散髪

胆鼠海静

第1話

彼女の髪には、神が宿っている。

気の遠くなるような高さに支えられている天蓋とそこから長大なドレスの裾のように優雅に流れ落ちる列柱の中で、エクトルはそう思った。その神のいます座を今から自分は解体しようとしている。仕事柄、テクノロジーと人よりも意識的に関わってきたせいか、彼は無神論者だ。だが、神が実際に宿っているか否かに関わりなく、彼女の髪にそのような神聖さを醸し出させる要因があることは疑いはなく、銀河をはみ出しつつある人類の社会秩序が、その種の幻想の上に成り立っていて歩みを進めていったことも事実だ。その幻想を生み出している構造を、一個人が感じる煩わしさと、その個人との間に結ばれた昔馴染みの関係を理由に破壊するのには、やはり気が咎めた。大理石様の組織の上で立てられる靴音は、木漏れ日のように射し込む光の綾の中に消えて、建物の巨大さをいやが上にも引き立たせる。視界にもう一度表示した時刻は開始の一時間前を指している。いくらビップとはいえ、紛争が勃発する寸前の状況を易々と公演の後回しにしてしまうカリーナの余裕っぷり、そして無神経さに、エクトルは呆れるのを通り越して、感服していた。この分だと、教団の戦艦が到着する方が早いだろう。これからのことを考えると、手汗が止まらないので、アルバムを呼び出し、スナップショットを漁ることで暇を潰すことにした。エクトルはこの年になるまで二人の特髪者(とくばつしゃ)を担当している。

一人目は、超促成毛根の九頭竜族(ヒュドラ)。船の竜骨を大至急調達したいという注文に対して請け負った仕事だったせいか、反育毛剤の量の計算に間違いがあり、薬剤の散布が途中で途絶えてしまった。そのせいで、次々と突き立つ鋼鉄を越える硬度とゴムのような弾力を持った毛髪を避けきれず、右腕を持っていかれた。バックアップ用に調教された再生腕がなければ、エクトルのキャリアは数年間ストップしていた。

二人目は、大陸規模の巨髪族(ユグドラシル)。生い茂る自身の毛髪に喉を詰まらせ、窒息死しかけている髪の主が救助されたのは、救難信号が途絶えてから、二十日後のことだった。散髪によってその主の毛髪生態系にしか存在しない生物種の二割が絶滅するという結果から、千を越える自然保護団体と万を越える製薬会社から抗議の声が上がり、エクトルの弁護士は現在でも対応に追われている。

この年齢で、A級特髪者を二人も受け持ったエクトルは、それを誇りにしてもいいはずだった。だが、銀河の広さがそういった意向を彼の中で押さえつけていた。毛髪がここまでの価値を持つようになった領域は、銀河の中でもほんの一部に過ぎないことを、その広さの感覚は告げる。持っている若さの百倍を使っても、散髪士の持つ価値を銀河全体に認めさせることができないという確信が、エクトルの胸に不思議な諦観を抱かせていた。

門の開く重厚な音の一端が、不意に彼の足場を駆け抜けていった。仕事が始まろうとしている。

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