第10話


 さかのぼる事少し前。晶が瀬奈の前から逃げ去った時のこと。


 逃げるように立ち去る晶の背中を、瀬奈には引き留めることが出来なかった。思わず伸ばした腕だったが、よりどころ無く宙をさまよう。


 「竜胆君……」


 呟くその声が晶に届くわけもなく、瀬奈は沈んだ気分のまま教室へ戻るしかなかった。

 教室へ戻る。ほとんど完成したお化け屋敷は、うずたかく積まれた机とそれを覆う黒く厚いカーテンによって見慣れた教室ではない重苦しい雰囲気になっている。

教室の完成度に加えて、お化け役の練度も二週間で十分な水準に持ち上げる事が出来たと瀬奈は考えている。だからこそ、余計にそこに晶がいないことが彼女にとって残念でならないのだが。


「ちゃんと謝りたかったな……」


 そう呟いた後で、瀬奈はずいぶんな身勝手だと自嘲した。飯島に押し切られる形でとはいえ、最後の一押しをしたくせに。

 晶が立ち去った後で、瀬奈は顔と態度にこそ出さなかったものの、ずっと晶への申し訳なさと自分の犯した愚への後悔で頭がいっぱいだった。翌日文化祭を控えた今日までこうして居残っているのも、少しでも手と頭を動かすことで晶への罪悪感から逃れたかったから。教室でやることなどもうない。だらだらとやらなくてもいいような細かい作業をこじつけてはこなし、そうして晶へきちんと向き合わないでいる自分にまた自己嫌悪するという悪循環に陥っている。


 「はぁ……」


 ため息を吐いたところで何かが変わるわけでもない。それでも瀬奈にはせめて心の内に抱えたものを吐き出そうとこの後も幾度となくため息をつくのだった。



 「どうしよ。ホントに何もやれなくなっちゃった……」


 瀬奈の現実逃避も長くは続かなかった。晶が立ち去ってから数十分。そもそも完成にこぎつけていたお化け屋敷は、もはやどんなに探しても直すべき粗一つない完璧な状態になっている。

 手持ち無沙汰になった瀬奈の頭が再び湧き上がる晶への罪悪感や自己嫌悪に蝕まれる。気を紛らわせようとあかりの落ちた暗い廊下の中をとぼとぼと徘徊してみても、何の慰めにもなりはしなかった。


 「竜胆君……」


 呟く彼女に答えたのは教室の中から響いてくる音楽だった。瀬奈のスマホが、何重にもカーテンが張り巡らされたくらい教室の中から響いているのだ。


 「あ、作業の邪魔だからポケットから出してそのままだったんだっけ」


 うっかりスマホを忘れていたことに今更気づいた瀬奈は、教室の中にいくつか通してあるスタッフ用の抜け道を通るとスマホの下へたどり着く。そしてそこで、着信音がいつもとは違う、専用に設定していた音楽が流れている事に気づいた。


 「竜胆君!」


 連絡先を交換したとき、すぐにわかるようにと瀬奈は人生で初めて着信音の設定をしっていたのだ。

 慌ててスマホを手に取る。だが、タッチの差で間に合わず、電話は切れてしまった。


 「あっ……」


 別に問題はない。履歴からさかのぼるなり、自分から連絡するなり、晶に電話を掛けるくらいいくらでもできる事。しかし、今の瀬奈にはそれがためらわれた。


 「スマホを切ったってことは……自分から、だよね」


 留守番電話を待たずに通話は切れた。それは、晶が自分から通話を切ったことを意味している。

 きっといつまでたっても出ない瀬奈にしびれを切らして通話をやめたのだろう。そのことで怒っているだろうと瀬奈はそう思った。


 「で、でも何か急ぎの用事かもしれないし……」


 震える指が番号を入力していく。とうとう緑色の通話ボタンを押そうという段階になったところで、瀬奈の指は硬直した。

 怒鳴られやしないだろうか。冷たい声を浴びせられやしないだろうか。その心配に至ったところで、瀬奈は自分勝手になってしまった自分自身に気が付いた。


 「やっぱり……良くない、よね」


 わが身可愛さに晶ときちんと向き合わない。それこそが自分が犯した間違いであり、内心でもそのことに気づいているからこそ、こうして苦しいのではないのか。

 なら、怖くても向き合わなくては。きっとこのきっかけを逃せば、もう二度と晶と向き合えない。

 とうとう親指が通話ボタンに触れる。晶は数回のコール音の後ですぐに応答した。


 「あ……。鵜飼……っ、鵜飼!」


 晶の声は、瀬奈が想像ていた様子とは違っていた。怒るでもなく冷たく突き放すでもない。鬼気迫るような焦燥を思わせるうわずった声だった。


 「竜胆君? あの、ごめんね。すぐに着信に気づかなくて――」

 「そんなのはいい! 早くそこから逃げろ!」

 「え?」


 逃げる? 本当にいったいどうしたというのだろうか。戸惑うばかりの瀬奈に晶は更にまくしたてる。


 「逃げろって言ってるんだ!」

 「な、なんで? いったい何が――」

 「いいから!」


 焦りの声がだんだんと苛立ちを含みだす。ああ、やっぱり彼は庇わなかった自分に怒っているのだ。そうとしか瀬奈には考えられない。


 「ひょっとして、怒ってるの? その、あのことは私が――」

 「ああチクショウ! 暴走族が来てるんだ! 早く学校から出ろ!」

 「暴走族……? あ」


 窓の外に光が見えた。視線を向けると、バイクのヘッドライトらしきものが全部で五台分、学校に近づいているのが見えた。


 「バイク……なんだろ、五台は来てると思う」

 「逃げろ鵜飼! あいつらの狙いはお前だ!」


 瀬奈の言葉を聞いたその瞬間、晶が叫んだ。


 「え? どうして――」

 「うわっ!!」

 「竜胆君!? もしもし、もしもし!」


 ガシャンッ、と通話口の向こうで衝突音が響いたのを最後に、電話は切れた。慌ててかけなおすが、返事はない。


 「やだ……うそ、竜胆君……」


 衝突音、つながらなくなった電話。晶の身に何か起きたというのは明らかで。もしかすると事故に巻き込まれたかもしれないと思うと瀬奈は気が気でない。

 だが、晶の身を案じる余裕は今の瀬奈にはない。五台のバイク集団が、校門の真正面からどうどうと学園の中に侵入してきたからだ。


 「逃げるって……狙いが私? な、なんで? 私、何もしてない――」


 一方、瀬奈は混乱のただ中にいた。焦りせかす晶の声。静かな夜の学校に突如侵入してきたバイクの集団。何が起きているのか理解することもできずにいた瀬奈だったが、晶の言葉を思い出してすぐに教室を飛び出した。


 「逃げる……えっと、正面玄関はもうあの人たちが来ている……、そうだ、体育館!」


 半田学園の体育館は玄関からはちょうど正反対の位置にある。そこを経由すれば裏口の門まで気が付かれることなく逃げ切れるはずだ。

 瀬奈の足が階段へ向かう。一番のリスクは瀬奈の居る教室自体が正面玄関のすぐ上にあるため一番遠い階段を使っても急がなくては見つかってしまう可能性が高いという事だ。だが、そのリスクを恐れて躊躇して居られる余裕は今の瀬奈にない。

 ほとんど落下するかのようなスピードで階段を駆け降りる。スマホのライトだけという乏しいあかりだけを頼りに二階を突き抜けて一階へ。どうやら運が良かったらしく、暴走族たちはまだこちらまで来ていない。或いは、明かりのともっている教室をまっすぐに目指しているために教室から遠いこちら側に気づいていないのかもしれない。

 だが、彼女の逃げ切れるという予想はあっけなく裏切られた。


 「お前ら、宿直か用務員のおっさんに警戒しろ。壮太、お前は後ろ。悠人と健は横だ」


 裏口がある方向。体育館に通じる通路から声が聞こえてくる。足音の数も一人や二人分ではない。暴走族の一団は校舎に残っている用務員や宿直といった大人を一人残らず無力化しようと表門と裏口から侵入し、包囲網を作り上げていた。


 「やだ、うそっ」


 慌てた瀬奈が後ずさりする。もはや暗闇に紛れてやり過ごす余裕もないほど一団は近づいていた。もう裏口からは逃げられない。

 来た道を引き返す。正面玄関から入ってきた連中は既に上の階に挙がったのではないか。だが、一階に響いた悲鳴が、瀬奈から希望をかき消した。


 「な、なんなんだお前たちは――」

 「どうしますか?」

 「動けなくしておけ。サツを呼ばれたら面倒だ」

 「ひっ、や、やめ――ぎゃっ」


 学校に残っていた教師が様子を見に来ていたのだろう。そして見つかり、警察を呼ばれないようにされた。殺されたのだろうか。殺されないまでも、標的でない教師でさえあのように痛めつけられるのなら、自分はどうなってしまうのだろうか。

 今更のように恐怖が瀬奈を襲った。足元があっという間におぼつかなくなる。全身がとめどなく震え、階段を上ることはおろか、手すりを掴むだけでやっとだ。


 「行くぞ。三階の明かりのついた部屋がそうだ。そこで鵜飼とかいう女を捕まえてシドウさんに引き渡す」


 声はどこまでも無機質で冷たい。足音と懐中電灯の明かりはこちらへと近づいてくる。

 逃げなくては。まるで狩人の集団に追い立てられる獲物のように、二階への階段を這いあがる。

 息も絶え絶えに二階へと逃げ込む。そのまま近くの教室に身を隠して息をひそめるとすぐにたくさんの足音が階段を上がってくるのが分かった。

 恐怖に瀬奈の眼が見開く。幽かな呼吸音一つ漏らすまいと意識すると自然と口が手でふさがり、熱い雫が人差し指の上に流れた。


 「二年B組の教室だ。急げ、夜明けまでには撤収する」


 どうやら集団は他の教室を探さずに真っすぐ瀬奈たちの教室を目指しているらしい。足音が過ぎ去った後で、緊張が解けた瀬奈は恐怖に涙をこぼしながらひとまず安どした。連中が三階の教室に気を取られている間に、急いで学校から逃げ切る。その後で、警察に駆け込んで先生たちを助けてもらえばいい。

 そこまで考えたところで、手元のスマホを使って今すぐ警察に通報すればいいことに気が付く。だが、ポケットに薄い四角形のスマホの感触はない。真っ青になった瀬奈は体中をまさぐるが、それでもスマホを持ってはいなかった。


 「うそ……うそ、嘘!」


 恐怖に囚われて全く気が付かなかったが、今にして思えば自分のスマホを自分でしまった覚えがない。きっと一階から二階へと逃げる際に落としてそのまま逃げてしまったのだろう。暴走族の一団に拾われていないらしい事だけがせめてもの救いだったが、一階に携帯を拾いに行く暇はない。


 「落ち着いて……落ち着いて……」


 瀬奈はポケットからガラスの瓶を取り出すと蓋を開けた。口から新しい空気が入ってきたとたん、中にある青色の液体があっという間に揮発し、ミントとソーダの匂いを混ぜたような香りが瀬奈の鼻腔を満たすと瀬奈の頭から恐怖が薄れ、少しの落ち着きと、体の震えを止めるだけの勇気が得られた。


 「はぁ……ふぅ……」


 ガラスの瓶を握りしめて深く呼吸をする。何度か繰り返した後、ふとある考えが瀬奈の頭をよぎった。


 「あの人たち、教室を壊したりしないよね……?」


 二年B組はお化け屋敷に改造されている。人が隠れるにはかなり都合の良い環境だ。だがそれゆえに、あの一団は瀬奈が教室に隠れていると思い込んで教室の中を徹底的に探そうとするかもしれない。

 徹底的な捜索。それが意味するものは一つしかない。まして彼らは部外者。明日行う文化祭などお構いなしに暴れていい身分でもある。瀬奈が晶に助けられ、クラスメイトの理解と協力を得て作り上げた結晶が台無しにされるのは火を見るより明らかだった。


 「危ない……けど、せめてあの人たちが教室を壊そうとするのかどうかだけ確認しよう」


 危険は百も承知で、瀬奈は教室を確認する事にした。彼らが教室を壊さないならそれでよし。もし教室を壊そうとしても、こちらに注意を引くことが出来れば教室から遠ざけることが出来るかもしれない。

 足音を忍ばせ、服が擦れる音さえ響かないように気を貼りながら慎重に三階へと上がる。男たちの姿は見えない。それでも緊張を解くことなく瀬奈は二年B組の教室に忍び寄っていく。


 「ここが二年B組か」


 先ほどから指図していた男の声が聞こえた。とっさに足を止めてそっと廊下の先を伺うと、電灯の消えた暗闇の中に黒づくめではっきりとは見えないが、少なめに見積もってもやはり十人はいる。見つかればただでは済まなかっただろう。


 「オイ鵜飼瀬奈ァ!! 出てこい!」


 突然、扉が壊れるのではないかというほどの強さで一人が教室のドアを乱暴に殴った。周囲の男たちも手にしていた金属バットやメリケンサックなどの武器を構え、指図をしていた男だけは姿勢を崩さないまま成り行きを見ている。


 「いるのはわかってんだ出てこい!」

 「隠れてんじゃねえぞオラァ!」


 男たちの怒鳴り声が廊下に響く。もし自分が本当にまだ教室の中にいて、突然あんなふうに怒鳴り付けられていたら身がすくんでいただろうと思うと身が凍る思いだった。

 だが、男たちの追及も長くは続かなかった。指図していた男が「やめろ」と一声呟いただけで、一斉に音が鳴りやんだからだ。

 不気味な静けさが満ちる。なぜだか瀬奈には、その静寂が先ほどの騒音よりもはるかに恐ろしいものに思えた。まるでなにか良くないことが起こる前兆であるような……


 「もういい。さっさと中を探すぞ」

 「わかりました」


 果たして、瀬奈の予感は的中する事になる。男の指示で教室のドアが乱雑に開けられる。中は当然黒い布の仕切りで覆われており、とても中を捜索できる状態ではない。


 「布は全部取っ払え。中の物も邪魔なら片付けろ。取り掛かれ」

 「っ!!」


 男たちの手が教室内の装飾にかかる。二週間の苦労が、力を合わせて作り上げたものが。何より、晶の助けが無駄になってしまう。そのことが、瀬奈をとっさに突き動かしていた。


 「やめて!!」

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