第10話


「和純君の母親の声を聴きに行ったのかな? 告実」

 部屋に戻るとまだ起きていたトライベル師匠にそう問われ、見透かされてるなあと思いながらはい、と答える。師匠に隠し事できる人なんていないんじゃないだろうか、たとえ王様でも。そのぐらいこの人は聡いし、勘が良い。和純ちゃんとスピカリアは別室でもう眠ってしまっているだろう、結構なコンサートになってしまったし――威紀は医務室だ。頭を殴られてるし、一応ね。

「私が積極的に彼女を異世界に返そうとしない理由は分かったかな?」

「はい」

「でも彼女が帰りたがったらそれを止める手立てもない。『女』面を探さないとね」

 『翁』と『女』面は二つで一つだ。『翁』が異世界から連れてくる方だとしたら、『女』は異世界に持って行く方。もっとも滅多に顔を出さないから、ただ『翁』と呼ばれる方が多い。

 ぱちん、とトライベル師匠が指を鳴らすと、空間にぽっかりと映像スクリーンが出る。そこには隣の部屋で眠っている和純ちゃんが写っていた。小さく、ママ、と呼ぶ声がする。そして一筋の涙。彼女にはとてもあの補聴器の内容は聞かせられないな。まだ親を信じているんだから。その辺り、威紀と結構似ているのかもしれない。どうしようも無くても両親を信じずにはいらない、子供心。僕が四歳で捨てた、子供心。

 師匠はもう一度指を鳴らしてスクリーンを消す。

「少なくとも縋ってしまう事を忘れるぐらいに、こっちで良い経験をさせてあげよう。それが私達に出来る最良の事だよ、告実」

「良い経験……」

「なんだろうね、彼女にとっての良い経験と言うのは」

「……楽器の才能があるみたいです。彼女。楽器と言葉を交わすことはまだできないけれど、考えてる事はなんとなく解るって」

「ほう! 歌職人の楽器か、多彩なものじゃないか! 歌職人としての修行はスピカリアに任せるとして、楽器としての修行ぐらいは君が手伝ってあげると良い。彼女はどんな職人になるだろうね、考えただけで楽しみじゃないか!」

「師匠、声が少し大きいです。隣の部屋に聞こえます」

「おっと、それはいけないな。とりあえず今日は眠ることにしよう。おやすみ、告実」

「おやすみなさい、トライベル師匠」

 師匠はふわふわ浮かんで眠り込む。毎度思うけれど、どこで息してどこで考えてどこで声出してるんだろう、この宇宙人って人種は。部屋に籠ることの多い学者型の人が多いから、僕はトライベル師匠以外の宇宙人をそんなに多くは知らないけれど。その師匠も城の図書館に詰めていることが多いけれど。様々な実験論文を書き、僕もその題材になったことがある。まさか和純ちゃんの事もそうするつもりじゃないだろうな、と思いながら僕はぽかぽかする寝床ですぐに眠りに付いた。

 ちょっと嫌な夢を見て、眠りは浅かった。


 次の日は朝食もいただいて(ちゃんと僕や和純ちゃん用に歌を使わなくても食べられる食事だった)城を辞し、僕達は工房に戻った。とは言えトライベル師匠とスピカリアは城の図書館に引き籠っていったので、実質帰るのは僕と和純ちゃんだけである。和純ちゃんはすっかり街の有名人になって、よ、異世界人さん、なんて声を掛けられたりもする。その度に和純ちゃんは反応の仕方が解らないのかぺこりと頭を下げるばかりだ。そこが可愛いと言われ、ベリーショートの髪をぐいぐい引っ張りながら彼女は早足になる。大分慣れた足取りは、街にも慣れて来たって事だろう。夜も昼も。今日は夜の街に出てみようかな、和純ちゃんも誘って。威紀はいるだろうか。あの顔じゃまだ家に籠ってるかな。頭の傷もあるし。そんな彼女は僕達に用意されていた馬車で弟君と帰って行った。荷物を纏めたらトライベル師匠の別荘に行くそうだ。街がちょっと遠くなるな、と言っていたけれど、あくまでちょっとだ。歩けない、距離じゃない。

 王様の言霊で両親とは顔を合わせなくなったから、姉弟そろって夜の街に繰り出すのかもしれない。そうして陽気なロックをたっぷり聞けば、傷の治りも早いだろう。ここは万物の根源が音である世界だから、癒し系の曲を聞くのも良いかもしれない。勿論昨日も城で聞かされていただろうけれど、顔の傷は本当にひどそうだったから。頭の傷も、しばらく血が止まらなかったけれど、場所によるって所もあるだろう。頭は止血がしにくい。と、和純ちゃんは言っていた。どうして知っているんだろう。向こうの世界では一般常識なのかな。でもそんなちょくちょく頭に何かがぶつかる世界はちょっと嫌だ。流血沙汰が珍しくない世界は怖い。思い浮かんだのは昨日王の間で聞いた酒焼けした女声だけど、まさかね、と思う。思いたい。だけど威紀の家みたいなのが向こうにもあるんだとしたら、無い可能性でもない。

「ただいま」

 工房の方に入って行った和純ちゃんに、楽器はブーイングしっぱなしだった。どうして王宮に連れて行ってくれなかったの、お城って行ってみたかったのに。

 そりゃあ一流の楽器がそろっているところに庶民の楽器を連れ込むわけにはいかないだろう。彼らの持ち主も納得しているところだけど、彼らは納得していない。と、そこで和純ちゃんはピアノに向かった。


 じゃじゃじゃじゃーん。


 重低音に楽器達が一瞬鎮まる。『運命』だ。

 陽気なピアノはそれに気をよくして、もう一度その重低音を鳴らして見せる。それから和純ちゃんが繊細な音をクレシェンドで鳴らして行って、それに楽器達も好き勝手乗っていく。本来参加しない楽器までだ。でも和純ちゃんは楽し気に、その狂騒的な音の中に身を投じる。そして、僕の詩を口ずさむ。楽器であり、歌であり、今の彼女はすべてであるようだった。

 見惚れていると彼女は曲を終える。

「これが、昨日の曲の一つ」

 楽器達に教えると。どんしゃんからから盛り上がっていくのが聞こえた。

「それから――」

 グリーン・グリーンを僕の詩で歌ってくれる。

「そんてもって、」

 バースデーソングに僕の詩。

「――これで、おしまい」

 どんがらがっしゃんとドラムがはやし立ててアンコールを望む。だけど和純ちゃんはそれをだーめ、と宥めた。また街の人が来たら大変だよ。

 って言うか十分楽器と意思疎通出来ちゃってるよね、和純ちゃん。楽器にも歌職人にもなれるなら、それは本当、妬ましい事だ。

「ピアノはもう調整終わってるんじゃないの? 告実」

「そうなんだけど持ち主がここでもっと曲を覚えて欲しいらしくて引き取ってくれないんだよ。和純ちゃんが来てからは特にそう言う楽器が増えて、正直工房狭い」

「えーと、ごめんなさい?」

「謝らなくて良いよ。ふふふふふ」

「? なんで笑う?」

「だって最初に来た時にはあんなにつっけんどんで、うるさいうるさい言ってばかりだった和純ちゃんだからね。ちょっとは心を開いてくれたのが嬉しくて」

「なっ」

「楽器達に」

 かあっと赤い顔になった彼女に楽器達もそれぞれに笑う。

「笑うなっ」

「でも本当の事だもん。嘘は吐けないよ。楽器は楽器に嘘を吐けない、その音色に賭けてね」

「私はまだ楽器じゃない」

「十分に楽器だよ。歌を楽しむことを覚えてしまった、貪欲な楽器の一種類が、人間って言われるんだからね」

 ぐぬぬっとなった和純ちゃんは、だすだすと足音荒く客間に下がっていく。ホルンが音を鳴らしたのに、僕はでしょう? と同意を持ちかけた。

 あんな感情豊かな楽器は、きっといない。

 あんな素敵な歌職人は、どこにもいない。

 さてと、と工房のドアを開けると、いつの間にかそこにはクッキー缶が置かれていて、銅貨が何十枚も入っていた。『運命』は響いただろうからなあ。こっそり聞いている人もいたんだろう、結構な数。くすくすくすっと笑ってしまう。彼女がどうやって独りでいようとしても、周りが彼女を放っておかないだろう。あの歌を、音を、楽器を、放っておかないだろう。そうして彼女も放っておけない。自分と同じような境遇の僕や威紀を放ってけない。多分彼女の世界では片親と言うのが犯罪を犯す確率が高かったんだろう。そう見えないように彼女は真面目にやって来た。でも母親の客がクラスメートの父親だったことからすぐに噂は広まった。

 だから彼女は僕の絶唱帯が気に入らない。絶対多数に負けた印が気に入らない。

 親に振り回されている点では威紀も気に入らないんだろう。逃げようと思えば逃げられるし抵抗できる年頃だ。それは幼い頃から続いていた虐待の延長だから、抵抗できない。ただ小さくなって耐える子供の頃から進歩できない。それが彼女には悔しくも苛立たしい。自分と同じ、だから。

 それでも決定的な所で、彼女は踏み込めない。傍観者でいることしか出来ない。それが自分の領分だと解っていぐらいには、彼女は賢しい。だからもどかしい。それが歌に出ているのは、秘密だ。僕の詩に出ていることも。うまく隠したつもりだけど、トライベル師匠には見え見えなんだろうな。もっと婉曲にしないと。思いながら僕はいつか威紀に渡された貯金箱にクッキー缶の銅貨を入れて行く。チャリンチャリンと鳴る音に何となく自己肯定を見出してみる、僕であった。

 そう言えばこのクッキー缶、マダムのお気に入りのと同じ奴だな。


 予感は的中して、マダムのホールでコンサートを開かないかと持ち掛けられたのは三日後だった。

 楽器もホールも全部マダム持ち、やりたい事はデュエット。ほほうと感心したのはトライベル師匠の方で、和純ちゃんはぽかんと呆気に取られていた。

「あなたみたいな楽器と歌えたら、とっても素敵だと思うの。お願いできないかしら、和純ちゃん」

 街の人に和純ちゃん扱いされるのにももう慣れていたところで、デュエットのお誘い。多分王様もこっそり忍び込んでくるだろうマダムのホール。そして何より。マダムと言う『楽器』との共演。

 それは興味深くも断りづらいだろう。

「……曲は、何を?」

「それはあなたに合わせるわ。異世界の音楽でも良いし、こっちの音楽でも良い。どっちにしろ奏でられるなら、私には重畳の事だからね」

「じゃあ……ラプソディ・イン・ブルーと、運命と、バースデーソングで」

「あなたは三曲が好きなのねえ」

「それ以上心臓がもたないだけです。すみませんが」

「すまない事なんてないのよ和純ちゃん。あなたは私の提案を受け入れてくれた。それだけで嬉しいわ。ありがとう。仕切りは威紀ちゃんにまたお願いできるかしら?」

「喜びますよ、あいつ。顔の傷は殆ど治って来てますし」

「それは良かった」

 ほっとしたマダムにこちら風に書き換えた楽譜を渡し――星のインクの便利な所だ、楽譜さえも対象に入る――るんるんしているマダムを見送って、和純ちゃんはもしかして、と僕に問いかける。

「私、見世物にされている?」

「うーんちょっと違うと思うかな。珍しいのは本当だけど、みんな君の音が、君が、好きになっちゃっただけだと思うよ」

「なっばっ、ばっかみたい!」

 照れると出る言葉遣いの懐かしさに、僕は笑う。

 その馬鹿みたいな優しさが君を助けているんだよ、世界という悪意から。

 異世界と言う君にとっては善意の国へ。

 僕も『翁」の『女』面に出会えたら、喉が爆発しない世界に行けるのかな。

 ――馬鹿馬鹿しいや。僕は今のこの生活に満足している。そうとでも思わなければやっていけないと思っていたけれど、今は本当にそうなんだから笑えて来る。和純ちゃんと一緒の生活が楽しいんだから、笑顔になれる。台所に立って一緒に料理して。野菜は同じなんだな、って言うから動物も大体は同じだと思うよ、と言ったら驚かれて。

 だってここは異世界。

 彼女のいた世界と分岐しただけの、並行世界なんだから。


 工房の楽器達とセッションして音を確認しながら、和純ちゃんはよしっと笑う。笑うことが増えてきたのは良いことだと思う。ざんばらにされて片方の三つ編み。世界のすべてを拒絶するようだった小動物めいた反応、それらが抜けて行っているのはとても良いことだと兄弟子ある僕は思わなきゃならないんだろう。どんなに妬ましくても、そう思わないと。僕の詩の依頼も少しずつ増えていて、これは本格的に音工房の方の看板を下ろさなきゃいけないのかしれない。でもそうするどセッションしてくれる楽器達がいなくなるから困りものだ。ただ預かるんじゃなんだか泥棒のコレクションみたいだし、ちゃんと持ち主に返してここで覚えた音も奏でて欲しい。小さなホールでの演奏は出来るけれど、それまでだし。言ってしまえば。マダムのホールなら全員入れるかな。それでもピアノは無理そうだけど、一応持って行こ。せめてアップライトならねえ、と慰めるけれど、これで良いの、と返されて大人だなあと思わされる。楽器の中には僕より年上なのもいるから、ピアノもそうなのかもしれない。良く磨かれてつるつるした表面を再度拭き直すと、スピカリアのハードレッスンを受けている和純ちゃんの声が聞こえた。そろそろこっちの音階も覚えてきたころだけど、僕としては『異世界の楽器』でいて欲しくて、ちょっと不満もあったり。

 でもマダムの顔に泥を塗るわけにはいかないと頑張ってるのは良い事だ。今回は詩職人見習いとしての出番がない僕は、のんびり楽器の調整をする。歌いまくっているから、そう調整を必要とする楽器が無いのが本音だけど、一応ね。今の僕の仕事はこれなんだし。その辺に浮かせてある電話を取って持ち主たちに電話を掛けるけれど、一様にみんな断って来た、異世界の音をもっと覚えさせてから返してくれ、と。そう言えば王宮でのレコードはそろそ販売になっている頃だろうか。チューバを拭いてから銀行に残高を調べに行くと、

 ……そこそこすごい額になっていた。


 楽器をいくつも新調できる額になっていたけれど、和純ちゃんは慣れた楽器との対話を楽しんでいるからそれはいらないだろう。せめて豪華な夕飯にしようと僕はそのまま街に出る。と、よう、とか、ハィ、とか、声を掛けてくれる人が増えた。いつかの和純ちゃんみたいに反応の仕方が解らなくてぺこりと頭を下げる。さて何を作ろうか。ローストビーフじゃサンデーダイナーだしなあ。鳥の丸焼き? スタッフィングぎっしりで。師匠も帰って来てるから丁度良いだろう、僕は丸鶏を買ってバターやスタッフィングも買い入れる。お祝い事かい? と肉屋のおじさんに聞かれたので、はあ、まあ、と曖昧に答えた。和純ちゃんのレコード売り上げ金貨千枚突破記念なんです、とは言えない。この街では久しぶりのミリオンヒットだ。PV作ろうとか言う話が出たら絶対嫌がるだろうなあ。その顔もその顔で見てみたい、意地の悪い兄弟子です。えっへん。

 そんな意地悪の僕は台所に立って鳥の腹にまずはバターをぐりぐり突っ込む。鼻歌が出そうになって慌ててやめた。こんなとこで爆死したらトラウマ物だよ。主に和純ちゃんの。その和純ちゃんの声が響いてくるのに、僕はにんまり笑う。スピカリアの調整で随分綺麗に音階移動が出来るようになっているみたいだ。やっぱり歌いたくなって、それを堪えていると、なんだかちょっとイライラしたりもして。

 オーブンに丸鳥を突っ込んでから、僕は自分の部屋に行く。私物のフルートは待ち焦がれていたように僕の手に吸い付いてきた。お前もやっぱり加わりたいよねえ。ハーモニカは流石に一緒に吹けないけれど、今日は我慢してもらおう。

 僕は目を閉じてフルートに息を吹き込む。

 うきうきと鳴ってくれるそれは、運命どころか宿命も天命も弾き飛ばしそうな勢いだった。そう、僕の運命なんてちっぽけなものを。こうしているだけで幸せなのを、忘れちゃいけない。絶唱。それで良い。ハーモニカもフルートもチューバもトロンボーンも僕には吹ける。それを教えてれたのはトライベル師匠だ。だから良い。良いんだ。僕は。こんこんこんこん、と小さなノックに、僕は口を離してドアに向かう。するとスピカリアが飛んでいて、とっても楽しそうだった。ぢくんっとするのは自分の胸。彼女のように喜怒哀楽すべてを外に出せたら、どんなに幸せだろう。

「告実ちゃんも一緒に遊ぼうって和純ちゃんが言ってるの! 告実ちゃんも一緒に来るのー!」

「え、ちょ、困るよスピカリア! 僕はただちょっと一緒に演奏したいと思っただけでっ」

「それのどこが、一緒に遊ぶのと違うの? 壁一枚隔てないだけじゃない」

 ぐぬぬ。

「和純ちゃん、レッスン始めるのー!」

「も、ちょっと、休ませて、スピカ……」

「スピカ?」

「和純ちゃんの世界にある星の名前なんだって。愛称だって、付けてもらったの! 告実ちゃん羨ましーい?」

「僕じゃグミが良い所だからね。まあ素直に羨ましいと言っておこうかな」

「告実ちゃんが本音言ったの! 珍しいの!」

「どんだけ嘘吐いてんだ……」

「肝心な時しか言わないよ。嘘もほんとも」

「今は肝心な時なの?」

 ぐぬぬぬぬ。

「まあ、兄弟子としてちょとはね」

「兄弟子……そっか、トライベル師匠に弟子入りするってそういう事なんだ。告実先輩おなしゃーす」

「ちっとも敬意を感じない!」

「良いからレッスン始めるのー! スピカリアの弟子なんだからー!」

「え、そうなるの?」

「トライベル師匠の歌の師匠ってスピカリアだからね」

「流石五千歳!?」

「いーからさっさと始めるの」

 冷めた声で言われ、僕と和純ちゃんは姿勢を正す。

 この冷めた声で師匠をビシバシしごいていたんだと思うと、ちょっとそれは笑えた。

「じゃあ運命からなの! ピアノちゃんお願いなの!」

 あのフォルテッシモが響き――。


 次の日声をガラガラにした和純ちゃんに、持って行ったのははちみつを溶かした人肌のレモネードだ。スピカリアのレッスンはスパルタなのに、ちょっと頑張り過ぎたんだと思う。それでも自分は平気、と言う辺り、彼女たち歌職人は頑丈だ。自分を楽器に作り替えてると言って良い。威紀やマダムはまだそこまで到達していないのか、出来ないのか。マダムを見るに、多分人間は楽器になれないんだろう。完全な楽器には。なってしまえばそれは絶唱者になると言う事で、僕はその類なんだろう。赤ん坊の頃から騒音楽器。親が三歳まで育ててくれたことに感謝をすべきなんだろう、僕は。でも結局は物心つく前に捨てられた。トライベル師匠の元へ。絶唱者の研究をしていた彼の元へ。

 ちなみにその研究はまだ終わっていないから、僕は論文も読んでないけれど。多分死ぬまでそうなんだろう。僕が死んで絶唱帯を外すところまでが、彼の研究。良い気分じゃないけれど、と自分の分も意味なく作ったレモネードに口を付けると、ちょっと甘すぎた。

「ごめん。迷惑かけて」

 ベッドに身体を起こしてこくこくこくっと一気に半分ぐらい飲んだレモネードに、まだちょっとガラガラの声をしている和純ちゃん。良いんだよ、だって僕は君の兄弟子なんだからね。言うとちょっと顔を赤くして、僕の顔も赤くなった。

「やあ、お邪魔かな? 告実。和純君」

 ドアが音もなく開いてて、そこにいたのはトライベル師匠だった。びくっとなるのはお互いで、別に疾しい事もないのに両手でコップを掴んでしまう。温かい。それにちょっと安堵してから、僕は彼を呼ぶ。師匠。

「変な気を回してもらわなくても大丈夫ですよ。和純ちゃんの喉も明日には治っているでしょうから、少し休んでスピカリアに抑えたレッスンしてもらって、そしらマダムの演奏会には丁度良いでしょう」

 ベッドに座っている和純ちゃんも、こくこくと頷く。なら良いけれどねえ、と師匠はちょっと呆れた風にする。

「スピカリアのハードレッスンを一日も受けるなんて、学生でも音を上げる事をしたんだから、私はちょっと心配して来たんだよ。歌職人は歌にうるさいだけあって、拘りも強い。ことスピカリアみたいな長生きの子ならなおさらね」

「えっと……スピカリアが五千歳で師匠の師匠で、師匠は王様に教えていたことがあって……」

「はっは、年齢なんて些末なことだよ和純君。歌えるようになったら私の部屋に来ると良い。少し喉をいたわるような薬を上げよう。ただし一日声は出せなくなるが」

「意味ねえ……だったら今から取りに行きます」

「告実、君もおいで。昨日のローストチキンのご褒美に、良い物をあげよう」

「あ、はい」

 そうして辿り着いたトライベル師匠の部屋は、比較的片付いていた。論文を書いてる時期はあちこちに色んなものが散らかって浮かんでいるから大変なのだ、掃除が。何を無くするか解ったもんじゃない。

「まずは和純君だね、はい。一粒だけだよ」

 遮光グラスの瓶には、僕には読めない字が書いてあった。

「それと告実にはこれを」

 少し小さめの瓶には――

 『絶唱無効化薬』、と書いていた。

「師匠これっ」

「まあまだ実験段階だけれどね。君にも一粒それを上げよう。使うタイミングは自分で選ぶと良い。ただし一度使ったらもう効果は出ないから、そこは気を付けるように。さ、和純君は今日は一日ゆっくり眠ると良い。告実、行くよ」

「は……い」

 もしも歌えるのならば。

 あの歌が歌いたい。

 自意識過剰でも。

 僕が詩を付けた、歌を。

 思いっきりに、歌いたい。

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