第6話


「告実」

 朝食の片づけを終えた次の日、工房に向かおうとする僕を和純ちゃんが遠慮げに引き留めた。夜っぴて続いたオーケストラでお互い腫れぼったい目になっているけれど、あんまり気にしないようにしよう。観客一人のオーケストラで、彼女はその一人だった。途中で寝ちゃっても良かったのに、最後までついて行って、ぱちぱちと称賛の拍手をされた。それで大分機嫌の良くなった楽器達もいるから、早めに調整しておきたい。

「こっちの曲、どこで教えてもらえるか教えて欲しい」

「ほ」

「ほ?」

「いやそう来るとは思わなくて」

 一番いいのは調律屋のマダムだけど、一々髪型が変わるからなあ。あ。そうだ。

「スピカリアに訊いてみると良いんじゃないかな。あの子あれで歌に関してはエキスパートだし」

「どこにいる?」

「いつもならトライベル師匠の部屋」

「ありがと」

 とてとてと走って行った彼女は、大分浮かれた足取りだった。

 スピカリアのスパルタレッスンに付いていけるかな、とちょっと心配になるぐらい。

 歌に関しては本当に厳しいからなあ、歌職人ってのは。

 それにしても、ありがと、か。

 少しは心を開いてくれるようになった、って自惚れても良いのかな? これは。


「違う! 半音ずれてる!」

「あー…」

「よし、次はらー♪」

「らー……」

「全然違う! 低い! 和純ちゃん、声低くする癖がある! だから正しい音が出ない! もう一回!」

「らー♪」

「ほら出せるじゃない! じゃあさっきの所から続けて行くよ! ららららららららららー♪」

「ららららららららららー……」

「まだ遠慮がある! 音は恥じらったら負けだよ! ららららららららららー♪」

「ららららららららららー♪」

「すごく良い! えらい! じゃあ次!」

「解ったからちょっと休ませて……」

 スピカリアのレッスンでへろへろになっているのを見越してジュースの差し入れに行ってみると、案の定ヘタレた姿が見えた。リンゴジュースを差し出してみると、ぐびぐび飲んでいく。柑橘系は疲れた喉に良くないかなと思ってジューサーに掛けたんだけど、当たりだったみたいだ。スピカリアも専用の細長いストローを使ってちるちる飲むと、ふはーっとなっている。花から蜜を吸う蝶みたいだな、とはいつも思う事だ。

「りっんごっのジュースは甘い甘ーい♪ 喉に優しくて気持ち良いー♪ さあ続けるよ和純ちゃん!」

「も、もうちょっとだけ……」

「だめーっ! 覚えられるうちに覚えなきゃダメ!」

「良かったら手伝おうか?」

 和純ちゃんに絶望的な眼で見られる。違う違う。君の方。

「ハーモニカの方が音色解りやすいかなってね」

「でも工房、」

「我儘なのは大体やっつけたから、こっちにかまけてても少しは平気。ちょっと待っててね、ハーモニカ持って来る」

「じゃあその間に一曲通して歌ってみようね、和純ちゃん!」

「全然休めてない……」

 そして僕もハーモニカで手伝ったのは、こっちでも簡単なわらべ歌だった。

 楽譜は向こうと違うから読めなかったらしい。それにしても一日一曲、異世界の音階で覚えられたのは十分に凄いと思う。工房でトライベル師匠とスピカリアと威紀と僕を観客に、彼女はぺこりとお辞儀をしてから歌い出す。

 リンクしていくのは楽器達。入りたかったら入ってね、と言っておいたけれど、一小節目から入って来るのがいるのは流石に意外だった。そうしてだんだん増えて、最後にはオーケストラレベルになって、終わり。ぱちぱちと拍手をしてみると、トライベル師匠は彼女と握手をし、そして何か渡したようだった。きょとん、としている彼女に、スピカリアは財布を持って行く。なるほど、貨幣経済。彼女には音の価値が解らないから、金貨を渡したのか。それも価値は解らないだろうけれど。威紀は骨董市で見付けた向こうの楽譜を渡す。ふむ、僕だけ何にも用意していない。せめての拍手も長続きはしない。そうだ。

「和純ちゃん、ピアノは弾ける?」

「弾ける、けど、一応」

「じゃあさっきの威紀の楽譜、弾いて見せてくれない? ピアノの音階は向こうと同じだからさ」

「……指固くなってても良いなら、やる」

 ピアノって弾かないと指が硬くなるものなのか、知らなかった。

 和純ちゃんは陽気なピアノにドレミファソラシドで歓迎され、ビクッとしながらも楽譜台に古い本を置く。それから何度か指を確かめるように置いて―――曲は、始まった。

 後から聞いた話だとその曲はラプソディ・イン・ブルーというらしかった。華やかな曲に楽器達も堪えられず入っていく。その乱入に驚きながらも、彼女は一定のリズムを崩さない。そして終わった曲には、僕達は茫然とするしかなかった。異世界の音楽はこんなにも華々しいのか。それを弾ききる和純ちゃんにも驚きだ。ああ、こんな曲に詩を付けてみたい。詩職人見習いの僕はうずうずしてしまって、思わず自分の部屋に飛んでいく。

「あれ。何かしたかな。告実」

「何、詩職人の発作みたいなものだよ。綺麗な音を聞いたらそれに詩を付けてみたくなる。それだけ君の曲が素敵だったって事さ」

「作ったのは別の人だし、楽譜を持って来たのは威紀でも?」

「そう。関係なく、机に向かいたくなる。さてこの楽器達も随分艶が増しているようだし、私が調整しておくとしようか」

「私は夜の街に向かうかな! こんな心地で歌いたい歌が歌えたら最高だ!」

「さすがはスピカリアの弟子なのー! 和純ちゃん、明日はもう少し複雑な曲も覚えるの! そしたら楽器達ももっと艶々になってくれるの、それに私は素敵な歌は大好き! 絶対すごい曲歌わせてあげるね、和純ちゃん!」

「これが楽器扱いだとしたら、すごいスパルタですね……」

「まあ、それがスピカリアの良い所だと思ってくれれば嬉しいね。ちなみにさっきの金貨。君の国の価値では一万円と言ったところだ。上手に使うようにね」

「半額で良いです。むしろ三分の一でも良いです、トライベル師匠」

「まあ、そう言わず何かに試してみておくれよ。それと私を師匠と呼ぶのはまだ早いな。もうワンステップ、と言ったところかな?」

「はぁ……?」

「まあ、明日には解るだろうさ」

 師匠は笑う。くすくす笑う。

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