第7話
『いない方がマシ。それがあんたなのよ!』
わめく声が晶の頭の中に響く。言われなくてもわかっていることを言われることは、こんなにもつらいことだっただろうか。
『てかさー、夏休み挟んでから余計怖くなってない? こっちの耐性が消えたから?』
『おい女子―、言いたい放題すぎじゃねえか?』
『でもその通りだよな。あーもう、なんであんな奴と一緒のクラスなんだよ……』
うるさいうるさいうるさいうるさい。俺が、お前たちに何をしたっていうんだ。ただそこに居ただけなのに、どうしてそんなにもひどく言われなくちゃならないんだ。
『ちょっとなあ……』
『流石に今回のことは……』
もうやめてほしい。誤解なのに。驚かせるつもりも、まして制服を台無しにするつもりもなかった。ただ、みんなと仲良くなりたかっただけなのに。
無数の声。晶が時々見る悪夢。向けられた無数の視線が、いわれのない中傷が棘虫のように晶の頭の中で暴れる。苦しいが見慣れた悪夢だった。いつものように夢が終わるまで我慢すればいい。しかしこの日の悪夢は違った。
『……竜胆、くん』
『あのね……』
その声が現れたとたん、晶は夢の中で心臓が止まるかのような心地になった。一刻も早くこの悪夢から目覚めようと必死になる。声から耳をふさぎ、目を背けようと躍起になる。
『準備に支障が出るのは、その……困るの。だから――』
結局逃げることはできなかった。聞きたくない相手からの聞きたくなかった言葉。それは結局のところ、晶の心を殺すには十分すぎたのだ。
足元からガラガラと崩れていくような感覚。夢の終わりが近いことも察することが出来た。
夢から覚め、夢よりなお悪い現実に晶は引きずり出されていった。
「お兄ちゃーん? 今日も学校行かなかったのー?」
無遠慮に電灯がつけられ無造作に布団が引きはがされた。それでも晶は胎児のように体を丸めて目をつむったまま光をまぶしがることも、声の主の方に振り向くこともない。
「お兄ちゃん? 無視しないで―」
声の主は晶よりも幼い。まだ声変りをギリギリで迎えていない中学生の声だ。眠る晶を揺り起こす手も小さく、力もまだ優しい。
「お兄ちゃん? お兄ちゃーん? あれ、生きてる?」
「…………」
そう激しいおこしかたではなかったためか、それとも寝ぼけていたためか。晶はうかつにも居眠りを決め込もうとしてしまった。それが、彼女の怒りに文字通り火をつけることになることを忘れて。
「もう! お兄ちゃん起きてってば!」
「ぎゃあぁっ!?」
しびれを切らしてその口から吐き出した炎は、一瞬とはいえ晶を布団もろとも包むのに十分な大きさと激しさであった。
「おま、お前ぇ! 火代子! 家の中で火を吐くなって母さんにさんざん言われただろうが!」
「お兄ちゃんが悪いんだもん! 起きないんだもん!」
火を吐いてまで晶をたたき起こしたのは、可愛らしい中学生の女の子であった。晶と比較したとしても明らかに背が小さく、ちんまりとしている。母親譲りの栗色の紙も短めに切りそろえられて整っている。クラスで人気だという評判も納得の容姿と言えるだろう。
彼女の名前は竜胆火代子。晶とは四つ離れた妹で、肺から喉、口腔内にかけてが晶と同じくドラゴンのものになっている。先ほど晶にしたように火を吐くことが出来るほか、常人よりもはるかに大きく強い肺を持つおかげで、優れた肉体と運動神経を獲得。所属する陸上部では全日本大会で優勝し、他の運動系部活からも助っ人として駆り出されることがままあるという。
おまけに(外では)人当たりの良い性格であるおかげでクラスでは人気者。晶とは真逆の学校生活を送っているという。
「お前……クラスでそれ出してないだろうな……」
「心配しなくてもドラゴンの肺のことは隠してるよ。うまくやってる」
「いや、そうじゃなくて……まあいいや……」
クラスでは多分猫を被っているのだ。自分とは違って妹は上手くいっているらしいと晶はまた暗い気分になった。
「お兄ちゃん、わかってる? お兄ちゃんが学校に行かなくなってもう二日になるんだよ? 幼稚園から中学校まで皆勤賞だったお兄ちゃんがだよ?」
「前から言ってるだろ。体調が悪いんだって――」
「うそ。だってお兄ちゃん、学校をさぼってるだけでしょ? ゲームセンターとか図書館とかでお兄ちゃんを見かけたって私友達から聞いたよ」
火代子の言うとおりだった。ここ二日間の晶はと言えば、学校に行っていないだけで図書館やゲームセンター、お遣いなど普通に外へ出かけるには何ら問題ない様子を見せている。それは逆に言えば、晶自身が隠しているつもりでも学校で何か嫌なことがあったというのが誰の眼にも明らかな状態だ。
「学校に行くと死ぬ病……」
「じゃあとっくにお兄ちゃんは死んでるでしょ……ねえ、お兄ちゃん。もしかして……」
「目のことがばれたわけじゃねえよ。学校で少し上手くいかなかっただけだ」
そこまで話すと晶は再び布団の中にもぐりこんだ。もぞもぞと布団虫に退化しようとする兄を火代子ががっちりと掴んで引きずり出す。
「もう、今何時だと思ってるの!? もう夕方の五時だよ! 病気でもないのにこんな時間まで寝込んでいたら病気になっちゃうよ……」
不安と心配から泣きそうなほど顔を曇らせる妹に、今度は晶のほうが参る番だった。渋々布団から這い出して火代子に向き直る。
「大して面白くもないぞ」
「話してくれるの?」
「お前に泣かれて俺が母さんに怒られるのも嫌だからな」
晶は半田市のとある一軒家に妹と母親との三人で暮らしていた。父親がいないわけではないが、家を空けている事の方が多い。
父親は不在がち。三人中二人が女性ともなれば、必然的に竜胆家のパワーバランスは母と妹に傾いた。晶自身が譲るべき年長者であることも手伝って、晶は特に火代子に頭が上がらない。
「高校でもうじき文化祭があってな――」
「ふーん。つまり大好きな鵜飼さんが庇ってくれなかったから拗ねてるだけなんだ」
晶は全ての経緯を火代子に話した。瀬奈を助けたこと。一緒に文化祭の準備をしている時は楽しかったこと。そして、最後には裏切られるように追い出された事。
その全てを聞き、理解したうえで最初に言った第一声がこれである。『庇ってくれなかったから拗ねているだけ』といわれると、流石に妹相手でも晶には不快だった。
「拗ねてなんかねえよ。あと大好きなは余計だ!」
「そう? なんかさっきよりも元気になってるみたいだし、何より鵜飼さんの話をしてる時はお兄ちゃん、眼がきれいだったよ? いつもとは比べ物にならないくらい」
「お前俺の眼なんか見てるのかよ」
「うん。外にいるときは死んだ魚みたいな目になってる」
サングラスをしていないとはいえよく見ているものだ。これで言葉の切れ味がどうにかなれば可愛い妹として素直に受け入れられていただろうにと晶は胸中で独り言ちる。
「でもさー、鵜飼さんって人は仕方なかったんじゃないの? 私もお兄ちゃんが他人の大事なものを盗んでごみに捨てるなんてことはしないと思うし、第一状況証拠しかないのに犯人をお兄ちゃんだと決めつけるのはひどいと思うよ。でも、その時はその飯島って人のいう事を否定できるようなものもなかったんでしょ?」
「ああ。そういえば、ずっと飯島のペースで話が進んでいた気がする」
「でしょ? お兄ちゃんを悪く言っているのはその飯島って人だけで、鵜飼さんだってきっと本心からお兄ちゃんを嫌っているわけじゃないよ」
「…………」
火代子のいう事ももっともだと晶は感じている。しかしその一方で、あれだけよくした瀬奈にすら最後には見捨てられたという思いから晶は諦めの境地に達しようとしていた。どんなに親切にしても、どんなに頑張ろうとしても、結局自分は普通には生きていけない。どうせつまはじきにされるのがオチなのではないか。
「また自分なんかどうせダメだって思ってるでしょ」
「思ってねえ」
「思ってる。お兄ちゃんはそういう拗ね方するでしょ」
「…………」
またむくれて黙り込んだ晶に火代子はため息をついた。今までも外で嫌なことがあった時に「どうせ自分なんか」とへそを曲げることはあった。だが、今回ほどひどく塞ぎこむ兄の姿を見るのは初めてだった。
「お兄ちゃん……おばあちゃんが言ってたこと、覚えてる? ほら、力に――」
「――力に吞まれるな。体のどこかが特別でも、等身大の人間だと忘れるな」
「覚えてるじゃん」
それは、二人の父方の祖母の教えだった。歴代竜胆家の人間の中で最も濃くドラゴンの血を受け継いで生まれたと言われた祖母。体の後ろ半分がほぼドラゴンのそれであり、激しい炎や斧の一撃すらはじく頑丈なウロコに覆われ、蝙蝠のような翼と尻尾までが全て揃っている。普通の人間の中で混ざって生きるにはあまりに異質な体を持った人だったが、その最期は愛する夫と子供たち、孫たちに囲まれて天寿を全うする大往生であった。葬式にさえ、多くの友人が駆け付けていた。
だが何より凄いのは、葬式にきた友人たちは皆祖母の素性について知った上で祖母を受け入れた普通の人間だったことだ。事実、火葬のあとで焼け残った多くのウロコが、友人たちの希望と祖母の承諾により形見として分配されている。
「やたら念入りに言われたからな。どんな声をしていたかまで思い出せる」
「今のお兄ちゃんはどう? おばあちゃんの言いつけは守れてる?」
そう問いかける火代子の声に、ふざけた様子はない。普段は生意気盛りでも、この時は真剣に晶の身を案じている。
だが、その問いかけに晶は何も答えなかった。守れていない。守ることなど出来ないことは晶自身が一番よくわかっていた。
「俺は、お前やばあちゃんとは違う。二人のそれは、見られないように隠せばいいだけだろ。そうすれば、普通の人間を装える。ばあちゃんが受け入れられたのだって、俺みたいな問答無用の威圧感は無かったからだ。でも、俺の眼はどうやっても誤魔化せないし、威圧感だってどうやっても消せない」
等身大の人間だと忘れるな。晶はその言葉を、そう解釈していた。たとえ体に異常があっても普通の人間のフリをし、人に親切にしていれば祖母のように受け入れてくれる人が現れて幸せになれると。
しかしそれは、見た目が云々以前の問題である晶にはそもそも無理な話だった。見た目をどんなに装っても鋭いドラゴンの眼から放たれる威圧感だけはどうにもならない。だから誰かに親切にしようとしても受け入れられることはなく、助けてやっても最後は切り捨てられる。怯えられて、離れていく。
「目に障害があるって嘘をついて、サングラスをかけてもこのザマだ。せっかく仲良くなりかけてもすぐにみんな怖がって離れていく。もういいんだ。ほっといてくれよ火代子。俺なんか――」
「うぜぇ!」
「ぎゃああ!!」
ウジウジといつまでも陰気な晶の態度に火代子はいい加減我慢の限界を迎えていた。怒りに任せた火炎放射を、晶はすんでのところでかわすことに成功する。
「火代子っ、だから家の中で火を吐くな!」
「うっさい! お兄ちゃんがウジウジうざったいのが悪いのよ!」
火代子の顔は怒りのあまり吐いた炎よりも赤くなっていた。その剣幕にさすがの晶も退くしかない。
「あーあー! 立ち直らないなら心配なんかしなきゃよかった! 私の時間返してよ! じゃなきゃコンビニでプリン買ってきて!」
「ハァ!? てか夕飯前だろ! 夕飯前にお菓子なんか食うなって母さんに――」
「聞いてなかったの!? お母さん今日は集会の会合に行ってていないんだよ?」
「え?」
集会。それは竜胆家の者のように人間でありながら人間でない存在の血を引く者たちの集まりである。定期的に会合が開かれていろいろと話し合うらしいが、なんとそれは今日だったようだ。注意する母親が不在なら道理でいつもより三割増しで態度が大きいはずだと晶は納得した。
「そんなのも聞いてなかったか、聞いてても忘れるほど塞ぎこんでたんでしょ! それがうざったいの! ほら出てって! プリン買ってくるまで帰ってこないで!」
「ちょ、待てって――」
「カァァァァ!!」
「馬鹿やめろ! わかった! 買ってくるから!」
火代子の喉が赤く光る。吐き出される炎から逃げるように晶は自宅から飛び出した。
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