さて、そこで僕の意見をもう少し混ぜて行こう。

 素敵な楽器。段々素直になってきた彼女。笑う事はあまりないけれど、時々そうなったときはとても魅力的。髪は少し伸び始めて、改めて女の子っぽく見えるようになって来た。楽器には好かれる体質。彼女も楽器達を好いている。詩職人としての僕にはちょっと厳しいけれど、嫌われてはいないだろう。そう、嫌われては、いない。

 じゃあ好かれている?

 まさか、僕が。

 刷り込みだ。最初にこの世界で出会ったから、僕を頼るようになっているだけだ。トライベル師匠は受け流すしスピカリアはそもそも感情を偏ってしか持てない。だから一番感性の近いだろう僕に頼ることが多いだけで、威紀だって頼る時は頼る。この二か月はコンサートも開けなくてカツカツだったぜ、なんて言っている、金蔓扱いされてるけれど、嫌ってはいないだろう。マダムのことだって、尊敬しているような節がある。王様も可愛いと言いながら、僕への温情判決で好感度は上がっているだろう。今度城に招かれたら、わらべ歌の一つ二つ披露してあげるのかも。

 そう、別に僕は特別じゃない。彼女にとっての僕は、まるで特別じゃない。

 僕にとっての彼女は?

 ベッドに寝転がてインクの染みついた指を舐める。

 ちっとも取れないけれど、何となく安心してしまう。

 僕にとっての彼女は何だろう。スピカリアは苦手な友達、トライベル師匠は師匠、威紀は親友とも呼んで良い友達。

 それじゃあ和純ちゃんは?

 考えるのをやめて、僕は目を閉じた。

 それ以上を考えたら、僕は僕でいられなくなる気がした。


「告実、クマが出来てる。寝不足?」

 一緒にスピカリアに起こされた僕達は部屋のドアの前で鉢合わせる。あっえ、とちょっと口ごもりながら、僕はとっさに嘘を吐く。

「曲を考えててね。詩も曲もやれたら、便利だから」

「利便性で考えられた歌はつまらないと思う」

 ぐさっと刺さってくる言い方だ。確かに僕もそう思うだけに。

「午前中は寝直すと良いと思う。昼食は私とスピカで歌ってみたいし」

「おや、歌合せと聞いたら私も黙ってはいらないな」

 後ろからふわふわと浮かんできたトライベル師匠に、僕も同意する。

「僕も聞きたいから、昼食前に起こしてね、和純ちゃん」

「初めてだから聞かれたくなかったのに……」

「シコートの人間にそれは無駄という物だよ和純君。歌と聞いたら黙っていられないんだ、私達は」

 はっはっは、笑って先に食堂に向かう師匠の後姿をちょっと甘く睨んでから、和純ちゃんは言う。

「あれで下手くそとか言ったら殴ってやる」

「どこを?」

「背中。さすがに肉が詰まってると思うから」

 確かに。頭はガス星雲みたいな人だもんな、その選択は正しい。スピカリアが『パンケーキ冷めるのー!』と言う声に呼ばれて、僕達は歩き出した。正確には和純ちゃんの後ろを歩きだした。少し伸びてきた髪。ショートカットぐらいにはなっているから、午後はマダムの店で整えてもらおうと誘うのも良いかもしれない。まるでデートだな、と考えた自分にゾッとした。一人。一人で行ってもらおう。

「お肉は常温火が通るー♪」

「フライパンは熱して通り良くー♪」

「レアにミディアム・ウェルダンどれがお好き?♪」

「私はミディアムかな」

「僕はウェルダンで」

「オーダー聞いて唱えたら、さあお肉は広がっていく♪」

「良い匂いが出来て来るのを待ってるの♪」

「さあ最初はミディアムお皿にそーれ♪」

「次はウェルダンお皿にそーれ♪」

「一緒に焼いてた野菜もそーれ♪」

「豪華なお昼の出来上がり♪」

「きゃー和純ちゃんとやっと歌えたの、お料理の歌! ありがとう、和純ちゃん、ありがとう!」

「お、お礼を言うのはこっちの方で……でもいきなりステーキはエンゲル係数高かったかな」

「えんげるけいすうは解らないけれど、おいしそうに出来てるから歌は正確に歌えた証拠だよ! ほらほら、二人とも冷めないうちに食べてー!」

「それは良いけど。和純ちゃんとスピカリアのは?」

「オーブンでこっそりと焼きました……」

「万全の対策っ」

「だ、だって失敗したら恥ずかしいじゃない!」

 失敗したところを見た事のない子だと思ったけど、それはスピカリアのレッスンあっての物だったのか。それにしても良い匂いのお肉だ。さっさと食べよう、スピカリアの言うように。スピカリアは和純ちゃんに切り分けてもらって四分の一ぐらいを食べるみたいだ。よく入るな、そんな体に。この友人の身体の構造は解らないことが多い。死んじゃう時もふっと消えるそうで、解剖が出来ないのだ。まあ、女の子だから何か素敵なもので出来ているんだろう。とは、『翁』がいつか落として行ったマザーグースと言うわらべ歌の本に書いていたことだ。うむ。あれに曲を付けるというのは面白いかもしれないな。短い物ばかりだったし。

 と、ドアが開く音がした。工房ではなく母屋だ。普段は防犯かねて鍵を閉じているから、開けられるのは鍵を持っている人に限られる。そしてそれはもう僕とトライベル師匠を抜いたら一人しかいなくて――。

「あら、豪勢な昼食ね。わたしも混ぜて下さらない? あなた」

 ガス星雲の頭は宇宙人の印。綺麗に着こなしたスーツ姿で立っていたのは、トライベル師匠の奥様だった。

「あらまた居候を増やしたの? まあ形だけの家ですものね――と、アナタ、もしかしてマダムとデュエットコンサートをした子?」

「は、はいっ。斎遠和純と申します、旦那様にはいつもお世話になっていますっ」

「お世話してるのはスピアカリアなの、和純ちゃん嘘はめーっなの!」

「あらそれはそれは。運命の歌職人に他人を任せるほど研究は進んでいるという事かしらね、あなた」

「残念ながらまだまだ暗中模索だよ。ああ、和純君は初めてだったね。うちの妻のツライストだ」

 カチコチに固まってしまった和純ちゃんは、下げた頭をそのままにしている。

「婚姻関係が持続しているだけで、妻と言うほどの事は何もしていないけれどね。じゃああなた、部屋で資料を広げておくからゆっくりランチを楽しんでから意見を聞かせて頂戴な」

 カツコツとヒールを鳴らして、奥様は師匠の部屋に去って行く。

「結婚とかあるのか……宇宙人でも……」

 ぽつりと呟いた和純ちゃんの一言に、ぷすっと笑うのは師匠だ。

「まあね、これでも恋愛結婚さ。私は彼女を愛しているし、彼女も私を愛しているし、互いの才能を愛し合っている。そう言う関係だね」

「って言うかスピカが運命の歌職人って」

「言ってなかったっけ? 師匠の運命の歌職人はスピカリアなんだ」

「ご機嫌に聞いてねー……って事は、トライベル師匠歌えるんですか?」

「滅多に披露しないがね。歌えないことはない。それより歌を楽しむスピカリアの曲を聞いている方が良いぐらいだよ」

「ようは怠けてるんですね」

「うっ」

 胸を押さえる師匠はくすくす笑っている。

「詩、音、楽器、歌……の、エリートだっけ? 宝の持ち腐れは勿体ないですよ」

「君にそう言われると何だか畏まってしまうね。あれだけ歌や楽器であることを嫌がっていた君からは」

「う」

「さてと、洗い物は告実に任せて君はマダムの店に行っておいで。少し髪が乱れて来ているようだからね」

 それは僕のセリフだったのだけれど、先を越されてしまいぐぬぬとなる。けぷっとお腹いっぱいになったスピカリアはしばらく使えないから、僕が洗い物をするしかないだろう。出来れば僕もマダムの店に避難したかった。あの奥様は、正直、苦手だ。師匠よりもズバズバ物を言う人だから。

「洗い物の歌も習ったから、それで片付ける。そしたら一緒にマダムの店に行こう。ちょっとだけあの人は、……怖い感じがする」

 珍しく緊張ではなく怯えている和純ちゃんに、僕はうんと呟いた。

 解る人には解るんだな、奥様のプレッシャー。

 師匠と同じだけの博士号を持ってるエリートだもん。


「まあ奥様から逃げて来たの、あなた達ったら」

 くすくす笑うマダムは今日もご機嫌だ。今日のレコードはショートカット。そこに針を落とす前に、悪戯っぽい目でマダムは和純ちゃんを見る。

「彼女から学べることは多いと思うわよ。もしも手持無沙汰そうにしていたら、何で疑問をぶつけてごらんなさいな」

「どうして師匠と結婚したのかとか?」

「それは私も知らないわね」

 くすくす笑いながらマダムは針を落とした。僕もそれは気になる所だったけれど、恐ろしくて聞けなかった。なんか立ち入っちゃいけない夫婦の一線って感じで。でもそこに簡単にずかずか入って行けるのが何も知らない何物も寄せ付けない何も怖くない十七歳の女の子という存在で。

「あの人と結婚した理由?」

 聞けちゃうんだから凄い。

 和純ちゃんのいれたカフェオレという物に、こういう飲み物もあるのね、とふんふん感心していた奥様はそうねえと昔を振り返る。師匠もだけど奥様も年齢不詳なだけに、どのぐらいの付き合いがあるか解らなかった。億年単位の可能性もあったし、案外スピカリアより短い可能性も。

「あの人が二十五歳で私も同い年だったころかしら。今から考えると随分懐かしい事だけれど、まあ、あの人の才能に惚れこんでいたのよ。詩職人の博士号を取ったら詩職人、音職人の博士号を取ったら音職人、楽器職人の博士号を取ったら楽器職人、歌職人の博士号を取ったら歌職人――追いかけて行ったらいつの間にか突き当りにあの人がいて、一緒に研究をしないか、って。嬉しかったわねえ、あの時は」

 くすくすとどこで笑ってるのか解らない声か響く。

「私達の研究の事については?」

「宇宙が生まれた時の音……って聞いてますけど」

「そう、その通り。だけどこれがなかなか難しくってねえ。二人であーだこーだ論議を重ねて、私はフィールドワーク、あの人は文献探し、って分担になたたのが三十歳ぐらいの頃かしら」

 そりゃ、普通そんな音の研究する人なんていないだろうしなあ。そして具体的な年数が出て来ないのが怖い所なんですが,奥様。僕師匠の歳だって知らないのに。

 ほー、と息を吐いた和純ちゃんは、さらに抉りこんで来る。

「スピカ――スピカリアと師匠があったのって、何歳位なんですか?」

「あの歌職人の子とはもう四千五百年ぐらい前になるんじゃないかしら。気晴らしに歌ってたら目を付けられて、付きまとわれて鬱陶しいから運命診断に行ったら見事に一致、それ以来ずっと一緒よ」

「奥様は嫉妬したりしないんですか……?」

 ああー抉りこんで来る、抉りこんで来るよ和純ちゃん。怖いからこういうこと聞かないようにしていたのに。お砂糖をいれたカフェオレが苦い。女の子のこういう度胸ってどこから来るんだろう。奥様はそうねえ、とちょっと笑ったみたいだった。

「少しは妬いたりした時期もあったけれど、運命ですもの。それに私が帰って来た時には私を一番に置いてくれる。それで良いんじゃないかしら、今は」

 大人の意見だった。成熟した女性の意見だった。こくこく、頷いて和純ちゃんは頬を赤くしている。

「運命なんかどうでも良いですよね。入り込めない隙間があったって、愛し合ってるならそれも入り込めない隙間なんですよね」

「こんな若い子と恋愛話するなんて思ってなったから、結構ドキドキよ? 私も。でもそうね、たとえ運命が別にあっても、私達の絆は変わらないと思うわ。腐れ縁って言うのも知れないけれど。ねえトライベル?」

 え、とドアの方を見ると、空のコーヒーカップを持った師匠がひょこんっっと顔を出した。ちょっと居心地悪そうなのは、師匠も照れているからだろうか。和純ちゃんはカップを受け取って、コーヒーの歌を歌う。もっともミルクを入れるパートは彼女の自作だ。お砂糖は入れずに、はい、と手渡す。その間の和純ちゃんのニヤニヤした顔と言ったら、まったく。女の子って強い。

「ツライスト……もう少し情緒のある言い方は出来ないものかな……」

「だって本当の事ですもの。嘘には出来ないわ。あなたの才能に惚れこんで後ろを追い掛けていた日々は、私にとって青春だったんだから」

「……部屋でもう少し、研究資料を読んでいるよ。今回のフィールドワークは中々実りのある物のようだからね」

「私はいつでもあなたの役に立っているつもりよ、トライベル」

゛轟沈した師匠はふらふらーっと飛んで部屋に戻る。

 一番強かったのは奥様か和純ちゃんかは解らないけれど、一番弱いのは師匠のようだった。

 ……僕は下から二番目ですけどね!

「ところで運命診断、って何ですか? 奥様」

 まだ話を続けるつもりなのか、僕はマグカップに溜息を隠して和純ちゃんを見る。そっか、向こうの世界には運命が無いのか。明日の天気も解らない気がするし農家の作付けも出来なくて不便だな、と僕は思う。んー、と考えるようにしながらくるくるとカップの中身を攪拌するのは奥様だ。多分運命のない世界と言うのがよく解らないんだろう。僕だって解らない。そうねえ、と頷いて、奥様は話し出す。

「例えば明日の天気が解らない。これは傘を持って出かけたら良いのか解らなくて不便よね?」

「はい」

「シコートでは一週間ぐらいは天気の先読みが出来るの。それが『運命』だから。世界が辿るべき道だから。同じように人にも運命はある。楽器と呼ばれる人と歌職人には、運命がある。あなたが楽器なら、運命の歌職人がいる。告実君は元でも歌職人だから、運命の楽器がある。それだけの事よ」

「はあ……?」

「運命を診断したいなら、よく当たる場所を知っているけれど行ってみる? 四十五億光年ぐらい先だけど」

「帰ってきたら九十億年じゃないですか。生きてないですよ私。それにお金だって掛かるでしょうし」

「あら、あなたの貯金は金貨五千枚だって聞いたけれど。ミリオンセラー出しまくってる挙句コンサートの会場も入りが良いからって」

「へっ」

「教えてなかったの、告実君」

 視線を向けられているような気がして、僕はやっと空のカップから口唇を離す。

「過ぎた金銭感覚は才能を潰すと思ったまでですよ。それに噂は噂です。彼女の貯金は四千五百枚金貨です」

「き、きーてないよ!? そんなになってるなんて、私全然聞いてない!」

「言ってなかったからね。それに和純ちゃんは新調した楽器より古くからある楽器の方が相性良いでしょう?」

「そーじゃなくて!」

 彼女は僕に向かって怒鳴る。その声も随分綺麗なソプラノになっていた。腹式呼吸が板に付いている、って言うのかな。良い傾向だと思う。楽器としての彼女は、どんどん性能を高めているところだから。よく磨かれたバイオリンのように。

「私ここに来てからお金何にも払ってない! タダ飯食らいでいるなんて絶対嫌! 銀行行って来る!」

 彼女のその叫びは何かを現しているような気がして、だけど何を現しているのかは解らなくて、僕と奥様はきょとんとして出て行く彼女を見送った。

 って言うか。

「印税って知らなかったのか……」

「あらそれならあなただってそうじゃない、告実君」

「僕はただの詩職人見習いですからね。お金は取れませんよ」

「まあ謙虚ぶっちゃって」

 くすくす笑う奥様は苦手だ。どこで笑ってるか解らないのもそうだけど、からかわれて遊ばれてる感じがするのだ。僕はダイニングテーブルから立って、流しにコップを置いて洗う。奥様はもう一杯御所望のようだったから、コーヒー豆をひいた。

「なんのお騒ぎなのー……?」

 食後の昼寝をしていたスピカリアが起きて来る。なんでもないよ、と僕は苦笑いで応えた。

 奥様は解らないことらしく、何なのかしらねえ、と言っていた。

 首元の鍵がしゃらんと鳴った。


「取り合えず金貨五十枚下ろして来たんで、これで今までの分にしてください!」

 帰るなり師匠の部屋に行った和純ちゃんに僕達はそれを野次馬しに行く。

 首を傾げた師匠は、僕に向かって声を発した。

「うちのエンゲル係数はそんなに高い物だったかな? 告実」

「いえ、全然」

「しゃあこれはどういうお金だい? 和純君」

「今まで居候してて、ご飯も食べさせてもらってた分です」

「それは私に対する侮辱かな? 和純君」

「え」

 くすっと奥様が隣で笑う。

「良い楽器を見付けたから磨いているだけだよ、私は。何の見返りも求めていない。むしろ新しい曲を聞くたびにこちらから金銭を与えなければならない立場だとすら思っている。そんな私にこんな大金を払われたら、私の立つ瀬がない。そうだろう?」

「で、でも」

「まあ師匠の甲斐性という物たよ。告実だって音工房をしているけれど、たまに私からお小遣いを出すしね。なんと言っても私は君達の師匠なのだから、君は思う存分に食う寝る歌うのワルツをしてくれれば良いのさ。それが私にとってはプラスになることだ。さ、銀行へ行ってお金を戻しておいで。危ないからツライストと告実を連れて行くと良い。何ならそろそろ起きてる威紀君もつれてね」

「は、はあ……でも本当に良いんですか? 私、ここに居続けても」

「勿論。君は僕の磨く楽器の中でも飛び切りだからね」

 口元をむゆっとさせているのは、笑いたいからだろうか。笑いたくても笑えない。笑ったらどうなるか解らない。喜びだけでは生きて行けない。スピカリアみたいな感情値の人間なんて稀有な方だ。あれを疎ましいと思わない彼女は、本当は明るい子だったんだろう。


「私、母親に援助交際でもやって家に金入れろって言われてたんだよね」

 ぽてぽて目抜き通りを歩きながら、和純ちゃんは話し出す。

「援助……交際? ごめんなさい、私あの人ほど異世界の言葉に詳しくはなくて」

「あ、良いんです。ようは売春です。売春して自分の食い扶持稼げって言われてて」

「母親に!? なんて勿体ないことをさせるのかしら、こんなに良い子に!」

 奥様はぎゅっと和純ちゃんを抱き締める。和純ちゃんは照れるようにして、頬を赤らめた。多分経験が無いんだろう、僕と同じように。昔はあったのかもしれないけれど今はない物。そういう、感情。愛情。

「だからせめてコンサートとかで現金稼いでたんですけど、印税の事は全然考えてなくて……」

「ちなみに現金の方は僕が預かってるけど、銅貨一枚たりとも使ってないからね」

「意味ねぇ……」

「だから、師匠にお金を?」

「うん。正直いつまでも世話になるわけにはいかないから……」

「あら、いつまでもいてはくれないの?」

「え?」

 奥様の言葉に、和純ちゃんはきょとんとする。

「いつまでいても良いのよ、あそこはもうあなたの家でもあるんだからね。もっともその前に、告実君と二人立ちするのかもしれないけれど」

「なっ」

「奥様、僕は喉の鍵を外せないんですから師匠と一緒じゃないと暮らせないの解っているでしょう? 少し前に事件だって起こしているんだし、独立なんてできませんよ」

[ああ、例の裏レコード事件ね。あれは圧倒的に相手が悪かったのだから、あなたが気にすることじゃないでしょうに。トライベルも裏レコードの物証はきちんと確保していたって言うんだから、抜け目のない裁判だったみたいだしね」

「確保してたんですかあの人」

 よく短時間でテープ回して店主避けさせてレコードひっつかんで、って出来たもんだ。僕の歌が弱かっただけかもしれないけれど。本気で解放したら、どうなっちゃうんだろう。僕の喉って。まあ歌わないのは確かだな。二度もあんな事件起こしたくないし、人死にもごめんだ。両親だってそれを危惧して僕に絶唱帯を付けたんだろうし。小さい頃は歌うと喉を締め付ける物を使ってたっけなあ。それがいつの間にか爆発物になってるんだから、恐ろしい。

 そう言えば二本目の絶唱帯は付けられてないな、と僕は喉に触れる。和純ちゃんが心配そうに見て来るのが解った。大丈夫、笑い掛けると鍵がしゃらんと鳴る。

「せめて今日の夕食分は払わせて。買い物して帰るから」

「頭固いなあ和純ちゃんは。でもそれが君の良い所か。良いよ、荷物は僕が持つけどね」

「まあ、異世界の音楽は知ってるけれど料理は初めてだわ。楽しみにしているからね、和純ちゃん!」

「に、荷が重い」

「まだ何にも買ってないよ?」

「告実ッ!」

「わー和純ちゃんこわーい!」

 けらけら笑いながら銀行に入ると。

「手え挙げて頭の後ろで組め!」

「……」

 強盗サン真っ最中だった。

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