第5話

 「なあ鵜飼、最近飯島の様子はどうだ? 何か変わった事とか、なかったか?」


 だしぬけに晶が瀬奈に切り出したのは、授業が終わりこれから三日後に迫った文化祭に向けて準備の続きを始めようとしていたまさにその時だった。


 「え? 飯島さん? うーん……特にない、かなぁ。最近は私の頼みも聞いてくれるし、準備の邪魔もしてこないし。すごく助かってるんだ。最近だと、材料の調達や道具の用意も進んでやってくれるし」

 「そうか。それならいいんだが」


 晶がこのことを聞いたのは、遠藤から『飯島に気をつけろ』と警告を受けたからに他ならない。晶自身も、飯島の大人しさには不気味なものを感じていたところだったので、これを機にと真っ先に被害を受けそうな瀬奈に声をかけたのである。


 「飯島さんがどうかしたの?」

 「いや、あいつは前にお前を詰っていただろ? だから、また何かされているんじゃないかって心配になったんだ」

 「そうなんだ。ありがとう竜胆君。でも、私なら大丈夫だよ」


 用意しておいた言い訳に瀬奈は納得すると笑顔を見せた。今ここで飯島が蛮手盗に繋がりを持っている事を教えてもいいが、万が一こちらが警戒していると飯島に知られた場合、飯島が何をしてくるかはわからない。或いは、何もかも晶の考え過ぎで飯島は真面目に手伝うつもりなのかもしれないが、警戒するに越したことはなかった。


 「そうか。あいつが邪魔してこないならそれでいいんだが……。一応、何かあったらすぐに言ってくれ。飯島がやらなくてもあいつと一緒にいた……えっと……」

 「鳥塚さんと袋田さん?」

 「そう、そいつら。そいつらが何かしてくるかもしれないから気をつけろ」

 「ありがとう。でも本当に大丈夫だよ。それにね、私も少しは変われたと思うんだ」

 「変わった?」


 晶の問いに瀬奈は笑顔で頷いた。最初に出会った頃よりも、彼女は本当によく笑うようになったことを晶は知っている。こんな笑顔を、他のクラスメートたちにも見せるようになっているのだ。


 「竜胆君がそばにいてくれたおかげで、最近は私も自信が持てるようになってきたの。みんなが私を信頼して指示を聞いてくれるし、準備中じゃなくても前よりうまく話せるようになったんだ。だから、私なら大丈夫だよ」

 「そうか。それは……よかったな」


 確かに、今は準備中でなくとも男子に声を掛けられる瀬奈を晶もよく目にしている。笑顔を見せる機会も増え、少しずつ瀬奈が変化しているの事は晶にも感じ取れていた。先日瀬奈の後姿を遠く感じたのも、クラスメートと話せるようになった瀬奈と変化しない自分との間で晶が感じたギャップの表れなのかもしれない。


 「ううん、心配してくれてありがとう。じゃあ、今日も頑張らなくちゃ」

 「なあ鵜飼。提案があるんだけど、いいか?」

 「いいよ。どうしたの?」

 「今日の準備は一日お前と別行動で皆を手伝おうと思うんだ。まだ道具作りとか衣装とか、やることは多いんだろ? 俺一人だけ暇にしてるんじゃ皆に悪いと思うし」

 「うん! いいと思う! 竜胆君は力持ちだし、手伝ってくれれば喜ぶ人はきっと多いと思うよ。私のことは良いから手伝ってきてあげて」

 「わかった。ありがとう」


 うまく瀬奈から離れる約束を取り付けて、晶は表情に出さないまま期待に胸を膨らませた。実のところ、今言った事はただの建前である。瀬奈の変化を目の当たりにして、彼の胸中には希望が芽生えたのだ。

 自分も瀬奈のようにみんなと仲良くなりたい。友達になりたい。彼自身は自覚していないが、クラスメートと話せるようになった瀬奈が、晶の他人に対する考え方にも影響を与えている。つまり、自分も手伝いをして認められれば、クラスメートと友達になれるのではないかという希望が晶の目の前を明るく照らしているのだ。


 「でも一応何かトラブルが起きたらすぐに呼んでくれよ。駆け付けるからな」

 「わかった。心配ないとは思うけど、その時はお願いします」


 瀬奈が晶より一足先に歩き出し、晶がその後を追う。何気なく瀬奈の方に視線をやった晶の視界に、汗をかいたらしい制服のシャツ越しに透ける瀬奈の下着らしきものが見えた。


 「っ!」


 思わず目をそらしてしまう。下着のようなそれは真っ赤な色をしており、晶が思う女子の下着とは全く違う、かなり攻めている一品である様に見えた。


 (鵜飼の奴、あんな真っ赤な下着で学校に来てるのか……)


 指摘しようかしない方がいいのか。いや、今ここで晶が言わなければ、瀬奈はそうと知らないまま不特定多数の人間にあの派手な下着を見られてしまう。それはいけない。

 意を決した晶は、瀬奈に下着が透けている事を早く告げようとした。

 その時


 「っ!」


 晶の背筋に経験したことのないような怖気が走った。前に進んでいた足を無理やり方向転換させ、自分の背後を睨むように見つめる。


 「気のせい……なのか? まさか」


 誰かの視線に対しては、それこそ人一倍敏感になったと自負する晶である。瀬奈の下着に気を取られて気づくのが遅れたとはいえ、背後から誰かがのぞいていたような気がしたのなら、ほぼ確実に誰かがいたはず。


 「…………」


 意を決して、恐る恐る視線の発生源と思われるところへ向かう。ちょうど廊下の曲がり角。身を隠すのにも好都合なところから、誰かが晶と瀬奈を見ていたのだ。


 「いない……」


 しかし、晶がのぞいた時もうそこには誰もいなかった。近くにはトイレや階段があるくらいだが、自分たちを見ていた誰かを探すのも時間の無駄なように晶には思える。第一、もっと遠くへ逃げている可能性もあるのだ。


 「気のせいか……まさか飯島が? あいつ、鵜飼に何かしようとしてるんじゃ……」

 「竜胆君ー? どうかしたのー?」


 いつの間にかいなくなっていた晶を瀬奈が呼び戻しに来た。午後の予鈴が二人にもう準備を始めなくてはならない時間であるとせかすように鳴り響く。


 「いや、なんでもない! トイレに行こうか迷ってた。それより鵜飼、お前、下着が透けてるぞ。真っ赤なヤツ」

 「うそっ! やだ、見ないで!」


 誤魔化しを兼ねて晶が指摘したとたん、今度は瀬奈がおかしなことになった。ただ下着を見られただけの羞恥ではありえない、本気の焦燥と恐れが混じりあったような表情で晶を見返す。その様子に、晶はどこか覚えがある様に感じた。


 「お、お願い竜胆君! 今見たもの、絶対誰にも言わないで!」

 「え? ああ、下着だろ? 言わない。うん」

 「下着……? そう、下着! 絶対だよ!」

 「お、おう」


 着替えてくるとそれだけ言い残すと瀬奈はその場から逃げ去る様に姿を消した。瀬奈の妙な様子や先ほどまで感じていた視線の正体に後ろ髪を惹かれつつも晶はそれらの疑問はひとまず置いて教室へ向かう。そうして予鈴すらも鳴りやみ廊下が静まり返ったころ、女子トイレから一人の女子生徒が静かに現れた。


 「…………なによ、調子に乗り過ぎ」


 無機質な、しかし怒りと憎悪がにじみ出るような声だ。その声すら一瞬で消えると、飯島は口の端を釣り上げて呟いた。


 「わからせてあげる。アンタがどんな立場なのか。調子がいいのもここまでよ……」


 飯島はゆっくりと振り返るとそのまま消え去る様に歩いていった。



 本番まで残り三日を切っているだけあって、教室の中にはだいぶ物であふれかえる様になっていった。流石に翌日までは普通に授業が行われるため机の並びこそそのままの状態であったものの、もう壁や天井のような装飾できる部分はお化け屋敷のように改造されており、昼間であってもおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。晶自身も、忘れ物をして夜中にこの教室へ入るハメになるのは勘弁してほしいと感じる程だ。


 (飯島達は……大人しく作業してるな。あいつらを監視しながら作業するなら、同じ大道具作成を手伝ったほうがいいのかもしれない)


 そう考えた晶はさっそく何か手伝えることがあるか、大道具小道具を仕切る美作絵里に聞いてみる事にした。今は二年B組の教室が道具作成班の作業場となっており、美作もそこで黒く塗った段ボールに赤いペンキで血飛沫の模様を作っている。

 その様子を見つけた晶が美作に近づく。何か手伝えることはないか。そう聞こうと口を開くのと同時に、美作の近くで作業をしていた別の生徒が晶に気づいて叫んだ。


 「美作さん後ろ!」

 「え? キャアアア!?」


 悲鳴が上がる。美作はいつの間にか近づいていた晶に驚くとその拍子に派手にペンキが入ったバケツを投げ上げてしまった。

 プラスチックのバケツは赤色のペンキをあたり一面にぶちまけながら派手な音を立てて地面に激突した。幸いなことに、塗料を使う都合から教室にはあらかじめ壁や床を汚さないようにビニールシートを敷いてあったものの、ペンキを投げ上げた本人である美作とすぐそばにいた晶への被害は甚大だった。


 「うそ、竜胆さん!? ど、どうしてここに。鵜飼さんと一緒だったはずじゃ……」

 「いやあの、美作。それよりペンキが派手にぶちまけられてるんだけど、大丈夫か?」

 「え、あ、やだ、ご、ごめんなさい。本当にごめんなさい……!」


 美作が自分もペンキまみれであるにもかかわらず……いや、本当にペンキがぶちまけられた床の上に土下座をしようとしている。スカートの端がペンキに浸る寸前で、晶は美作の身体を無理やり抱き起した。


 「落ち着けよ! ペンキまみれになるだろ!」

 「い、イヤァァ!?」


 両手をわきに差し込み無理やり体を起こさせる。その様子を見ていた他のクラスメートたちはどよめきを隠せなかった。


 「お、おいアレ……」

 「そんな……鵜飼さんが見てないところで堂々と……」

 「お、おい、誰か止めろよ……」


 傍から見れば、後ろから忍び寄って作業中の美作を驚かせ、床を盛大に汚したように見えても仕方ないのかもしれない。しかし、いくら何でもペンキまみれになるのを止めただけでそこまで言われる筋合いはないはずだ。そう考えた晶は文句を言おうと口を開いた。


 「違う! 俺は別に何も―――」

 「ヒィッ!」

 「ヤバッ、聞かれてた……」

 「目ぇそらせ! 合わせるな!」


 瞬間、教室中の誰もが晶から目をそらした。目を合わせてはならない。機嫌を損ねてはならない。誰も一言も発しなかったが、心の中は一致していた。

その光景に、晶は今更のように自分がどうして嫌われていたのかを思い出す。


 (そうか……ドラゴンの眼……)


 最近、少しはマシになってきたのではないかと浮かれていた。瀬奈という自分を恐れない相手を得て、クラスメートたちからの恐れの視線が軽減されて、瀬奈が変われたように自分も変わることが出来るのだと思いあがっていた。


 「その……なにか手伝えることがあればと思ってきたんだが……」

 「そ、そう……なの? あの……ごめんなさい。ないです……」


 沈黙に耐え切れなくなった晶が美作に尋ねる。だが美作の返答は足も口もわなわなと震わせて、何かの許しを請うかのようだった。

 その様相を見た晶は一抹の不安を覚える。この怯え方は尋常ではない。文化祭の字準備が始まる以前の頃。その頃のクラスメートたちの反応とこれはほぼ同じなのではないか。


 「そうか……いや、邪魔をして悪かった。床の汚れは掃除しておくから、作業を続けてくれ」

 「いや、いいです! やっておきますから竜胆さんは他の所に行ってください!」

 「…………」

 「ヒィッ!」


 厄介払いか、あるいは腫れもの扱いか。どちらにせよ、晶がこの教室にいること自体が彼らにとって耐えがたい事なのだと言わんばかりの空気になる。


 「わかった……悪かった……」


 晶が言われるまま黙って出ていく。背中に刺さるのは恐れ、不安、しかも邪魔をしてしまったことに対する怒りの視線も。

 ただ、晶にはどうする事も出来ない。とぼとぼと晶はその場を歩き去ろうとした。


 「ちょっと待って。竜胆、アンタ確か腕力はあるわよね」

 「飯島?」


 だがその晶を呼び止める者がいた。飯島だ。飯島は晶を呼び止めると教室の隅に置いてあるゴミ袋を指さした。


「手伝う事っていってもゴミ出しくらいしかないけど、それでいいならやってくれる?」

 「ちょっと、飯島さん!?」

 「ああ。わかった……」

 「ええ!?」


 クラスメートたちが驚きをあらわにする。まさか最強の不良と恐れられる晶が、寄りにもよってゴミ出しなどという雑用を引き受けるなど、まして人の命令を受けて従うなどおよそ考えもしなかったからだ。


 「じゃあ、大道具やら小道具やら作っている間にゴミなんていくらでも出るからそれ全部捨てて。いいわよね? 美作さん」

 「え、ええ。じゃあ、お願いします……?」

 「わかった」


 のそのそとゴミ袋を掴んで持ち出す。さっさと出ていけという視線が痛いほど刺さるのが晶にはわかった。こんなふうに押し付けられ、追い出されるようにして出ていくゴミ出しで自分も、他人からの評価も変われるようにはとても思えなかった。


 「美作さん、あなた酷いわよ。ちょうど体育があったし、体操服にでも着替えてきたら?」

 「ああ……そうね。そうするわ」

 「竜胆、さっさと行って」

 「……」


 すごすごと晶は教室を出ていく。一着しか用意がないだろう美作の制服を、自分のせいで真っ赤に汚してしまったかと思うと、彼女への申し訳なさと、変わろうと奮起してもうまくいかなかった自分へのふがいなさで彼の胸は張り裂けそうだった。


 「どうして……俺には、そもそも無理なのか……」


 変わりたい。友達が欲しい。だがどんなに願っても晶の手には届かないのだ。どこまで行ってもドラゴンの眼による威圧感が何もかもを台無しにしてしまう。自分がどんな人間なのかをわかってもらう間もなく、誰もかれも離れていった。

 両手に持ったゴミに視線を向ける。誰にも見向きもされない自分に生きている意味があるのだろうか。まして、腐って嫌な臭いを放つ生ごみのように避けられる自分は、生きていても仕方ないのではないだろうか。


 「…………」


 その答えはまだ出ないまま、晶はとぼとぼとゴミ捨て場へ向かっていった。

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