第2話

「髪っていうのは……そうだな……水に近い。」

目の前に広がる青空に霞む宙港を臨みながら、カリーナはエクトルの返答と彼の腕が頭髪を揉む感触を吟味する。丘の草花と敷かれたシーツの白に照り返された日光が、少年と少女の肌を撫でていく。

「些細な部分を少し切り落とすだけで全体の印象が全然違って見えるんだ。髪の毛の流れが変わるのさ。水だとイメージしにくいから、もう少し広げると……海だな。頭髪は海。頭蓋を無数の髪の毛の流れが巡っていて、その中の一つの変化が、全体に波及する。鋏の一断ちで、海は荒れるし、反対に凪ぐこともある」

草が風に煽られる音に混じってエクトルの腰の鋏類がシャラシャラとした金属音を立てる。カリーナは、昨日の夜に練習したハープを思い出した。

「じゃあ、あなたみたいな理髪士は、さながら海を司る海神ってところね」

彼女はどれくらいの人がその出所を知っているのか分からない海の神の名前と、その姿を想像する。浮かんだ神の姿にくすりと笑いが漏れ出てしまい、その動きに手元が狂って戸惑う少年の姿にまたくすりと笑う。胸板の厚く、骨張った肢体に海藻のように髭と頭髪を垂らした、海の王。後ろで頭髪の手入れをする少年は、そのような野趣に富んだイメージとはかけ離れている。

無理矢理にでもイメージとの共通点を挙げるとすれば、肌の浅黒さと手つきの武骨さだろうか。

「そんな大層なものじゃないよ」

そう。洗練されていない。エクトルの指は、いつもおどおどした調子で、カリーナの髪に触れ始める。幾ら、特髪者の家系を相手にしているからといっても、五十回もやれば、もう慣れてきてもいいはずだ。エクトルの髪の扱い方は、散髪士の軽快さとは、正反対の地点にある。今まで見た散髪士が、パンケーキをひっくり返すように房を巧みに扱う一方で、エクトルは、やっと実った穀類を手の中で受けるようにしててすさむ。だが、そんな子供の粘土遊びを見ているような光景とは思いもよらない速さと精度を以て彼の仕事は終わる。理髪士の仕事は、散髪であるのと同時に舞踏でもある。多様な特質と形態を持つ特髪者の毛髪に、的確な戦略と稲妻のような機転で冷静に対処していく散髪士たちの立ち居振舞いは、ある種の華麗さを帯びる。その舞踏を見るために、数々の星系から鑑賞者が押し寄せることもあるが、一番それを見てみたいのは、切られている本人だ。だから、カリーナの両親も専用の鏡を、二百枚ほど持って、その手入れを怠らない。だが、カリーナにとっては、そのような舞踏にあまり興味は沸かなかった。幾ら計算された動きといっても、切られている側が少し首を動かしただけで、その軌道は大幅にずれる。どれだけ華麗でも、所詮は散髪だ。切られる側の気まぐれや不注意で、全てが狂ってしまう散髪なんて、なんだかつまらない。それよりも彼女は、目にしているような野原と空の上で、ときどき切る側にちょっかいをかけながら、手入れをされる方を好む。その点、エクトルは適任だ。彼は少女のちょっかいをちょっかいとして受け取ってくれる。少しのノイズではびくともしない理髪士はいる。だけれども、それだと駄目なのだ。こちらが、新しい軌道を与えたことに気づかせてくれる、そんな人材でないと、カリーナは満足しない。

カットが落ち着いたので、エクトルは指を鳴らす。傍にあった一メートル大の透明なゼリーが、その汎用の分子構造をダイナミックに流動させ、金色のノズルのついた白い洗面台に変化した。

「覆わないで」

ハンカチを少女の顔の前にかざしつつあった少年の手はびくりと止まり、目は少女の白い顔を見つめる。洗髪剤をつけた両手を後頭に滑り込ませ、温水で濡れた頭髪を掻き回していく。

顔と顔が、青空の中で向き合う。

二人の間を樟脳の薫りが流れていった。

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散髪 胆鼠海静 @nikyu-nikyu

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